真綿の荊#2

 五、六年ぶりに赤いコーデュロイのパンツを引っ張り出した。七分丈の秋冬物。
 通院のための着替えだったけれど、今までどうしても着る気になれず、かと言って捨てる気にもならなかったそれをどうして着る気になったのか、私にもわからなかった。
 たった一度しか穿いたことがなかったパンツ。最初に着たのはもっと寒い時期で、暗い赤を基調としたレギンスと合わせて穿いたことも鮮明に覚えている。

 その私を見た前夫が「似合わない」と嘲笑ったからだ。

 私は、自分の服装のセンスというものに全く自信がない。理由は簡単で、物心ついた頃から母に「お前はセンスがない」と言われ続けたからだ。母は私に普段着としても多くの服を買い与えたが、「服を買ってやろう」と言われて外出して私の希望が叶ったことはほとんどない。
 私は赤黒白の三色のどれかでシンプルか少々背伸びしたデザインを好んだが、母はPINK HOUSEやアツキオオニシのような少女らしいもの、大きなアップリケが付いた子供っぽいものを私に着せることを好んだ。ピンクとフリルと花。私と母の趣味は真逆のところにあった。「これがいい」と黒い服を握った私に母は言うのだ。

「お前はセンスが悪いんだからお母さんの言うとおりにしてればいいの」

 その言葉は私の個性を高い所から叩き潰し、「好きなものを好き」ということすら奪い去ったのだ。私が自分の好きな服を着られるようになったのは、大学に入って県外に住むようになってからだった。私は年に五日も帰省したかどうか怪しいが、帰省するたびに母の「またそんな服着て。似合わんて言いよるやろ」という言葉を聞くと、吐き気がするほど嫌いなフリルとピンクとアップリケの服を押し付けられたものだった。
 誤解しないでいただきたいのだが、人様が着る分には全くそんなことは思わないし、かわいいとさえ思うのだ。だが、自分が着せられると思うとどうにもダメだった。妥協点はゴシック系の服だったが、母は不満そうだった。
 こうして私は、お洒落とは縁遠い人間になっていったのだった。もちろん、まったく服を買わなかったわけではない。けれど、センスに自信がなかった私はモデルをしている友人に自分の好きな色を使った服を選んでもらって買っていた。フルコーディネイトで。それを着ているときは安心できたのだった。センスがいい友人に選んでもらったのだから間違いがないと。結局、私の意志というものはそれほど重要ではなかったのだ。私の中でさえ。
 たかが服。されど服。
 こんなに振り回されているのは滑稽だが、たかが上っ面の布切れに私はただひたすら絶望していたのだった。

 結婚して、一年して引っ越しをした。それからすぐ妊娠をしたので服にかけるお金はない。私は二、三枚のマタニティ服とこれまで着ていた服を破れるまで着まわしながら、安い時を狙って服を買った。年齢のせいだろうか。その頃からナチュラル系のデザインに好みが移っていたし、動きやすさ重視でジーンズを穿きまわしていたので誰からも何かを言われることがなかった。もしかしたらみんな何か思ってて言わなかっただけかもしれないが、それはそれでありがたかった。服装に煩わされるのはもう御免だった。
 そんなある日だった。よく利用していたサイトで暗い赤の七分丈パンツを見かけたのだ。そのパンツを着たモデルさんは、溌剌と通りを歩いている。その笑顔、お洒落を心から楽しんでいるお茶目な表情。
 その写真を見た時に、私はそれに釘付けになった。このズボンは、私の気分を明るくしてくれるんじゃないだろうか。
 秋冬物セールの対象だったのですぐにそれを買い、届いた次の日曜日に私はそれを初めて身に着けたのだった。その私に、前夫は言ったのだった。

「なんそれ、さすがに似合わんやろ。もうちょっと考えた方がいいんやないん。そんなん着る年でもないやろ」

 私はその場でパンツを脱ぎ、ジーンズに履き替えた。
 それから、そのパンツはタンスの奥深くに数年もしまわれることになったのだった。

 赤いパンツにひざ丈の黒い靴下、茶色のショートブーツ、グレイを基調にした長袖のTシャツにお友達に編んでもらったピンクベースのストールを着た。こんなにコ-ディネイトを考えたのは何年ぶりだろう。自分の好きなように、だれの目も気にせずに。
 通院の運転をしてくれた父も、帰ったら起きてきた息子も、何も言わなかった。
 それでいいのだ。私が私らしく私が好きなものを着ることが大事なのだ。
 母から離れて、また一つ手に入れた自由だった。

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