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【考察】 失恋映画として読み解く『ミッドサマー』 ①

さて、ディレクターズカット版含め3回観に行った、2020年の映画暫定1位、アリ・アスターの『ミッドサマー』について考察していこうと思います!ミッドサマーはシリーズ化する予定。ネタバレしてるので、未鑑賞の方はご注意を!

🌞全編明るいホラー?

「明るいことがおそろしい」という触れ込みだった『ミッドサマー』。前作『ヘレディタリー/継承 (2018)』のホラー監督という印象もあってか、『ミッドサマー』は前代未聞の全編青空ホラーなんて謳われていましたが、鑑賞後の素直な感想は「ん?ホラーではなくない?」でした。監督は「ホラーと言うと観る人を選んでしまうから」と言ってましたが、確かにこれは別にホラーじゃない。百歩譲ってサイコスリラー。(※ちなみに、『ヘレディタリー』のこともホラー映画じゃないと言っていますが。)

では一歩も譲らないと何になるのかと言えば、それはもう間違いなく失恋映画です。そもそも監督自身も「これはブレイクアップムービーだ」と言っているしね。
カルト的なホルガ村の風習とかゴア表現とかあるけれどそれは本質ではなく、紐解いてみれば、ミッドサマーは実はどこにでもありそうな、恋愛映画だったのです。

壁画の意味とかルーン文字とか、mise-en-scene的なものは詳しい解説をしている人がたくさんいるので、今回は「失恋映画としてのミッドサマー 」にフォーカスして分析していこうと思います。

🌸コアのストーリー

さて、主人公ダニーの視点に立ってこの映画を抽象化してみると、そのコアとなるストーリーはこんな感じ。

「とても悲しい出来事があって誰かの支えを必要としていたのに、頼れる唯一の人だったはずの付き合って4年になる恋人はちゃんと自分と向き合ってくれている感じがしないし、その彼氏の友達とも別段仲がいいわけでもなくむしろ鬱陶しがられているような気がして、一緒に旅行に来てもなんとなく疎外感を感じていた。
するとそんな自分のつらさを理解できるという人が現れる。けれどその人のこともすぐに信頼できるわけでもなく、どうすればいいのか分からなくなっていたところで彼氏が他の女とセックスしてる現場を目撃。
ついに限界を感じ、恋人との関係に終止符を打ち、自分を受け入れようとしてくれる人のことを選ぶことにしたのでした。」

こうみれば、至ってシンプルな失恋話なのである。

ここでいう恋人はもちろんクリスチャンのことだけれど、「理解を示してくれる人」はペレとホルガ村、「恋人と別れる」ことは、ダニーが自分の意思でクリスチャンを生け贄として選ぶことに繋がる。そして「とても悲しい出来事」に家族の死を選ぶところが、なんともアリ・アスターらしい。(これは前作『へレディタリー』にも繋がる部分なので、詳しくはまた今度)

つまり、この映画は上手くいっていない恋人と、新しく現れた良い感じの人との間で揺れる主人公を描いた恋愛映画、となるわけだ。実際、アリ・アスターはインタビューでこう語っている。

当時、恋人と別れたばかりで、それを描写する手段を探していたんだ。僕は自身の体験をストレートに伝えることが苦手で、必ず何かしらのフィルターを通す必要があるからね。

監督自身の失恋体験とは、きっと上記のストーリーのようなものだったのだろう。そしてそれを表現するためのフィルターがホルガ村。でもそのフィルターの作り込みがすごすぎて、それだけで芸術作品に仕上がってしまうレベル。だから表面的にはウィッカーマン的なフェスティバルホラーとしても観ることができるけれど、本質的にはこの映画は監督の言う通り「フォークホラーの皮を被ったブレイクアップ・ムービー」なのだ。

逆に言えば、このどこかで聞いたことありそうな失恋話を抽象化し、緻密な作り込みのフォークホラーと掛け合わせて、あそこまでの作品に昇華させたことがこの映画の何よりすごいところ。自分の失恋体験を映画にしようと思ったって、普通はこうならないでしょ。アリアスターすごすぎる。いや、すごいを超えてやばい。

