アニメ映画版『ジョゼと虎と魚たち』鑑賞雑記~文学史上、元祖にして唯一の車椅子ツンデレ物語!?~2021.01.23

アニメ映画『ジョゼと虎と魚たち』を観た。
なお、2021年1月22日現在、日本国内での上映はほぼ最終週に入り、
多くの映画館で上映終了間近となっていることをお断り申し上げておく。
まず、劇場公開に先駆け、秋口に映画館で初めて予告編を見た時の印象について。


愛らしく、涼やかで、今風の若者の雰囲気を取り込んでいて一見して親しみの持てる魅力的なキャラクターデザイン。背景美術もこのうえなく美しく、流れる楽曲も朗らかでテンポ良く、全編から明るく爽やかな印象を受けた。
関西弁というか大阪弁と言うか、日ごろ耳に馴染んでいる音とビミョーなズレはあったのだが、アニメ専門の声優ではなく、タレントを起用した声も瑞々しく若々しいもので大変好感が持てるものであった。
が、しかし、同時に、この明るく軽やかで輝くような画面の印象は、30年以上前に初めて田辺聖子の手による原作である『ジョゼと虎と魚たち』を読んだ時の幸福を感じていながら仄暗さが漂う印象、そして実写版の陰鬱とした空気感に続く悲痛なエンディングの印象ともかけ離れているなぁ…と感じた。そのため、これは、昨今流行りの儚い系の感動物語だろうから、無理に観に行かなくてもよいかな…という第一印象だった。

が、しかし、上映終了後、この第一印象ががらりと変わっていた。観に行ってよかった!行かなかったら、絶対に後悔していたと確信している。

更に加えるならば雑誌「ダ・ヴィンチ」誌上において、劇場アニメ化連動企画としてマンガ版の集中連載がなされていたので公開に先駆けてを読むことになったのだが、紙面から受ける印象が、あまりにも爽やかで美しく、非現実的なファンタジー様の印象もあり、これはちょっと原作の雰囲気と違う…と、当初はそれほど注視しておらず、毎回さらっと読み飛ばしていたのだが…
今となっては、なぜ、これほどまでに含みのある物語の膨らませ方を読み取れなかったのか?という忸怩たる思いである。
以下に、劇中のエピソードについてのいくつかの感想と、付随する雑記を記し、当該作品の案内とさせていただければと思う。なお、物語の時系列ではなくエピソードごとに感じた記述であるため、表記の重複と、物語の結末に関わる部分も記してある点をご了承いただいた上で、未見の方が作品をご覧になってみようと思う契機になれば幸いである。

さて、アニメ映画『ジョゼと虎と魚たち』である。
封切りとなったのは2020年12月25日。折しも、コロナウィルス感染拡大防止の手段として不要不急の外出や会合を自粛し、従来であればイルミネーションで華やかに装飾された街中が忘年会とクリスマス関連の買い物に出かける人々でひしめいている時期にもかかわらず、往来は明らかに静粛感がある。
時を同じくして、巷間の話題は並み居るテレビタレント主演の実写映画が束になってかかっても足元にも及ばない圧倒的かつ歴史的興行成績を挙げて人気作品となってロングラン上映に入った『鬼滅の刃』。
テレビアニメ本編をじっくり見たことも原作を読んだことも無い人々の口の端にさえも掛かるほどの圧倒的知名度を持つ『ドラえもん』『ポケモン』『セーラームーン』。これらビッグタイトルの公開に挟まれ、知名度においては決してメジャーたり得ない状況においてもなお、決して少なくない人々が映画館に足を運び、各々が発する感想に触れるにつけ、届く人にはちゃんと届いているのだな…と、まるで制作関係者のような感覚を持ったりもしている。

拙速ではあることは百も承知なのだが、初見で、これは10年後、20年後になっても、その時に応じ、作品鑑賞者に様々な想いを起こさせることができる名作だと感じた。
そして、封切りの後、年を越し、主たる映画館での上映は残すところあと二日ほど…という時期に拙文を記しているのだが、台湾での劇場公開を直前に控え、今なお、監督を始めとする制作者側からのメッセージ、インタビュー記事や鑑賞者の感想や意見が継続的にネット並びに雑誌上に上がっている。
もちろん、上がってくる感想や意見に毀誉褒貶あるのだが、それもまた当然のものである。
アニメ映画に限った話ではないが、映画であっても小説であっても、創作物というものは、創出者以外の他者の目に触れることによってはじめて「作品」=「社会的に存在するものとなる」。社会的な存在となるということは、創作者によって生み出された創作物、即ち「作品」と、それを鑑賞する受け手のという関係性が構築されることが不可欠となる。そして、「創作物たる作品」は唯一のものであるが(それが複製を前提とした書物であっても、創出者が一人という意味において唯一という言葉と同意である)、「作品」の受け手は多種多様な感性・バックボーンを持った個人となる。それは、受け手の数だけ「作品」が存在することになる、ということでもある。
即ち、隣同士に並んで同じ作品を見聞きしても、抱く感想は必ずしも同じとはならない可能性があるということだ。


ジョゼに美術的才能を与えた意味

半身不随で車椅子生活を余儀なくされているジョゼは、原作や実写版では自室で本を読むことが唯一の創造と空想と願望を満たしてくれる心安らぐ時間となっている描写がある。もっとも、それは単純に、自身の障害のことを忘れられる幸福な瞬間というわけではなく、逆説的に言うならば、常に、自由にならない自分自身の身体を意識することから逃れられないということでもある。

原作や実写版には無い設定として、アニメ映画版では、そこに絵を描くことが加わる。加わるというか、それは、物語後半、ジョゼの人生に対する意思を決定付けることになるという意味において相当に大きな比重を占める重要な要素となっている。

