背中を押される
耳がかゆい。
駅のホームで耳を引っ張っている。
さすがに耳かきを使うのは気が引ける。午前十時ではまだ人も多く、これだからおじさんは、と思われたくない。
しかしかゆい。
痒みが拷問なら、掻くとは拷問の中にある快楽か。拷問がないと快楽にたどりつけないのがやっかいだ。
営業のカバンの中に忍ばせてある耳かきを取り出して今ここで思い切り掻いてしまいたい。
私は耳かきが好きだ。複雑に曲がりくねった耳の穴に小さな耳かきを沿わせ、奥に向かって進んでいく。
頻繁にしてしまうので血が出るのが悩みで、いつか限界まで我慢し、思い切り掻けるような日がくれば良いな。
耳かき動画で詰まりに詰まった物がみるみるキレイに取れて行くあの快楽。自分でもマイクロスコープを購入したいが、はたして自分で掻きながら映像を見る事ができるものか。
できれば耳かきは一人で楽しみたい。
「お客さん。良かったらどうですか」
キオスクから声がする。
長いです。よく取れます。
キャッチコピーが書かれた張り紙の下には、ひじまである耳かきが銀色に光っている。
「長っ! 長すぎませんか?」
キオスクのおばちゃんの笑顔。
「長いですよね! でもこの長さで、後ろに重心がかかって、テコの原理で上側の物も良く取れるらしいの」
確かに、耳かきでは下側は取れやすいが、上側や、骨の裏側の部分が取れにくく苦戦する。
「この長さなら何とかカバンにも入るな」
「折りたたみができるといいんですけどね」
「今無いなら仕方ないしな」
「そうですね。今無いからね」
「重心だけの問題なら、重りをつけて短くてもいいのにな」
「なるほどね。でも出るまで待つのもねえ」
「出るまでは待てないからな」
ブツブツ言いながら支払いを済ませる。
「今ちょうど誰もいないですよ」
ホームが無人になっている。向かい側には人がいるが、向いのホームからわざわざ耳かきをしていると見咎める人もいないだろう。
では、とそのアルミ製の耳かきを耳穴に突っ込む。確かに、長さの分がちょうど良い重りになって扱いやすい。
「ね?」
おばちゃんが何か言っていた。夢中になり過ぎて聞いていなかった。
「お客様の背中を押せて良かったです」
うん、背中を押してもらって良かった。助かったし有難いが、今はそっとしておいて欲しい。キオスクから離れ、ホームの端に移動する。
ホームではスーツの女性が電車の来る方向を睨んでいる。
人が来たからといって、今や耳かきを止める事はできない。気持ちは悪いだろうから距離を保つ。
ちゃんとね、私は理性もあるのですよ。
会社で毎日上司から嫌味を言われても、若いОL達から陰で笑われても、こうして小さな快楽でやり過ごしてまた生活を回していく。
女性がキオスクで買い物をしている。
おばちゃんと話して笑っている。
今日は良い天気で、ホームの端にいると日差しが当たって気持ちが良い。
至福の時間を感じる為に目をつむる。
目をつむると音ってよく聞こえるよな。アナウンスの放送、電車が走る音、駅前のパチンコ屋の自動ドアが開いてジャラジャラ音がし、一瞬でドアが閉まり聞こえなくなる。
音が遠くなる。
やり過ぎたかな、とうっすら目を開け、回りを見る。
おばちゃんがキオスクから出て来ていて、顔が近い。
「毎日つまらなそうだったもんね。人助けだと思ってんの。人は楽しいのが一番」
礼を言いかけて目が見えなくなる。
「だからね、できるだけ背中を押すようにしてるの」
目は見えなくても問題ない。元々、耳かきとは目で見えてはいない。手と耳の感覚でやっていくもんだ。
目が見えないとはいえ光は感じとれ、視界は黒ではなく白だった。
近づいてくる風圧。
「人をね、幸せにしてあげたいって思ってんの」
おばちゃんが耳元で叫んでいる。
「楽しい時が1番」
白の世界の中に黒い物が近づいてきている。
背中を押してあげたいって思ってんの。
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