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物語の中にある、感動要素。

気づけば9月。

現在進行中で書き留めている短編小説が、ここ数日、ペンが思うように走らなくなった。

心の乱れだろうか。はたまた、焼けつくような夏の猛暑で脳がドロリと溶けてしまったのだろうか。考えても考えても、思考が回らない。
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これは...停滞期...。
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いつも思い悩むときは、場所を変える。

少し散歩に出かけたり、窓を空けて部屋の空気を入れ替えたり、音楽をかけたり。
しかし、それでは飽き足らずにもっと遠くへ行きたいと身体が叫んでた。

身体が行きたいと思う場所へ連れて行ってあげる。
このちょっとめんどくさい作業が、わたしにとっては無くてはならないのだ。

私は、ノートとペンと本をリュックに押し込み、これ以上出ないだろうスピードで自転車を漕ぎ、気づいた頃には森へ向かっていた。

山の峠を越えるのは中々容易ではない。絶対に自転車では登れない急な斜面を、ぜーぜーはーはー、肩で息しながら進んでいく。

日が傾き始めた頃、ようやく到着した。

家の近くにある森は、一人では足を踏み入れると、もう二度と帰ってこれないような鬱蒼とした奥深さを感じる。


少しずつ歩みを進めていく。360度、全方位から聴こえてくるセミの声、ヒグラシ、遠くには野鳥の歌い声。湿度を感じる小川の音。この森にいるのは、ただ私ひとりだけなんだと全身で感じた。

森の中心で、ゆっくり瞼を閉じる。

身体中の五感が研ぎ澄まされていく。更に聴くことに神経を集中させると、複雑な音の違いや木々がサワサワと擦れる音までハッキリと分かるようになる。私は、森と一体化した。

立ち込める森の匂い、空気、様々な条件が揃って、五感が研ぎ澄まされたとき、不思議なことに天から言葉がハラハラと降ってくるのだ。

雨のように、あまりにも自然に。

この感覚は、友人に伝えても中々分かってもらえないが、“身体が心地よいと思える場所に身を置く” ということを、大人になった今でも大切にしている。

森の小道で見つけた、草花たち。
人がこの森に立ち入らなければ、永遠に出会うことはないだろう植物たちが、この場所でそっと息をしていた。
指で触れては壊れてしまいそうなくらいの繊細さとその静かな佇まいに、私は完全に心を持っていかれた。

物語の中にある感動要素

話はタイトルに戻るが、世の中には、感動作が山のようにある。でも、感動作でもない作品の中に感動するシーンがあるものが好き。簡単に言うと泣かせようとしている作品よりも、ふとした場面や言葉でうるっとする作品の方が好きと言うことだ。

意外と、生活していても同じようなシーンに立ち会うことがよくある。気づかずに見過ごすことも、きっとある。

小説を書く人間として、もっともっと人生経験を積まなければならないと強く自覚している。
綺麗な面だけではなく、目を伏せたくなるような人間のリアルさ、愚かさも、きっとどこかで小説の題材になるだろうから、常にアンテナを張っている。

思いもよらない瞬間に、「アイデア」は私に降りかかってくるのだ。
それを見逃さないように、しっかり受け止めて自分の言葉にして表現できる人間になりたい。

日没も過ぎ、森へ出る頃には抱えきれないくらいの言葉が天から降ってきた。生き急ぐように最後の一滴までノートに書き留めた。

そして帰宅したときには、体にまとわりついていた沼のような淀みはなくなっていたのだ。嬉しい悲鳴だ。

私はまた、いつものようにペンを走らせた。



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