身障者、或いは各種の発達障害の人々に、芸術的才能や高度な数物理学的能力が備わっており、その能力を開花させて社会に向かっていくとう、いわゆるギフト系作品は、過去の映画や文芸にも枚挙に遑が無い。
現実にも、そういった人は存在するし、またはパラリンピック出場レベルの身体能力を持つ人々も存在する。が、しかし、ここにおいて留意すべきは、人類の相当数を占める健常者においても芸術的才に恵まれた者もオリンピック出場レベルの身体能力を持つ者もごく僅かであり、それがより少数者である身障者であるならばなおのこと、ということである。
当然ながら、全ての身障者が特殊領域において類まれなる才能を持っているという理屈は成り立たない。芸術的才能を持って世に出る障碍者の姿を描けば、そういた芸術的センスを持ち合わせていない障碍者、あるいは、読書が嫌いな障碍者にとっては、もはや自分のようななんの取り得も無い人間の存在をなんとするか?という問い対面させざるを得ない状況にもなろう。もちろん、障碍者になって、或いは障碍者として生まれてきて後、結婚して子供を産み育てることを人生の重要なポイントとして挙げる障碍者の姿を描けば、そういったものに縁のない、もしくは絶望的に届かない者にとっては、辛いことこの上ないはずだ。
格差社会という言葉はすっかり社会的共有概念となり、日々の生活において忸怩たる思いを持って生活する人々は決して少なくないであろうことは容易に想像できる。が、しかしである。個々人の能力、それも、ごく一部の能力の差異、もっと言えば、他人の人生と自分自身の人生保比較し、その差異をことさらに取り上げて優劣を計ったり、勝敗を付けるというのは、もともとのモノサシが違うのだから本来は無意味なことなのであるが…。

後述するが、ジョゼは身体的障害を物理的な要因としているばかりでなく、劣等感や恐怖感、警戒心や猜疑心等の心理的によっても外界との接触はことごとく避けて生活している。そこには、同居する祖母の意向も当然加わっているのだが・・・。そうとは言うものの、想像の、或いは空想の翼は常に外界に向いており、彼女の私室に配置された画用紙やスケッチブックの紙面の中には、日頃から思い描く街や海の絵が美しく描きとめられている。心の翼は、気の向くまま、好きなところに自由に羽ばたいているのだろう。
劇場映画パンフレットに、監督の言葉として「恒夫と出会う前のジョゼが決して不幸一色ではなかった」とのコメントが流用されているが、まさしく、それなりに楽しい時間(もしくは、没頭することで楽しいと感じることができる時間)を創出していたことが伺える。

アニメ映画版は身障者の実情を捉えていないという指摘があるようだ。
ジョゼの心理に全ての責が集約され、ご都合主義で物語が美しくまとまりすぎているとか、悪人が出てこないとか、身障者が日常的に抱える、物理的・心理的ハンデが描かれていないという指摘である。

『ジョゼと虎と魚たち』が発表された1985年前後を今一度振り返ってみる。
1970年代から1980年代の田辺聖子の諸作品における男女のさまざまな関係性を描く物語の一つとして、外界から隔絶するかのように世間から距離を取って生活する主人公を出す際、どのようキャラクター設定がありうるか?世間から隔絶気味の生活をしつつも、なおかつ、男女の出会いの物語を成立させるために考え出されるべき男女の出会いの舞台装置はどうあるべきか?
夫婦や親子、叔父と叔母、甥っ子や姪っ子、会社の同僚・先輩後輩の関係は氏の作品中にも様々登場する。職業も様々で、主婦から脚本家、自事務員やデザイナー、いわゆる家事手伝いというポジションに身を置く女性も登場する。が、車椅子生活ないしは、なにがしかの身体的障害を持っていると表記される主人公は、ジョゼのみなのではなかろうか?

1980年代初頭は、2020年前後で社会的認知を得て、聞いただけで多くの人がなんとなくイメージできる「引きこもり」というような呼称はなかったように思う。内実は同じ状態であっても、自閉症や登校拒否児童という言葉で括られていたかもしれない。そうした中から、社会から隔絶しつつも、恋愛と結婚、そして男女の交わりを描くことができる年齢設定として成人女性を登場させるとなったとき、そのひとつとして車椅子生活者というキャラクターが用いられたのではないだろうか?

今回のアニメ映画も、原作も、実写版も、身障者の日常生活や、性被害についての現状を描くことを主体としているわけではないというのが私の見解なのだが、車椅子生活を余儀なくされている身障者としてジョゼが登場することで、家族内に車椅子生活者を持つ人であるとか、福祉関連の仕事で日常的に車椅子生活者と触れ合う機会を持つという人にとってはなんら特別のことではないが、そうでない人々にとっては非日常(というか、普段は意識しない別世界)の生活が、まさしく、あたかも健常者のみで構成されているかのような意識の下に過ごす日常生活の中に、車椅子生活の身障者が存在するという状況が表出することになるの。そこにおいて、身障者と関りを持つことと無縁の生活しか送ってきていない人物が、ごく日常的な生活の中で車椅子生活の人と出会い、半ば通い婚のような同棲のような時間を過ごすことで恋愛感情を持ち、付き合い始めるまでを、文字通り、日常的なごくごく普通の一部として描くことができたのは、これ以外の舞台装置はなかなか考えられないのではなかろうか?

アニメ映画版ではキシコの大学に留学したいという夢と希望を持っているとはいえ、原作においても、アルバイトで食いつなぎつつ大学生活を送るという、ごくありふれた22歳の大学生の青年の日常と、親と死別し、祖母と二人きりで世間から隠れるように生活している24歳の(原作では25歳と記される)女性の日常生活が関係性を持つのはどういった状況が考えられるだろう。
原作においては、恒夫の専攻は福祉関連とは縁遠いものであることも明記されていることから、現実の世界であれば、それこそ、奇跡的なまでに絡み合う可能性が低いであろうと思われる。そんな生活の中で身障者を物語に登場させることを特に気負ったりすることなく、二人の出会いという物語が構成される文芸の妙味を味わうことができる。

