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護憲派との遭遇と「憲法改正『北風と太陽』戦略」

憲法と護憲派である自分に一片の疑いもなし

少し前のことになるが、いわゆる護憲派の集会に紛れ込んだことがある。主たるテーマは「安倍独裁政権によって憲法が脅かされる!」というものだったが、行ってみて分かったのは、護憲派にとっていかに「憲法体制」が心地よいものであるか、ということだった。

体制に抱かれているというのは、こうも気持ちがいいものか。憲法を守る側にいる限り、絶対的な正義でいられるとでもいうかのような会場の雰囲気。憲法と、それを守る自分に一片の疑いもないといった会場の人たちのムードにはあっけにとられるばかりだった。

そこでは、あいちトリエンナーレの「不自由展」にも出品されていた「護憲俳句」の作者、つまり図書館報に掲載されなかった件で裁判を起こした原告の女性も来ていたのだが、「なぜ、選考では評価された私の俳句が掲載されないのか。これはおかしいと思うんです」と述べており、その態度は自然ながらも堂々たるもので、これはこれで驚いたものである。「いやー、ね、大した句じゃないとは思うんですよ。選ばれたのも不思議なくらいだけれど、載らないとなるとちょっと残念でねぇ」みたいな態度ではないのだ。

その時に私は「……これが『改憲俳句』だったら、選考の俎上にも乗らないし、排除されたところで『まあ政治色強すぎて、作品とは言えないもんな』と思っただろうな……」と思わずにはいられなかった。改憲俳句だったらまず選考にも通らないだろうし、表現の自由を争うといったって、人権派弁護士が助けてくれるはずもない。

憲法体制は、護憲派にとっては寝心地のいい布団のようなものなのだなと感覚的に理解した。永遠に、この布団にくるまれていたい。ほころんでいても気づかないふりをして――。

「北風」戦略では改憲できない(かも)

それに気づいたときに、「ああ、今までの改憲派の攻め方では、この城は落ちないな」と思った。「北風と太陽」の寓話そのままで、いくら「厳しくなる安全保障環境に対応できない」「押し付け憲法だ」「もう穴だらけだぞ」「自衛隊をどうするんだ」「宗教かよ」などと北風を浴びせても、いよいよもって布団にしがみつくだけ。「この布団をはがされたら、もっと寒いじゃないか!」というわけだ。「もう破れてんですよ」と言っても、「これ以上、破かないで! 今のままで十分暖かいじゃないの」と抵抗する。

護憲派は「反体制」を唱える人たちと重なっていると思うが、一方では憲法体制という体制側にいる。その安心感は、改憲派の私には得られないものだ。自衛隊を、文字通りに読めば憲法違反の存在に追いやったとしても、自分たちが体制側で安心していられることの方が大事なのだ。沖縄を、米軍に差し出したとしても。でもそれも、彼らの考えの中では仕方のないことなのかもしれない。もっと大きなものが得られるのだから。

そして、護憲派が蛇蝎のごとく安倍政権を嫌う気持ちも理解できた。暖かい布団で快適に過ごしているのに、その布団をはがしにかかるまさにその人物だからだ。もし憲法が変われば、護憲派は「体制」から放り出される。「明日からは暖かい布団で眠れない!」 その恐怖は計り知れない。

こう置き換えれば、安倍支持者も護憲派の気持ちが分かるかもしれない。支持者は、安倍政権はおかしい、変えろと言われたら抵抗するだろう。あの手この手の倒閣運動には嫌悪さえ示すだろう。同様に、護憲派にとって改憲運動はまさに「体制打倒運動」に見えているのだ。しかも70年も続いてきたのである。だから必死で抵抗する。

「修繕」としての憲法議論へ

でも彼らだけが悪いのではもちろん、ない。70年も続いてきたぬっくぬくお布団の威力は絶大だ。実際には、基地問題や横田空域といった「日米安全保障体制」と密接である憲法(9条)であるにもかかわらず、護憲派も改憲派もどちらかだけの変更を求めてきた。まさに綱の引っ張り合いで、互いにいがみ合ってきた。護憲派と改憲派は拮抗するのではなく、「共通点を見つけて一緒に取り組む」ことによってしか、事態を動かせないのではないだろうか、と私は思い始めている。

私自身も、改憲派として護憲派には北風を吹かせ続けてきた。「なんでこんな大事なことが分からないんだ」「いつまで金科玉条のごとく掲げておくつもりなのか」「もはや宗教じゃないか」と。だが、彼らにとってみれば憲法は70年、疑いなく自分を包み、日本に平和をもたらした(と彼らが考えている)暖かい布団であり、もはや愛着もあるのだ。

私にとっては打破すべきものでも、相手にとっては大事なもの。ならば、「ある人たちにとっては大事である」ことを踏まえたうえで、話を進めなければならない。破棄せよ、破り捨てよといえばいうほど、護憲派の布団を握りしめる手は強くなる。そこでいうべきは、こういうことなのかもしれない。

「穴が開いてることは、それだけ愛着のあるあなたならわかっているはずですよね。誰がくれたものかは異論があるでしょうが、あなた方が大事にしてるのはよくわかるし、私も恩恵を受けているのは確かですから、せめてそのほころびを繕って、より長く使えるようにしませんか。その穴をふさぐことで、機能性も高まるし、より快適になるんですよ」

いわば、修繕である。

こちらとしては、本当は自主憲法制定が筋だと思っているが、どうしても今の憲法を大事にしたい人たちがいるのもわかった。70年たってしまったのも事実だ。なので、とりあえず機能に難のある(つまり「穴」の開いている)9条を繕う作業を一緒にやれないだろうか、ということだ。それによって、基地問題も動く(かもしれない)。こちらも自主憲法制定から9条改正までずいぶん譲ったのだから、少しくらい譲歩してほしいものだ。他でもない、(皆さんが大事にしたい)憲法のためなのだ。

改めてそんなことを言いたくなったのは、この本を読んだから、もある。

すごく面白い本なので、詳細はまた別途。

安倍改造内閣がいよいよ「改憲シフト」になったようだ。護憲派は北風に押し切られて身ぐるみはがされるか否か。改憲派の多くは「9条加憲」には本心では賛成していない。多くが望まない、「ただ改憲したというだけ」の憲法改正に至るのは、国民にとって不幸としか言いようがない。9条加憲では、またぞろ「次の段階の改憲論」が出るのは火を見るより明らかだ。

それならば、改憲派はもちろん、護憲派の「憲法を重んじたい」気持ちも反映されるようなものにした方がいいのではないか。

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