12

 とうとう一睡もできなかった。
 朝の5時。多希は早々に学校に行く準備を済ませて、自室でコーヒーを嗜んでいた。
 片側のベッドは、空いたままだ。ゆらは沙和の部屋から帰って来ない。悪魔退治にそれほど時間がかかるとは思えないから、やっぱり彼女と一夜を明かしたのだろう。
「ふしだらな子」
 女同士で、そんなこと。愛し合う男女でやることだろうに。
 いつ彼女が戻って来るかと、一晩中眠らずに待っていた自分の愚かさと、今頃あの華奢で真っ白な柔肌を沙和が堪能しているのだという妄想が、多希を激しく苛立たせた。
 もしかして、これが嫉妬というやつなのだろうか。自分のなかに、かくも狂おしい情動が眠っていたことに、彼女は驚きを禁じ得ない。
 薄暗い窓の外には、今日も濃い霧がかかっている。
 白いもやのせいで鏡のようになった窓ガラスに、目の下にクマを作った醜い顔が映り込んでいた。
「なあ、あんたは結局、何が望みなんだ?」
 多希はその女に向かって質問する。
 決まってる。ゆらが欲しい。
 彼女を独占したい。残りの学園生活を、二人で一緒に過ごしたい。二人で食事したり、お喋りしたり、どこかに出かけたり、肩を寄せ合って眠ったり。
 それから、彼女に愛されたい。あの大きな瞳で見つめられて、好きですの一言を言ってもらいたい。
「でも、それは適わない夢よ」
 ゆらが見ているのは、自分ではなく、自分のなかにいる悪魔なのである。
 仮に彼女が恋人関係を了承したとしても、それは恋愛感情によるものではなく、打算に基づくものだ。
「小悪魔って、あの子みたいな女を言うんだろうな」
 本人は自覚すらないのに、周りがいいように振り回されてしまう。
 悪気がない分、余計にたちが悪いのだ。

 窓に映る醜い顔に耐え切れなくなった多希は、立ち上がってカーテンを閉めようとした。
 背後で、部屋のドアをノックする音が響く。
「ゆら?」
 彼女は踵を返し、急いでドアの鍵を開けた。
 ドアを半開きにして廊下に顔を出すと、そこには幽霊のように顔を真っ青にしたゆらが立っていた。精根尽き果てた様子で、今にも卒倒しそうなほど体をフラつかせている。
「ゆら、平気?」
 多希が手を差し伸べると、彼女はそれを制して無言で部屋に入って来た。
 そして膝から崩れるように、自分のベッドにうつ伏せに倒れたのだった。
 ──確か昨日の夜も、苦しそうだったな。
 魔術を行使するリスク。他者のインナースペースに潜って帰って来るという所業が、彼女自身にいちじるしい負担を強いているに違いない。
「水を、下さい」
 起き上がる気力もないまま、ゆらが手を伸ばした。
 多希はマグカップに水を注いで手渡してやる。シーツに水滴がこぼれるのも構わず、彼女は一息で水を飲み干した。
「ゆら、彼女は悪魔憑きだったの?」
 ベッドの脇に座り、気になっていた質問をする。
「その通りです」
「退治した?」
「とりあえずは。危なかったですけど」
 ゆらの口調からは、微かに後悔が滲んでいた。
「それで、鴻野さんはどうなった?」
 多希は更に突っ込んで訊ねた。悪魔を取り除かれた宿主がどうなるのか、具体的な症例が知りたかった。
「今はぐっすり眠っています。けど、記憶の一部が欠損したのは間違いなさそうです。程度については、何とも言えません。個人差が大きいので、もしかしたら通常生活が送れるぐらいに留まるかも知れないし、もしかしたら言語すら不自由になってるかも知れません。今夜あった出来事については、たぶん完全に忘れてると思いますよ」
「それは、治るもんなの?」
「いいえ。厳しいようですが、治らないでしょうね。記憶喪失ならば、いずれ思い出すこともあるでしょうけど、記憶自体が削除されてしまうわけですから。もう一度、最初から覚え直さなければならないんです」
「この歳になって、それはキツイな」
 もう子供のように脳みそが柔軟ではない。リハビリは相当、過酷なものになるだろう。
「けど、不可能じゃありませんよ」
 ゆらが励ますように微笑んだ。
 それが自分に向けられた一言だと分かり、多希はドキリとした。
「先輩、わたし今日は学校を休みます。眠くて、とても動けそうにないので。学校には適当に言い訳しておいて下さい。お願いします……」
 語尾がぼやけてゆき、すぐに寝息が聞こえ始めた。
 本当はもう一つだけ聞きたいことがあったのだが、止めることにした。ゆらの体には、沙和が使っていた香水の匂いが絡み付いている。それが何よりの証拠である。
「シャワーぐらい、浴びて来なよ」
 多希は鼻をしかめると、死んだように眠るゆらに毛布を掛けてやった。
 もっと嫌な気持ちになるかと思っていたのに、彼女の話を聞いて逆に安堵した。ゆらが目的を持って沙和に近付いたのは明白だし、彼女には気の毒だが、金輪際これでもう、二人が接触することはないだろう。
「今夜のことは、水に流すことにするわ」
 すごく手前勝手な言い草だと思い、多希は自嘲めいて笑った。


 その朝、西の池のほとりで、鴻野沙和が発見された。見つけたのは、たまたまそこを通り掛かった新聞部の女子生徒であった。
 彼女によると、沙和は素裸にガウン一枚という薄着で、両足を池の水に晒して遊んでいたという。話しかけても心ここに在らずといった感じで、「うーうー」と唸るばかり。まるで言葉を覚えたての赤子のような反応だったそうだ。
 おかしいと思った女子生徒は、急いで宿直の先生を呼びにいった。教師と保険医が現場に駆けつけ、すぐに救急車が呼ばれた。彼女は地元の大学病院へと搬送されていった。
 この事件の噂は、その日のうちに学内全体へと広まった。
 沙和が発見された場所が場所だけに、例の光る女の幽霊との関連性が囁かれた。やはりあの場所は心霊スポットに違いない。沙和は幽霊に呼ばれてしまったのだと、オカルト好きな女生徒たちは盛んに騒ぎ立てた。
 だが、真実を知っている多希はどうにも腑に落ちなかった。
 今朝方、部屋に戻ってきたゆらの口から、沙和は自室で寝ていると確かに聞いたのだ。彼女を西の池まで運んだとは一言も言ってなかった。
 疑問に思い、部活動を終えて寮に戻ったあとゆらに確認してみたところ、沙和を最後に見たのは316号室のベッドで間違いないと彼女は証言した。では、ゆらが部屋を出て行ったあと、彼女は西の池まで歩いて行ったことになる。
 記憶を失った直後の沙和に自立的な行動ができたとは思えず、誰かに連れられていったと考えるのが自然であろう。
「別の悪魔が関与してるのかも知れませんね」
 と、ゆらは言った。

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