恒夫との出会いによって、家の外は猛獣ばかり、虎ばかりと、常に警戒心と恐怖、不信を抱く対象でしかなかった外の世界にジョゼは自分の意志で出ていくことを選択することになるのである。これとて、視点を変えて、外に出て他者と交わることを拒絶する引きこもりや身障者とその家族にとっては、自分の生活とかけ離れた世界であり、現実を理解していないという意見が出るのも痛いほど理解できる。

ジョゼの下半身が不自由であることは、原作でも実写版でも「脳性麻痺らしい」という程度の言及がなされるだけで特段、病理学的見地から詳しく触れられることはない。アニメ映画版においては、ジョゼの足先への恒夫の視線を感じ取った祖母が「生まれつきや…」と答えるのみである。

ここにおいて、敢て詳しい背景描写をしないことで、関係性の構築の前段階で無用の緊張感を排除し。日常生活の中でごく自然に身障者と出会う場面を成立させているのである。
また、その都度ジョゼに茶を用意する祖母に対し、ペットボトルにしたらよいのでは?と述べる下りなど、それまで車椅子生活をする下半身不自由者と付き合うことなどなかった第三者的な目で見れば当然のことである。自分では運べないにもかかわらずコップでお茶を出す。一方で、ならば、ボトルにすればいいじゃない?と言う、身障者との生活のイロハ、実情をまるっきりわかっていないと同時に、あっさりとした論理的思考をするような、それまで車椅子生活者と接触を持ったことが無いような若者としての位置付けを再度確認した上で、車椅子の身障者と出会うことになる。ここがこの物語の妙味でもある。


そもそもが、原作においても実写版においても、これは、車椅子を必要とする身障者の生活に主眼を置いた物語とはなっていないことに留意すべきであろう。
ただ、ジョゼを主人公としたのは理由あってのことであろうが、私にはその真の理由を知る由は無いので推測にすぎないのであるが、単独では行動の制限があるから他者とのかかわりを描けるという単純な設定ではないことは一目瞭然である。
詳細な心理描写こそないが、病理学的な解説や、性被害に代表される身障者の置かれた社会的状況の危うさ、関連する法制度解説や恋愛・結婚にまつわる問題は、各場面において登場人物の行動を規定する要素として随所に盛り込まれている。
例えば、作中、虎や猛獣と形容される外界の人々、特に男はジョゼにとって危険因子であるのだが、これは原作と実写版は、割と近い描写となっているが、アニメ映画版は大きく書き換えられている。
例えば、原作で言えば、お乳さわらせてくれたら用してやると言う二階に住むスケベな中年男であり、実写版で言えば、お乳触らせてくれたらゴミ出ししてやるという変態オヤジである。
どちらも身障者である女性が一人で穏やかに生活することにおいて筆舌に尽くしがたい不快感と恐怖を感じさせる存在である。
アニメ映画版では、物語冒頭において、坂道をすべるように落ちてくるジョゼを受け止めた際、恒夫の手が方に触れたことに、強烈なまでの恐怖心と緊張、そして敵意でもって反応し、恒夫の手首に噛みつく。この描写によっり、ジョゼのこれまでの人生における男性ないしは、外部の人間との間にある関係性が決して幸福なものではなかったことが垣間見える。
また、恒夫と初めて海に行くことを決心し。駅にたどり着いて、いざ、券売機で切符を買う段になっての描写である。生まれて初めての券売機の前で操作方法がわからずとまどうジョゼの車椅子が邪魔だと舌打ちする若者。バッグをぶつけても悪態をついて去る中年オヤジに入れ替わっているのだ。
実写版ではジョゼに包丁を振り回させることで外界に対する敵愾心を更に先鋭化させているし、原作や実写版において、同居をしていても、籍を入れるでもなく、両親に引き合わせるでもないという下りに身障者を取り巻く社会認識を見て取ることができる。
また同時に、異なる文脈下において用いられれば明らかな性被害の存在を示す発言となる「おっぱい触った言うてクビにすんで」というセリフだが、原作では、生活の中で常に隣り合わせの危機を匂わせる決して軽くないセリフとして明確な文脈の中において用いられるのだが、これは、多少なりとも笑いのエッセンスを加味された実写版の変態オヤジとのやり取りも同様であろう。
一方、アニメ映画版においては、ジョゼの恒夫に対する立場の主導権を誇示する言葉として用いられるに過ぎない。それは、ジョゼの我儘に対応する困惑する恒夫の姿という。ある種、笑いを誘うシーンでさえあるほどの軽さで描かれているのだが、現実に性被害にあった人にしてみれば、これは、到底、軽く流せるものではないと言うのが率直な感想になるであろうことは容易に理解できる。

こういった指摘を目にすると、ジョゼが日常生活上、常に自身の周囲に感じている「悪意」、別の言葉にするなら、怖い猛獣、虎と形容される、男の存在と、それらに対して抱いている筆舌に尽くしがたい恐怖感・警戒感は、明確な対象者が消え失せ、明言される場面が無くなってしまったことで、確かに、原作に比べて薄まってしまっているように感じる。


浅学故に推測の域を出ないのだが、田辺聖子氏の発表された作品群の中で目を通したもののうち、明らかに身障者であることを表記されている女性との恋愛小説は、もしかしたら『ジョゼと虎と魚たち』が唯一かもしれない。
氏の文学研究に関する文献を目にしていないのだが、これは、外の世界(男や社会)を避ける生活をしている少女が、それまでは恐怖と疑心の対象でしかなかった恒夫という一人の男なる生物を通じて外界の空気に触れる物語を描きつつも、なお、その心の奥底では、外界ではなく、恒夫という想い人との小さな箱庭の中の生活、いや、水槽の中の生活を志向することに幸せを見出す女性の物語を描きたかったのではなかろうかとも思う。

