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《世界史》ルクレツィア・ボルジア

こんにちは。
Ayaです。
昨日までの6回は画家8人まとめましたが、今日はルネサンス期の代表的な女性としてルクレツィア・ボルジアについてまとめます。

歴史好きな方はもちろん、歴史に関心があまりない方でも、織田信長はご存じでしょう。その生涯(実弟への粛清、並外れた戦略、非業の死)にそっくりな人物がルネサンス期にいました。チェザーレ・ボルジア(1475〜1507)です。
織田信長とチェザーレ・ボルジアはともに冷酷無比な権力者として描かれることもありますが、その実例が実弟や妹の嫁ぎ先への粛清でしょう。織田信長が妹お市の方の嫁ぎ先浅野家を滅ぼしたように、チェザーレ・ボルジアも実妹を戦略結婚に利用し、結婚相手を殺害しました。その妹が今回取り上げるルクレツィア・ボルジア(1480~1519)です。

チェザーレ・ボルジア
果敢な軍事活動、冷酷な政治判断等で残忍な人物とされるが、マキャヴェッリは『君主論』で理想的人物と評している。

ルクレツィア・ボルジア(1480~1519)

ルクレツィア・ボルジアは1480年ロドリーゴ・ボルジア(当時枢機卿。後のアレクサンデル6世)とその愛人との間に生まれます。兄弟には長兄チェザーレ、次兄ホアン、末弟ホフレがいます。基本カトリック教会の聖職者は妻帯することは許されませんが、当時はロドリーゴのように公然の秘密で愛人を持ちこどもをもうける聖職者も一定数いました。その公然の秘密のこどもを縁戚の者として登用することもままあったようです。このことがチェザーレとルクレツィアの人生を左右することとなります。
ルクレツィアは成長するにつれ、その美貌がもてはやされ、温和な性格も相まって”天女”と絶賛されました。

ピントゥリッキオ『アレクサンドリアのカタリナに扮したルクレチィア』
『ボルジアの間』に描かれたルクレツィア。後世に描かれたものが多く、確かな肖像画はないが、その美貌は当時からもてはやされていた。

1492年父ロドリーゴが教皇に選出され(アレクサンデル6世)、ルクレツィアの兄弟たちは要職に任命されます。そして戦略結婚の駒としてルクレツィアの嫁ぎ先を決定します。
結婚相手はミラノの名家・スフォルツァ家の一員ジョヴァンニ・スフォルツァです。二人は1493年結婚します。
しかしボルジア家はスフォルツァ家から距離を取り始め、利用価値がないと判断、ジョバンニの暗殺を計画します。このことを察知したルクレツィアの警告で、ジョヴァンニはローマから逃亡します。
アレキサンデル6世はジョヴァンニに娘との離婚の承諾を得ようとしますが、ジョヴァンニはこれを拒否、さらにルクレツィアを父アレクサンデル6世と兄チェザーレとの近親相姦で告発します。結局ボルジア家の圧力に屈したジョヴァンニが自らの性的不能を認め、ルクレツィアとの婚姻が破棄されます。
この離婚騒動の合間に、ルクレツィアは父の侍従との間の子を生んだといわれています。これは6月から12月まで騒ぎから逃れるため、修道院に身を隠していたことからでした。翌年2月には愛人の侍従も暗殺されてしまいます。本当にルクレツィアの隠し子なのかは謎ですが、このこどもはジョバンニとなずけられ、父の庶子として育てられることになります。
ジョヴァンニとの婚姻無効が認められたルクレツィアはナポリ王アルフォンソ2世の庶子アルフォンソ・ダラゴーナと結婚します。
そのころ、長兄チェザーレの謀略はだれにもとめられない状態になっていました。なにかと歯向かったり、女性関係でもめていたすぐ下の弟・ホアンを1497年強盗の仕業に見せかけて暗殺してしまいます。

ホアン・ボルジア
実は生年に諸説あり、チェザーレの兄とされることもある。末弟ホフレの妻をチェザーレと取り合い、もめていたといわれている。孫にイエズス会3代総長がいる。

長兄の行動に恐怖を覚えながら、ルクレツィアは1499年ロドリーゴを出産します(1512年夭折)。幸せな夫婦生活を送りますが、1500年夫アルフォンソが暗殺されてしまいます。この暗殺はやはりナポリと対立していたフランスとの同盟関係を強化していたチェザーレによるものでした。路上で襲撃され、大怪我を負った夫を懸命に看病したルクレツィアでしたが、彼女が席を外した間に夫が暗殺されたといわれています。
アルフォンソが亡くなると、チェザーレはルクレツィアの3回目の結婚を画策します。今度の相手はフェラーラの名門エステ家のアルフォンソ1世でした。1502年ルクレツィアはフェラーラに輿入れします。
3番目の夫アルフォンソ1世はチェザーレから距離を取り、ルクレツィアとの間に多くのこどもをもうけます。ルクレツィアは義姉イザベル・デステの夫と不倫関係でもありましたが、夫アルフォンソ1世との仲は良好でした。

3番目の夫・アルフォンソ1世
軍人として多くの戦役に参加、当時最先端の大砲を駆使したとされる。姉には当代一の教養人と謳われたマントヴァ侯妃イザベラ・デステがいる。

一方、ボルジア家の崩壊は1503年のアレクサンデル6世の崩御で始まります。アレクサンデル6世はマラリアで亡くなりましたが、同時期にチェザーレも感染し倒れていたため、ボルジア家秘伝の毒薬カンタラを敵対者に盛るつもりが、間違って自分たちに盛ったと噂されました。どうにかマラリアから回復したチェザーレでしたが、父の敵対者だったユリウス2世(ラファエロの雇用主)が権力を把握していたため、逮捕されてしまいます。チェザーレは逃亡し各地で転戦したのち、1506年スペインで戦死します。享年31歳でした。
この兄の訃報を伝えられたとき、ルクレツィアは毅然と対応していました。しかし、夜になると彼女の部屋からかすかな泣き声が聞こえたといわれています。
実家の権勢が衰えたルクレツィアでしたが、夫アルフォンソ1世はそのままフェラーラの女主人として遇し続けました。ルクレツィアは慈善活動などに従事し、1519年女児を出産後亡くなります。享年39歳でした。
ルクレツィアもチェザーレもその血は現在まで伝わっています。

ルクレツィア・ボルジア、まとめ終わりました。生前から兄と近親相姦の噂があったりで悪女とされるルクレツィアですが、織田信長の妹お市の方と同様、兄に振り回された感が否めません。戦略結婚は当たり前の世の中でしたが、結婚相手を殺すってね…さすがにひどいのでは。
ルクレツィアについて知ったのは、塩野七生著の『ルネサンスの女たち』を読んだときでした。イザベル・デステ、ルクレツィア・ボルジア、カテリーナ・スフォルツァ、カテリーナ・コルネールを取り上げた作品で、カタカナアレルギーの私に世界史の面白さを教えてくれた本です。塩野七生先生と言えば、『ローマ人の物語』ですが、私はいつ完読できるのだろう…。

ルネサンスについてのまとめ、7回終わりました。まだまだ興味深い人物がいますが、きりがないので()
明日からはオーストリアのハプスブルグについてまとめたいなと思っています。イギリスやフランスと違って王朝の交代がないので、どこまでにするかが迷いどころ…。

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