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《聖書-18》最後の晩餐

こんにちは。
Ayaです。
律法学者たちの反発を買い、田舎に引っ込んでいたイエス一行でしたが、
過越祭を迎えるにあたって、エルサレムに戻ってきます。
過越祭はモーセの出エジプトを祝うユダヤ人にとって重要な祭典です。

弟子たちは何も知りませんでしたが、イエスは自分の運命―受難をすでに予知していました。

エルサレム入城

イエスがラザロを蘇生させた話はすでに人々の噂となっていました。
なので、イエス一行がエルサレムに到着すると、人々は

「ホサナ(筆者注:アーメン)。
 主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」

ヨハネによる福音書
12-12

と大歓迎しました。この大歓迎は反イエスの律法学者たちの危機感を煽ることとなったのです。これは”受難”の始まりでした。

ジョット・ディ・ボンドーネ
『エルサレム入城』

イエス、神殿から商人を追い出す

エルサレムに入城すると、イエス一行は神殿へ向かいます。その頃の神殿は商人たちが集まり、市場のようになっていました。
しかし、イエスは激怒し、商人たちを鞭でうち、

「こうかいてあるではないか。
『わたしの家は、すべての国の人の祈りの家とよばれるべきである』
ところが、あなたたちは、
強盗の巣にしてしまった」

マルコによる福音書
11-17

と非難しました。イエスのあまりの剣幕に商人たちは恐れおののいて、立ち去りました。

エル・グレコ
『神殿から商人を追い払うキリスト』

皇帝への税金


イエスの神殿での振る舞いを聞いた反イエスの律法学者たちはいよいよ彼を冤罪に陥れることを決めます。
彼らの一部が信者のふりをして、イエスを褒めたたえたうえで、


「ところで、私たちが皇帝に税金を納めるのは、律法に適っているでしょうか、適っていないでしょうか」

ルカによる福音書
20-22

と尋ねます。「適っていない」とイエスに言わせ、皇帝への反逆罪の濡れ衣を着せるつもりだったのです。
勿論、イエスにもわかっていました。銀貨に誰の肖像が刻印されているかと彼らに聞き、皇帝のものだと答えさせると、

「それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」

ルカによる福音書
20-25

と答えました。彼らは黙ってしまいました。

当時の銀貨
2代皇帝 ティベリウスの肖像が刻印されている。

ユダの裏切り


エルサレムに戻って来たイエスの行動は、以前のものとは比べようもないくらい激しいものでした。これは”受難”を予知していたからの行動でしたが、弟子たちも困惑していました。そのなかにイスカリオテのユダもいました。
ユダはイエスからの信頼が厚く、教団の会計係を任されていました。そんな彼がいつからイエスに不信を抱くようになったのか、聖書にははっきりと書かれていません。
こんなエピソードがあります。
ある日、イエス一行はラザロの家で食事をとっていました。するとラザロの姉妹のマリアが高価な香油で、イエスの足を拭い始めます。
この香油を売って、貧しい人々に寄付するつもりだったユダは、マリアにされるがままになっているイエスを批判します。すると、イエスは、

「このひとのするままにさせておきなさい。わたしの葬りの日のために、それを取って置いたのだから。貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

ヨハネによる福音書
12-7

というのでした。
このエピソードからもわかるように、ユダは現実主義者だったのでしょう。きっとイエスをユダヤ民族の自立を導てくれる存在と思い、彼の教団に加わったもののと考えられます。しかし、イエスは神の教えを説くのみでユダヤ民族の民族的自立については何も語りませんでした。ユダはそんなイエスに不満を抱くとともに、
―このひとは、本当にメシアなのだろうか。
という疑心に苛まれていきます。
そして、仲間の目を盗み、反イエス派のもとを訪れたのでした。

イエス、弟子の足を洗う


ユダの裏切りに勘付いたイエスは、自分に残された時間はわずかであることを悟っています。弟子たちとの夕食が始まると、イエスは行動を起こします。
たらいに水をくんで、弟子たちの足を洗い、手ぬぐいで拭い始めたのです。弟子たちはこのイエスの行動に戸惑いましたが、イエスは「断るならあなたがたとわたしは何の関係もないことになる」と主張したので、弟子たちはされるがままになっていました。

フォード・マドックス・ブラウン
『ペトロの足を洗うキリスト』

弟子たちの足を洗い終えると、イエスは



「あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのようにいうのは正しい。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」

ヨハネによる福音書
13-13~14

と自分がいなくなっても、弟子たちが互いに支えあうようにさとすのでした。

最後の晩餐


こうして夕食が始まりましたが、イエスは


「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」

ヨハネによる福音書
13-14

と爆弾発言をします。弟子たちは信じられず、食卓は騒然とします。

レオナルド・ダ・ヴィンチ
従来の作品ではユダだけ光輪がなく、手前に描かれることが多かったが、レオナルドは全員に光輪を描かず、ユダに金袋を握らせるだけの表現としている。


イエスのとなりに座っていたヨハネが「その者はだれですか」と問うと、イエスは「わたしがパン切れを浸して与えるのがそのひとだ」と答え、ユダに渡します。そして、

「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」

ヨハネによる福音書
13-27

と迫りました。ユダはパン切れを受け取ると、逃げ出しました。
一番弟子を自認していたペトロは「わたしはどんなことがあってもあなたを裏切りません」と誓いますが、イエスは、

「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう」

ヨハネによる福音書
13-38

というのでした。

ゲッセマネの祈り

食事を終えると、イエスはペトロ・ヨハネ・ヤコブを連れて、ゲッセマネの山に登ります。ここで祈ることがイエスの習慣だったのです。ふもとに弟子たちを残し、イエスは一人で夜通し祈りました。

「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」

ヨハネによる福音書
17-1

いくら自分の運命を受け入れたとしても、やはりイエスに死への恐怖がないわけではありません。これから待ち受けているだろう受難を乗り越えられる力を与えてくれるよう願い出たのです。人間としてのイエスと救世主としてのイエスの葛藤が伝わってきます。

ジョルジョ・ヴァザーリ
『ゲッセマネの祈り』



ふと弟子たちのほうを見ると、彼らは睡魔に負け、眠ってしまっています。そんな弟子たちを情けないと思いつつ、イエスは


「正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたが私を遣わされたことを知っています。私は御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にもあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです」

ヨハネによる福音書
17-25~26

と信者たちへの加護を祈るのでした。

ユダの接吻

祈りを終えたイエスは弟子たちを引き連れ、下山しました。
行き先にはユダが律法学者たちやローマ兵を引き連れて待ち伏せしていました。
ユダはイエスに接吻しました。イエスと似ている小ヤコブと間違えないためです。ユダの合図に、ローマ兵は一斉にイエスを取り囲みます。

ジョット・ディ・ボンドーネ
『ユダの接吻』
怒ったペトロはローマ兵のひとりの耳を切り落とした。それをみたイエスは叱り、治したのだった。

こうして、イエスは囚われてしまいました。弟子たちも散り散りに逃げ出します。

今回はここまでです。
なぜユダが裏切ったのかー。これは永遠にわかりません。前にも書きましたが、ユダだけガラリヤ地方出身ではなく、イエスたちと求めていたものが違ったのかもしれません。『かわいさあまって憎さ百倍』ともいいますが、自分の理想と違ったイエスの存在を、ユダは許せなかったのでしょうか。
超人的なエピソードばかりのイエスですが、ゲッセマネの祈りを見ていると、人間的な面もあったんだなと思わせてくれます。

こうしてイエスは、いよいよ"受難"のときを迎えるのです。

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