当然ながら、現実の車椅子生活者にとっては、「これは身障者の現実を描いていない」、「身障者の生活にも心理にも無理解な周囲の人々の言動の全てを受け止めるだけの都合の良い主人公」という指摘がなされるであろうことは容易に推測できる。
ただ、それとて、恋人が欲しい、結婚したいと思いながらも結婚できない者が、恋人がいたり、結婚している身障者の姿を見ればどう感じるか。家族から厄介者扱いされている身障者が、家族や周囲の理解を得て生活できている姿を見てどう感じるか。
立場と個人によって物事の見方が変わるという意味では、男女が偶然に出会い、たまたまそれが車椅子の少女だったというだけのことを淡々と描くことが逆に、日常的な視点で身障者と付き合う契機になるとは考えられないであろうか?
アニメ映画版では、過剰な説明無くして、そこが見事に描かれている。車椅子生活者がいかに社会的不利益を得ているのかという、社会構造・法的支援の理不尽さなどを声に出すことは確かに社会構造を変革させるためには必要なことである。だがしかし、余命いくばくもない難病患者を主人公に据えるとか、いかにもお涙頂戴の感動ドラマ的設定ではなく、日々の生活の中のそこかしこで負担を強いられる身障者の姿を畳みかけるように描き出しながら、日常生活の中でごく普通に出会いが始まり、心を通わせ、ついには生きる希望さえも持ちえる状態になるという物語を作り出した作者に想いを致し、作品に評価を与えることはできないであろうか?

そして、なにより特徴的な方針として、このアニメ映画版の主題の一つに、「夢を持つこと」「夢に向かって歩みを進めること」があることは、物語冒頭から恒夫のセリフによって顕在化されている。
では、ジョゼはどうか?ジョゼは夢を持っているのか?恒夫がジョゼの家でのアルバイトを開始した当初のエピソードとして、恒夫に四葉のクローバーを集めさせる場面が登場する。ようやくのことで集めた10本の四葉のクローバーをジョゼの部屋の前に差し出す恒夫。だが、ふすまの奥から帰ってきたセリフは、「なんも起こらんな。~集めたら願いが叶ういうのは迷信やったんやな…」という、やるせなさを含んだ力無いセリフである。
ここに、ジョゼは、普段の生活において、夢であるとか、将来の希望であるとかを一切語っていないのであるが、なにがしかの願望を持っていることが示唆されている。それは、もしかしたら、歩けるようになるという、願望の先にある、もはや奇跡を願うのにも似たものだったのかもしれない。
そのヒントとなるのが、物語冒頭、自室で昼寝をしているジョゼの夢にある。夢の中でジョゼは人魚となり、海底に沈む大阪の街を自由自在に、魚の群れと共に泳ぎ回る。それは、とても幻想的で瑞々しい。
祖母に介助によって、夜の散歩はできるというものの、自分の自由意思で外を出歩くことはできないらしい。また、物理的にも行動範囲はたかがしれたものであろう。そんな生活の中、時に絵を描き、時に読書をして空想の中で時間を過ごしていたのかもしれない。

その次のシークエンスで、この作品の第一の山場とも言うき、二人での海辺への旅行となる。海辺での二人の邂逅のきっかけとなるジョゼのつぶやきに注目したい。恒夫が集めてきた四葉のクローバーを見上げながら「待ってても、なんも起こらんわな…」と。ジョゼは決して現状の幽閉生活にも似た生活に完全な満足をもって生活しているわけではないことが伺い知れるシーンだ。
そしてジョゼは、人生初の一大決心をする。そう、もう、待つだけの女ではなくなるのだ。原作、および実写版では、中盤において、虎を見たかったという事がジョゼの口から語られるが、アニメ映画版は実写版に比較して、明確に、外の世界に、それも、陽光眩しい昼間の世界に出たいという願望が語られる。しかも、昼寝をしている祖母の目を盗んで出かけるという策略まで巡らすまでに逞しい口調で!

というものの、夢と希望に満ちた生活をしている恒夫と対象的に、ジョゼには物語を外部から見るものには、その夢と言うか、願望がなかなか見えてこない。それならば、恒夫の人生に寄り添って穏やかで、心地良い生活、逆説的に言えば、恒夫の夢に付随するかのような人生を歩むことをよしとするのか?そうではないはずだ。ジョゼは、ジョゼとして、一個の独立した人生を歩むべき強い欲求を持っている。そう考えたから故に、制作側は、ジョゼに対して、己の人生の道しるべとなる夢を持たせたのではなかろうか。夢を持つこと、それは、自分自身が、自分の人生を生きることへの希望や目的を見出すことでもあるからである。


多様な感情変化を繊細な描画と丁寧な演出で描く

今回のアニメ映画版で個人的に素晴らしいと感じたのが、微妙でありながらシーンごとに変化する感情変化を表現している丁寧で繊細な描画だ。
ある意味、ジェットコースター的に数分おきにくるくると変わるのではないか?と思うようなジョゼの心理描写の芝居に追従して変化するジョゼの表情が魅力的に描かれていることは言うまでも無い。更に加えて、恒夫のバイト先の同僚である二人の若者の描写も生き生きとしていて素晴らしい。主人公の周囲を固める脇役と言うのは、主人公の決定的な行動を規定する重要な役割か、単純にちゃかして空気を盛り上げるだけの人数合わせのような存在に過ぎないものまで多種多様であるが、今作においては、主人公の重要な行動を促すという意味で、作品世界に無くてはならない配置になっていると感じた。

そして、意外にも、全編を通じて、止め絵にモノローグを重ねて心情を語るという手法を用いる場面はごくごく少数で、心象を語る場面においては、ほとんどが明確なセリフとして発話され、更に加えて、表情豊かな描線で感情の変化を描き出すことで、第三者によって認知可能な描写によって物語が進行する。もちろん、絶妙な音色で背後に流れる楽曲が画面を盛り上げていることは言うまでもない。

中でも秀逸なのが、繊細かつ丁寧な筆致で描かれた表情だ。
特に、場面ごと、それこそ芝居によって秒単位で変化する中で描き分けられた髪の毛、瞳の変化、唇の動きの表現などは、アニメやマンガ表現に興味を持って観ている人にとっては驚嘆に値する見事な筆致であると信じる。一見の価値ありだと思う。また、折に触れてカットインする視線の変化、指先、手首の動きも、日常生活の中における見慣れた動きであるにもかかわらず、決して大げさではないのに、それでいてそこに宿るしっかりと感情の含みを確認できるという細やかな感情表現を実現している。アニメ映画『この世界の片隅に』において、日常的な所作を丁寧に描くことで、物語の登場人物、そこからさらに作品世界そのものに至極の存在感を覚えたという方にはぜひご覧いただきたいと思う。


