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茶色いランドセル

他人と違うことを良しとする。

いまはそんな自分の性格を十分認識している。
けれど、小学生時代ではまだ、そんなことは考えていなかった。
それどころか、周りを気にし大人の目を気にし、失敗や間違いが死ぬほど恥ずかしく、目立ちたくない子なはずだった。

なのに私は、小学校に上がるとき、茶色いランドセルを選んでしまう。
今でこそいろんな色のランドセルがあるけれど、80年代初めの公立小学校では、ランドセルといえば100%黒or赤。茶色なんて私一人。

どうしてそんなことになったかというと、それは、ただただ私の優柔不断な性格のせい。
祖父母が入学のお祝いにランドセルを買ってくれるというので、家族総出でデパートに行った。そこで私は、同じ赤いランドセルでもどれにするか長い時間大いに悩む。で、困った母が、そこに一つだけあった茶色のランドセルをみつけ、自分もランドセルは茶色だったから(母は私立の女子校出身)これはどう?と言うのである。とにかく母の言うことなら間違いない、と信じていた当時の私は、その一言でそれに決めた。
好きな色だったわけでも、こだわりがあったわけでもない。

そして茶色いランドセルは当然のように、クラスの口の悪い子達に「う○こ色のランドセル」と言わせた。いじめっ子の標的にもなりやすかった。
ところが私はどうも、色のことはともかく「自分達と違うから」ってイジるのはどうよ?と思っていたような気がする。その証拠に、ランドセル自体は好きでもなかったけれど、あれを毎日しょっていたことを辛い思い出として思い出すこともないし、周りのイジリに屈することもなかった。

なるほど、その頃からすでに意思のない同調を嫌う資質はあったらしい。
ただ、パッと見ただけで分かる形(=みんなと違う色のランドセル)でそれを表現することを、優柔不断の果てに他人(母)の言葉に流されて選んでいるというのが自分でもおかしい。

では今、自分があの時に戻っても同じランドセルを選ぶか。
どうだろう。
成り行きでそうなったとはいえ、結果的にとても私らしい選択ではあった。でも、小学校の6年間、私はやっぱりちょっと頑張りすぎた。ランドセルが赤だったら、もうちょっと子供らしくリラックスした時間も持てたのかもしれない。

でも、私は今の私が好きだ。
茶色いランドセルで頑張った小学生の私がいるからこそ、誰もが自分らしく生きることが大事だと大きな声で言える今の自分があるのなら、せめてあの時に戻って、あなたは鎧を脱いでも強いから、時々脱いで休んでいいよ、と伝えたい。

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