22

 その後、買い物を終えた多希とゆらは、ボーリング場で暇を潰して寮への帰路についた。
 まだ門限まで時間があったので、バス停を手前で降りて森を散歩しようと誘ったところ、ゆらは快く承諾してくれた。
 学園の敷地の外側には、森を縫うように遊歩道が整備されている。
 クヌギやニレ、白樺の大樹。道端にはジュズサンゴの赤い実や、ペチュニアの白い花。夏前のこの時期の森が、一年で最も色取り豊かで、多希はとても気に入っている。
 涼やかに吹き付ける山の風に髪を揺らしながら、二人は肩を並べて緩やかな傾斜を歩いてゆく。

「うーん、気持ちいい場所ですね」
「でしょ? ここを散歩するのも今年で最後かと思うと、寂しいな」
 感慨深げに、多希は呟いた。
 先程から左手が、ゆらの右手の近くを行ったり来たりしている。ここで手を繋いだら、彼女は拒絶するだろうか。沙和とは自然な感じで繋いでたから、さり気なく握れば案外、平気かも知れない。
 ──もういいや、行ってしまえ!
 心臓を高鳴らせながら、勇気を出して左手を差し出した。
 その寸前、ゆらは荷物が重かったのか、脇に挟んでいた魔術書を右手に持ち替えてしまう。空振りだ。
「くう~~」
「どうかしましたか?」
「ううん、何でもない。その魔術書、いつも肌身離さず持ち歩いてるんだ?」
 多希は悔しさを押し隠して、話題を転化した。
「そうですね。いわば、わたしの生命線ですから。この魔術書がなければ、わたしはただの凡人です」
「実用性のあるお守りって感じ? ソロモンの……何て言ったっけ?」
「レメゲトン。別名、ソロモンの小さな鍵。イスラエルの第3代国王であるソロモン王が記したとされる、魔術書です」
 ゆらは簡潔に説明した。
「結構、貴重な本なんだよね? イギリスから持ってきたの?」
「いいえ、この本はうちの書庫に保管してあったものです。19世紀に書かれたレプリカだと聞いてます」
「何だ、レプリカなのか」
 あんなに凄い魔術を使うものだから、てっきり本物かと思ったのに。
 すると、ゆらは形の良い眉を吊り上げて言った。
「写本を馬鹿にしないで下さい。ソロモン王が記した原書とは確かに別物ですが、魔術書としては紛れもない本物です。実際に悪魔を呼び出すことだって、送還することだってできるんですからね」
 第一、ソロモン王が記した原書は、現存しているかどうかも疑わしい。最も古いとされる大英博物館に展示されているレメゲトンですら、17世紀に書かれたレプリカなのだ。
 もっとも、同じ複製といっても著者が違えば中身も違う。単に文字や図形をそのままコピーしただけの代物は、魔術書としての価値はゼロに等しい。世の中に出回っているレメゲトンの九分九厘は、そういったただの書物である。
 しかしながら、長い歴史上において、数多くの魔術師たちの手によって編纂された写本のなかに、ごく稀に本物の魔術書が生まれることがある。自分が手にしている一冊も、実力のある魔術師によって生み出された『本物の写本』である。

 聞いてもいないのに、ゆらは滔々と語った。
 どうやら多希の一言が、彼女を触発してしまったらしい。
「この魔術書は、昭和の初期に、わたしの曽祖父がイギリスで手に入れたものです。19世紀の終わりに、ポーランド人のトマス・ツェブラという人が書いたものだと言われています。早熟の天才魔術師。わずか20歳の若さでこの世を去ったトマスは、レメゲトンに記載された悪魔召還の儀式に独自の解釈を加え、二冊の魔術書『此方の岸』と『彼方の岸』を書き上げました。此方の岸は主に悪魔を召還するための、彼方の岸は呼び寄せた悪魔を送り返すための方法が記されています。わたしが持っているこの魔術書は、彼方の岸のほうです」
「もう片方は?」
 嫌な予感がして、多希は質問した。
「残念ながら、行方が分かりません。2年前に棚橋家の書庫から、持ち出されてしまいました」
「じゃあ、パーティーでばら撒かれた悪魔は、その本によって?」
「そうですね。多分、間違いないと思います。それを行った人物についても、おおよそ見当がついています」
 苦々しい表情で、ゆらが答えた。
「聞いてもいいの?」
「はい。わたしの姉、棚橋れのです」
 黒く塗りつぶされた四姉妹の長女。あの写真の女性に違いない。
 しばし無言のまま、二人は歩を進める。近くでクマゼミが、耳が痛くなるほどの大音響で鳴き始めた。