図書館での、ちょっとした偶然から人生初の絵本の読み聞かせをすることになったものの、経験不足と緊張から意気消沈するジョゼ。自室で絵を描くジョゼのもとを恒夫が訪れる。恒夫の手にあるものは、自作の魚型のランプである。部屋の灯りを消し、ランプの灯りを灯すと、二人は赤みを帯びた幻想的な光に包まれる。それは、深い海の中、あるいは、夕日に照らされる海辺に佇むかのような美しくも穏やかな灯りである。そこで、恒夫は問わず語りに自身の幼少期の話を聞かせる。
偶然の出会いから、祖母との二人暮らしの生活空間に突如入り込んできた異物である恒夫に対する疑念や恐れ、拒否的感情は、ここに至って、当の本人さえも言葉にできない恋愛感情に変化し始めている。二人の気持ちが徐々に近づいていく様子が丁寧な表情変化の描写によって描き出される様は、実に清々しく、見ているこちらの心の内をむずがゆくさせるほど感動的である。


夢を持つことと自立して生きていくという事は、決して同意ではないが、夢を、人生の目標とか生きがいという単語に置き換えててみると、その二つが人生を歩む上で密接に関わっていることは、多くの人々が経験上、知っていることであろう。

では、ジョゼが日頃から胸の内に抱いている夢というか、願望とはどのようなものであろうか?冒頭で、四葉のクローバーを集めただけでは何も起こらないというセリフが発せられるが、彼女が待ち望む願望については物語中盤になるまで詳述されることは無い。が、恒夫と二人で外出をするようになって(それも、祖母の目を盗んでという、保護者との禁を破るという、自我の表出でもある)以降、その表情にも、言説にも、明るさと行動力が宿される。部屋の中から、遠く外界を眺めるだけで一日を終えていた頃とは様変わりしている。
アニメ映画版では、そのジョゼの心の変化が、行動と外見の変化をもたらしているという象徴的な所作として、鏡の前で紙を梳かす場面が挿入される。それは、ジョゼが恒夫を伴って外出する日のことである。そこでも顔はカメラに映らないが、直後の車椅子に乗り込み、出発時に交わす祖母とのやりとりで魅せる瞳の奥に、これまでにない心強さとも言える強い意志を宿していることがわかる。一つの決心をしたという強みと、共に歩むものがすぐそばにいるという安心感、そして、恋心にときめく心情が詰め込まれており、たった数秒のカットながら、実に印象深い。

二人の向かった先は動物園。ジョゼは虎が見たかったのだ。虎舎の前に佇んで交わされる二人の会話において直接的な単語は用いられていないが、これはまがうことなく、ジョゼから恒夫に対する告白だととらえてよいだろう。原作では、怖くてもすがれるような人ができたら、一緒に虎を見たいと思っていた…。という趣旨のセリフで語られ、アニメ映画版においても、この場面は原作を踏襲したやりとりによって物語が進んでいく。
ジョゼは言う。「…一番怖いものを見たかった。管理人となら、見れると思った。…怖くても、すがれるやろ?」と。長年、抱き続けた自らの人生を決する一大イベントとして、大好きな人ができたら虎と対峙する。今、ここに、夢の一つが現実となったのだ。
ジョゼが怯えつつも見据えている虎とは、今作のタイトルとなっている『ジョゼと虎と魚たち』の虎にまつわる部分の直喩でもあり、隠喩でもある。それは、つまり、ジョゼがその本心を曝け出すことを厭わない相手の出現を待ち望んでいたということある。欲しものに手が届いた瞬間だ。


寄り添って生きるという事

寄り添うというのは、相互理解の存在が大前提だが、それは決して同情するだけでなされることではなく、かといって、より深い不幸に同調して共に嘆き悲しむということではない。同時に、無条件になんでもかんでも身代わりになるいうものでもない。なぜなら、個々人の人生はそれぞれ個々人の人生であり、決して代わりに他人の人生を歩むことなどできないのだから…。

今回のアニメ映画版で注目すべきものに、二人の間の距離が近づいていく過程を時間をかけて丁寧に描いている点がある。それは精神的にも、物理的にも距離が縮まっていく描写でり、描写と演出は白眉であろう。物語の進行に際して重要なポイントとなるシーン、まさに、物語におけるクライマックスとなる場面が複数あるが、もっとも感動的なシーンとして挙げられるのが、ジョゼと初めて二人で海に行く場面だ。

海の水はしょっぱいということは見聞きしているが、実際に海に入って、そのしょっぱさを感じたことは無い人生。その後の、恒夫との会話によって、海に行きたい者同士の共感であったと告げられるここで、原作にあるエッセンスである海と魚というモチーフが、物語全体を通じて二人の心を結び付けるキーワードとしてこれ以上ないくらい効果的に設計されている。

そんな海辺のシーン。予告編でも流れていたものだが、車椅子から砂浜に倒れ込んで匍匐前進で波打ち際に進むジョゼの身体を担ぎ上げ、そのまま膝下まで水中に進んだところでジョゼを抱き上げて振り回すという場面は、この動作の流れとフレームワーク、輝く水しぶきを纏いながら満面の笑顔と美しく夕焼けに染まる海と空など、実写映画でもはなかなか描けないのではないか?と驚嘆するほど溢れんばかりの抒情的表現なのである。未見の方には、ぜひご覧頂きたい白眉のシーンである。物語前半でサイコーにステキな場面に仕上がっている。

物語冒頭で、肩に手が触れただけで恐怖と緊張とで恒夫の手首に噛みついたほどの顕著な嫌悪感を示すほどだったジョゼが、いまや、抱きかかえられて満面の笑顔で海を楽しんでいるのだ。その、心からの表情と声に、飾らない、鉄のような警戒心を取り払ったジョゼの本心を見たからこそ、恒夫も、意識せずして単なる身障者への同情ではなく、心から、傍にいたいという想いが芽生えたのだろう。