🐻ダニーの心象風景としてのホルガ村

ではそのフィルターを通して監督は何を描きたかったのかといえば、それは「失恋を経験したダニーの心象風景」と言えるでしょう。アスターは、インタビューでさらにこう語っている。

僕が映画で描きたいのは、映画で描かれる外側の世界と、登場人物の内側の世界が完全にマッチすること。[...] 僕はその人がまさにその瞬間に感じる "当事者の感情の大きさ" を映画で表現したいんだ。
『ミッドサマー』でも主人公の感情の大きさに相当するサイズで物語を描きたかった。[...]それはセットやロケ地などを通じて物理的な世界を作り上げるだけじゃなくて、キャラクターの感情、つまり"内なる風景"を作ることを含んでいるんだ。

私が解説するまでもないが、つまりホルガ村での出来事それ自体は必ずしも重要ではなく、アスターは恋人との別れを経験したときの主人公の感情のスケールを、「ホルガ村の夏至祭」という手段を用いて描いたのだ。可能性として、あのホルガ村での一連の出来事が全て、ダニーの現実と向き合うための心理療法的な妄想だった、と言ってしまうことさえできるかもしれない。
また、アスターはこうもコメントしている。

恋人との別れの映画を新たな設定に当てはめて、今までの別れの映画の定石だったカタルシスを起こさせるエンディングにオペラ的なひねりを加えるのは楽しかった。恋人に捨てられた主人公が、付き合っていた間に集めた様々な品が入った箱を燃やして、最後には自分自身を解放するんだ。

アスター自身メロドラマが好きだとも語っているが、ラブコメなんかでは別れた恋人への気持ちに決着をつけるために、思い出の品を捨てる/燃やすシーンがたまにある。アスターはラストシーンでクリスチャンとの思い出BOXを燃やす代わりに、ダニーの「恋人との別れは思い出と一緒に恋人ごと燃やしてしまったような気持ち」を表現したのだ。

余談ですが、個人的にはアスターが恋人と別れた際に、彼自身も恋人との思い出の品を燃やし、そしてきっとその中に元恋人からもらったテディベア🧸があったんじゃないかと密かに思っています(笑)。
クリスチャンが着せられたクマはもちろん北欧神話的に意味のあるモチーフだけど、それだけでなく、アスター自身が元恋人からもらった思い出のテディベアを燃やしたことからラストシーンの着想を得たとか、アリ・アスターなら言いかねない…

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さらに、ダニーの家族が死んだ日は雪が降っており、スウェーデンに行った日が夏至だとすると、冒頭のシークエンスから「2週間後に出発」という話があったパーティまでは約半年くらい時間が経っていたことになる。が、演出的にはそこまで時間が経ったようには感じない。
この「冬」もおそらくダニーの心象風景で、実際に半年経ったかどうかよりも、家族が全員死んだことが、ダニーにとっては寒くて雪に閉ざされて真っ暗な「人生の冬」のように感じたのだろう。また、家族が死んでからの半年間、記憶がないくらい呆然と過ごしていたと見ることもできるかもしれない。

💐メロドラマ的要素

「フィルター」の作り込みに異常なほどのこだわりを見せているだけでなく、メロドラマとしての完成度も同じく抜かりないのが本作品。

恋人との別れをシンプルに描いただけでなく、ダニーとクリスチャンの性格や、2人がすれ違っていく様子、そこに現れる新しい男ペレ、そしてダニーの心境の変化など、「別れにいたるまでの過程」もとても丁寧に描かれている。ディレクターズカット版のほうがよりこの辺がわかりやすく描かれているので、人間ドラマを味わうならディレクターズカット版がおすすめ!

今回は『ミッドサマー』の失恋映画としての全体的な構成についてみてきましたが、次回はこの作品のメロドラマ的要素について、具体的に掘り下げていこうと思います。



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