「つまり、ゆらはその本を追って、学園にやって来たと」
「ええ。わたしのやるべきは、姉の手から魔術書を取り返すこと、ただそれだけです」
 ゆらは頬を硬直させて、首肯した。
「お姉さんは、十二宮のどこかにいるんだよね? どうしてそんなことしたんだろ」
「姉の目的など、知りたくもありません。あの人は裏切り者です」
「事情は知らないけどさ、ゆらの家の人もちょっと酷いんでない? 日本全国にばら撒かれた悪魔を、たった一人で退治して回るなんて無茶もいいとこだよ」
 多希は彼女の身を案じて言った。
 ところが、当の本人はきょとんとした顔で、
「わたし、そんな面倒なことしませんが?」
「へ?」
「ですから、言ったじゃないですか。わたしの目的は、魔術書を取り返すことだって。それ以外の雑事に興味はありませんから。この本は、途中で悪魔たちの抵抗に会ったときの対抗手段として持たせてもらったものですよ」
「だったら、どうして鴻野さんや八島さんを?」
「まあ、行きがかりの駄賃みたいなものですね。それに、次々と悪魔が送還されているのを知ったら、姉も何らかの措置を講じるはずです。彼女の居場所を知る手掛かりが、向こうから転がり込んでくる可能性もありますから」
 ゆらの考え方は、いたって淡泊だった。
 ようは首謀者を誘い出すエサとして、彼女たちを利用したわけだ。結果として、彼女たちがどうなろうと知らぬ存ぜぬなわけだ。
「いくら何でも、それは酷いな」
「被害者からしたら、そうですよね。姉の仕出かしたことに対しては、素直に申し訳なく思います。けれど、どうしようもないんです。覆水盆に返らず。悪魔に憑かれた人間を元に戻すには、悪魔を強制的に取り除くしかありません。そして悪魔を除去すれば、必ず本人の記憶に障害が残るのです」
 万事丸く収める手段はないのだと、彼女は説明した。
「選択の余地なしか」
「まあ、悪魔を放置しておくのも選択肢の一つですよ。ただし数年後、悪魔が力を蓄えた時、身の破滅が降り掛かるのは覚悟しなければなりませんが。長くリハビリに苦しむよりは、数年間の充実した生活を望む人生も、わたしは否定しません」
「たった数年か……」
 多希は口をつぐんで考える。

 自分はどうするべきなのだろう。ゆらに頼んで悪魔を除いてもらうべきか、あるいはこのまま放っておいてもらうべきか。運が良ければ、満知のように後遺症は少なくて済むかも知れない。だが、危険な賭けであることに変わりはない。
「わたしにはあと、どれくらい時間が残されてる?」
「先輩の悪魔は、正義を信条とするアンドロマリウスです。すすんで宿主の体を乗っ取ろうとしない分、成長が遅い感じがします。だから、まだ2,3年の猶予はあるでしょう」
 ゆらは端的に答えた。変にはぐらかされるより、きちんと告知してもらったほうが有り難い。
「じゃあ、ゆらの連絡先教えておいてくれる? わたしが卒業して、ゆらがこの学園を去っても、いつでも連絡が取れるように」
「いいですよ。棚橋家の住所と電話番号をあとで教えますね。そこに連絡してもらえれば、わたしか、妹たちがいつでも駆け付けますから」
「ありがとう」
 多希の視線は、そのとき小道の先に立つ人影を捉えた。

 運動部の誰かがマラソンしているのだろうか。陽が傾き、夜の闇に侵食され始めた森のなかで、その人影は道端の樹木に手を付いて、苦しそうに息を喘がせていた。
 二人が近付くと、髪の毛をポニーテールにした少女が顔を上げた。
 生徒会副会長、養田亜子であった。
「あれ、副会長も散歩?」
 多希が呑気に声をかける。亜子はゆらを見据えたまま、ニヤリと笑った。
「よかった、やっと見つけた。あなたたちが手前のバス停で下りたって聞いて、急いで走って来たの」
「何か用事?」
「どうやら、先輩はわたしに用があるみたいです」
 と、ゆらが静かに言った。その瞳はすでに油断なく、戦いのモードへとシフトしている。
 そうだった、彼女も候補者の一人なのか。
 ひょっとして、満智から昨夜の話を聞いたのだろうか。自分の中にも悪魔がいるかも知れないと疑って、ゆらを探していたのだろうか。
「近藤先輩、すみませんが、この荷物を持って先に寮に帰ってて下さいませんか」
 ゆらが雑貨類が入った紙袋を、多希に押し付けた。
「いや、だけどさ……」
 紙袋を受け取った彼女が躊躇していると、亜子が息を整えながら告げる。
「悪いけど、近藤さん、そうしてくれる? これはわたしと、彼女の問題だから」
「先輩、選択をするのは彼女なんですよ」
「そう、だよね」
 大げさでも何でもなく、亜子は今、いわば人生の岐路に立っているのだ。自らの内に潜んでいる悪魔をどうするか。
 だから自分ごときが、横からしゃしゃり出て妨害をしてはいけない。
 彼女の意志は尊重しなければならない。
「分かった。先に部屋に戻ってるよ。ゆら、気を付けて」
 後ろ髪を引かれながら、多希は二人をその場に残して坂道を上っていった。が、30メートルと行かないうちに、自然と足が止まってしまう。
 ──仕方ないよ。気になるし。
 彼女は方向転換し、森の茂みに身を隠して、二人の様子が窺える位置まで移動した。雨露に濡れた下草も、耳元を飛び回るやぶ蚊も、彼女の好奇心を阻むことはできなかった。



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