おっぱい~の下りは、身障者いや、身障者に限ったことではないのだが、女性は常に日常生活の中においてそういった性被害に曝されるという恐怖と常に隣り合わせに暮らしているということの問題提起でもある。そして、それを告発することでそういた被害にあったことを表明することで世間の目から二度めの被害を受けるという更なる不幸を背負い込むという社会の絶望的なまでの現実を暗示している。


出会って好きになった相手がたまたま車椅子生活者だった…という、まさにごくありふれた生活の中にごく普通に身障者が登場するという意味において、逆説的に、これぞ身障者の苦難の生活を描いた作品でございという感動物語とは一線を画し、身障者と共に歩んでいく世界について考えさせることになる作品となるであろうという期待においても秀作であろうと思う。

日常生活の上でのハンデや負荷は言うに及ばず、恋愛や結婚を志向することが健常者以上の障壁となることは論を待たない。故に、恋人を得、更に加えて新たな夢を手に入れて将来に進む前向きな姿が安直過ぎで感情移入したり、共感を得られないというのも理解できる。が、しかし、ハンデを背負って生きる者の負の面に共感はできるけれど、そのハンデを乗り越える或いはハンデと共に生きていこうとする姿に共感を覚えるということは無いのだろうか?それとも、身障者が夢や希望を持て生きていく姿を描いた物語さえも、空々しい非現実的な世界であると感じてしまうのだろうか…?例えば、車椅子生活を余儀なくされていながら、スポーツの世界に未来を見出すという作品は決して多くは無いが存在している。そのような作品であっても、やはり、ご都合主義の出来過ぎた感動物語や美談と受け止められてしまうのだろうか?そこに恋愛や結婚の要素が入ってくると、さらに胡散臭さを感じてしまうのだろうか?私の近しいところに車椅子生活者は存在しているが、私自身は車椅子生活の視線の生活を経験していないので軽々しく発言もできないのだが…


最初に二人で訪れた海の光景は、明るく清々しく、二人の心情、もしかしたら、この先の明るい未来を予見させるような朗らかな光景だったが、恒夫との決別を決心したジョゼが訪れた薄曇りの海は、広がる空も鉛色で風は冷たく、人気もまったく無い。同じ光景でもこれほどまでに心象によって違って見えてしまうものなのか!?と驚くばかりだ。
凍り付きそうになるような悲壮感の中でやりとりが続く「もうすぐ、おらんなるんやろ?」から、「健常者には分からん…」までのシーンは、もう、名作であるとしか評しようがない。もしかしたら、こじれて壊れかけて消滅寸前の二人の関係の修復の最後のチャンスになるかもしれないこの場において、身障者であるジョゼ自身の口から、決定的なセリフが語られるのだ。
「健常者にはわからん…」
この言葉の意味は重い。そして、これほどまでに決定的に二人の関係を終わらせようとする言葉は、ここまでの演出上も、無い。中途半端な慰めの言葉をかけることなど完全に拒絶するかのような、断絶感、絶望感に溢れている。それ以上に、ジョゼが自分自身にも言い聞かせるかのような決定的な言葉だ。
恒夫のアルバイト先から帰る際に「こんなとこ、来るんやなかった。」というジョゼの言葉に続くやり取りの時も同様に、いかんともしがたい断絶感が表現されていたが、そこには、言外に、ジョゼの心に湧き上がっている恒夫に対する嫉妬心という、まだ二人の間にある関係性の持続を匂わせる要素もあったのだが、ここ、ここに至り、すべては消失に向かって進みつつあるのみなのだ。かつて、二人の楽しい思い出を作った同じ海の光景の中でなされる決定的な言葉のやりとりだからこそ、痛々しさや物悲しさがいやがうえにも増幅される。


初めて二人で海に出かけた日、恒夫が日常的に海に潜り、ダイビングショップでルバイトをしていることを聞いて、俄然、恒夫と彼の職場に興味を持つジョゼ。ジョゼは恒夫に伴われてアルバイト先を訪問する。そこに現れるのが恒夫のアルバイトの同僚である舞だ。

舞は溌剌とした足のラインを見せつけるかのようにジョゼの前に現れる。舞の健康的でしなやかに伸びる眩しいまでの脚線の魅力は、拒絶しがたい現実としてジョゼの目に映る。
総じて、露出度が高かったり、脚線美やボディラインを強調する女性キャラクターと言うのは、男性の視聴者の注意を向けさせるために設定される場合が多いのだが、今作においてのそれは、もっと奥深い意味を持つことに気付かされ、見る者がはっとするのである。
ジョゼの面前に現れた舞の姿は、物理的に自分自身には絶対的に欠けているもの、そしてそれは望んでも決して手に入らないということがわかりきっているものを、これでもかと思い知らせるかのように、絶望的なまでの圧力でもって眼前に突きつけてくるのだ。車椅子の目線の高さでは、視線を逸らそうにも、いやというほど、如実に視界に入ってくる。
更に、来店した女性客の彩鮮やかで軽やかな服装、己の可愛らしさを最大限引き出すべく施されたメイク、見る者を魅了すべく振る舞われる身のこなしから、周囲に漂うその雰囲気もまたジョゼにとっては、文字通り目の毒にしかなり得ない。原作でいうところの、恒夫が大学のキャンパス内で目にするセクシュアルで雌虎のごとき女性であり、との姿ジョゼにとっての「女性らしさ」を現実化したものが目の前に溢れている。そのどれもが自分に欠けていることを無慈悲にも実感させるとともに、無視することもできない。そんな女性グループに目をやりながら、自身の身に付けているスカートの裾をいじるという動作で自らの服装を物足りないと感じる表現は言葉に寄らず、作品の鑑賞者に仕草で感情を伝えることを可能にしていることに驚く。
更に加えて、来店客との対応を含め、恒夫や舞との会話で、ジョゼは完全に蚊帳の外であることを身につまされ、その場にい続けることさえもいたたまれないる。
自分の知らない外の世界で生きている者たち、特に、外の世界で過ごす顔を持つ恒夫の姿を目の当たりにすることで、足だけでなく、自分自身に欠けている社会性、もっと言えば、外の世界の人々との関わり合いの中で生きていくという人生経験そのものが欠けているという絶望的なまでの欠格感、劣等感うを抱く。更に、この時点においてもいまだ言語化さえれてはいないように、ジョゼ自身もまだ気づいていない恒夫に対する恋愛感情。そして、その感情とと表裏となる嫉妬心も加わって、もはや店の雰囲気の中での自分自身の存在に耐えられなくなり、、「もう帰る…」というセリフをつぶやいて店を出ることになるのだ。

そして、複雑に絡み合った様々な感情から「こんなとこに来るんやなかった…」とのセリフが出てしまうことで、せっかく構築してきた恒夫との関係性にも、暗雲がたちこめてしまうのである。

この場面で、ジョゼの態度に怒りを覚え、恒夫がジョゼに投げ返る言葉は電車の通過音で遮られている。
恒夫はジョゼになんと言い放ったのだろう?いくつかの感想を拝見している中に、「障碍者にはわからない」と言ったのではないか?という感想があった。なるほど、これなら、物語後半のジョゼのセリフと呼応するという意味で、納得できる意見だと思う。この件については、制作側からの正式なコメントが出されていない以上、推測することしかできないのだが、個人的には、「働いたことのない人間に分からない」とか、「人付き合いから逃げている人間には分からない」、或いは、「我儘ばかり言うんじゃない」、もしかしたら、「障碍者の考えることなんてわからない」といった趣旨のことであったやもしれない。監督の胸の内には、はっきりとセリフがあるはずだと思うが…。少なくとも、店を訪れていたほんの僅かな時間の中で、ジョゼの心の中でとてつもなく大きくなってしまった嫉妬心や敵意、喪失感や疎外感を、恒夫に理解させるための言葉をその時の彼女自身が持ち得ていなかったことは間違いないであろう。


その夜、ジョゼは祖母に頼んで恒夫のアルバイトを取りやめるように電話を入れさせる。そして「もうぐちゃぐちゃやねん…」と、整理しがたい感情を猫に向かってのようでもある独り言を吐露するのであった。数少ない独白と、動きの少ない描写にもかかわらず、ジョゼの心情が手に取るように分かる光景を絵で魅せる演出は白眉である。

最愛の、或いは、もっと即物的に捉えれば、文字通り、身も心も生活そのものをも頼っていた祖母が亡くなり、己の身の処し方を見出せないジョゼ。祖母を失って後のジョゼの姿は原作に忠実かと思う。他の作品であるならば、悲しみに泣け叫ぶという分かり易い身内の死という喪失感の描写を差し込むところであるが、本作ではそうはしない。あたかも、現実世界の葬儀が定型化しているかのごとく、現実を受け止め、淡々と進行していくかのような描写が続く。

薄暗い室内の描写と、声をかけてくる恒夫と視線を合わせないどころか、後ろ姿のみのショットでジョゼの表情は読み取れない。そこに加え、感情を押し殺したと言うか、感情を読み取られまいとするかのような声で「もう、管理人に時給払われへんのや…」のセリフが続く。ジョゼの胸に去来するのは、祖母との別離に続き、恒夫との関係もここで消滅してしまうという不安のような諦めのような、またしても、求めるものに手の届かぬ現実を目の当たりにすることになる現実だ。
恒夫という存在に対する想いが強くなるにつれて胸が苦しくなるのはなぜだ。好きになればなるほど胸が苦しくなる。そして、それを失うかもしれないという得体の知れない不安と恐怖が徐々に巨大化し、心を支配されていく…それを求めたばかりに…。

またほどなくして、祖母の死を契機として一人残されたジョゼに恒夫の心が傾いていることを如実に感じ取った舞は、自身もまた想いを寄せる恒夫の心を振り向かせるべく、ついに実力行使に出る。
恒夫が来春、メキシコに留学することをジョゼに伝えるとともに、「(ジョゼのことを気にかけているのは、恒夫の)同情ですから!」と言い放つ。唯一の支えである祖母を失い、語った夢を民生委員には否定され、重ねて、知らず知らず自分の心の拠り所となっている恒夫との関係をも否定されてしまうジョゼは、口調を強めて不満を言い返すものの、日常生活の維持という面だけでなく、精神的支柱さえも確実に失いかけている現実に向き合わざるを得なくなっているのだ。


しばらくあって、ジョゼの家を訪ねた恒夫の目に映るのは、玄関先に置かれた電動車椅子。それはまぎれもなく、車椅子を押してもらうだけの人生ではなく、自らの意志で前に進むという姿勢・決意の表れだ。それは同時に、恒夫との決別をも示唆している。一方、ジョゼ本人は髪を短くカットし、ボランティア女性に依頼して自室を埋め尽くしていた絵やアクセサリーもまとめて処分してしまったと伝える。かつてジョゼの願望を具現化したようなにぎやかで色彩豊かだった部屋はすっかり落ち着いた、言い換えれるならば、それまでの様相と比較すれば殺風景とも言えるもので、取り立てて特徴の無い一人暮らしの女性の部屋になっていた。

原作では、この来訪でのやりとりが二人の距離を一気に縮めることになる重要なシーンとなるのだが、アニメ映画版ではそうはならない。二人の再度の邂逅は、前出のごとく、恒夫がジョゼのもとを訪れる場面で持て来た自作のランプを重要なガジェットとし、後に、舞が恒夫に対する心情を吐露することでジョゼが動き出すという重要な転換点に譲られることになる。そして、音の出ないラジカセを修理する恒夫に対し、そして観客に対しても表情を見せない後ろ姿で力無く、それでいて、なにかを決心したことをうかがわせるような低い声で告げる。「最後の仕事や。海に連れていけ…」と。背中しか見えない中で、この複雑な感情表現を演じるという演出は凡百のドラマ演出を超えているような気さえしてくる。

もはや、ジョゼの心の内にあるものは、恒夫との別離の決意である。最後の仕事として、再び海に連れていくことを望むジョゼは電車に乗っていても無言のまま、恒夫の顔も見ない。視線も遠い。それは、もしかしたら、一言会話をするだけでも、恒夫との別離を決心した裏にある感情を吐露してしまい、引き返すことを願って溢れ出る涙をこらえるためだであろうか…。
そしてなにより、電動車椅子であることによって、恒夫の介助を必要としていない表現は決定的だ。恒夫は微妙な距離感を持って黙々と彼女の後を付いて歩みを進めるのみ。今回の旅路はジョゼの心情、ジョゼの視点を通じて見える世界であるかのように、今にも雨が降り出しそうなうすら寒い鉛色の曇り空で全天が覆われている。それは、始めての二人旅で訪れたのと同じ海辺でありながら、夕日に輝く波間を恒夫の腕に抱きかかえられて味わった、夢と希望と幸福感を全身で感じることができる空間であり、しょっぱい海水を浴びることさえ心地よく感じたあの海とはまったく異なった光景だ。

ジョゼは言う。もう、ジョゼではない。と。絵本作家とか、夢とか、もうそういうことを言っていられる状態ではないのだ。事務の仕事を始める。とあたかも事務的な報告でもするかのように淡々とした口調で伝えられるその言葉に対し、夢を持っているならあきらめるな!と諭す恒夫。だがしかし、その言葉もジョゼには空虚なものにしか聞こえない。心に言葉は届かない。
一方は、夢を抱いて前に進もうとする者。一方は、手を伸ばしても、あらゆるものに初めから届かなかった!と諦めるしかない絶望的な立場にある者。そして、もうすぐ、おらんなるうやろ?という問いに、恒夫は答える言葉も持たない。
続けて、アニメ版オリジナルであるとともに、他の身障者ドラマでもなかな耳にすることがないと思われるような決定的な言葉がジョゼの口から発せられる。
「健常者には分からん…」
諦念のようでもあり、怨嗟のようでもあり、最後通牒のようでもある二人の関係の終焉を暗示させるのに、これ以上は無いと思われるような決定的なセリフを吐き捨てるように言い放ち、恒夫を振り返ることも無く海辺を去るジョゼ。もはや、頼れる者はいない。一緒に虎を見ることができた恒夫でさえも、所詮は住む世界が違っていたという事なのか…通い合ったと感じていたものは、単なる同情に過ぎなかったということなのか。あの、甘く切ない気持ち、恋心、恋愛感情も幻想にしか過ぎなかったのか…。一人で生きていくしかないという悲壮な決心を胸に海辺を去るジョゼの、その固い決意を示す姿を前に、恒夫は身動きが取れない。


そして悲劇が起こった。しかも、崩壊寸前、いや、もう、海辺で分かれた時に崩壊してしまったでものであろうか、二人の関係にとどめを刺すように、ジョゼの目の前で決定的かつ絶望的な瞬間が展開される。


命を取り留めた恒夫であったが、医師の診断は決して予断を許すものではなかった。仮に快復したとしても、春に計画していた留学は諦めねばならないだろう。それどころか、万が一後遺症によってこれまで通りにの身体機能を回復できないようなことがあったら…海に潜って魚の群れと共に海中を泳ぎ回るという夢、それは恒夫の人生にとってこれまで背骨となっている生きる希望でもあったのだから…。

恒夫のもとに見舞いに現れるジョゼ。この事態の要因となってしまったことへの自責の念はいかばかりのもであろうか。それでも、もしやという最悪の事態を回避し、病室のベッドの上とはいえ、こうして再び恒夫と対面できることは、ジョゼにとって奇跡にも似た幸運に思われているはずだ。このまま、うまく快復してくれればよいという切実な願いと共に恒夫の顔を見る。が、しかし、恒夫の口から語られる言葉は、明るい未来を感じさせるものではなかった。もし、後遺症の程度によっては、二度と海には潜れない。仮に留学できても意味は無い。それどころか、「このまま一生歩けなくなったら…」と、そこまで言いかけたところで、目の前にいるジョゼの存在を思い、恒夫は口をつぐむ。「少し寝るわ…」そう言って頭から毛布を被ってしまう恒夫。病室に沈黙が広がる。

そうなのである。一生歩けないという人生を生きることがどれほどのものか、今、まさに、自分自身がその人生の入り口に文字通り片足を突っ込んでいることによって、その悲劇的な現実を自覚した瞬間である。それは同時に、これまでのジョゼに対する自分自身の態度が、上から目線のただの同情ではなかったか?或いは、健常者と身障者という境界を自ら引いていたのではないか。そして、ジョゼが車椅子の高さから見る世界とはどのようなものなのか…そして、それは、これまでの人生で築き上げてきたものを全て失ってしまう可能性さえある、とてつもない恐怖に支配されてしまうに違いない。スペイン語の勉強で気をまぎらわせることができるレベルの話ではないのだ。
ジョゼは、これまでずっとそんな世界を生きてきて、これからも生きていくことになるのか…と。


これはまた、立場が変わることが行動と精神的な変化をももたらすというシークエンスである。物語風に言えば、入れ替わりの物語だろうか。恒夫は負傷を負うことによって、物理的にも精神的にも、まさにジョゼの置かれた立場に身を置くことになる。日常的な社会生活において、二人以上の人間が関わる中においては、常日頃から相手の立場になって考えることの必要性を説く場面に遭遇することは少なくない。とはいえ、相手の立場に立って物事を考える、行動するということは、そうそう容易ではないことは、経験者にとっては説明するまでも無いであろう。
相手の立場になるということは、同情する、気遣う、思い遣る、気配りする等々の類語がいくつも思い浮かぶだろう。そのどれもが、理屈を超えた人間性とか、人間味と呼ばれる高度な心理的作用のごとく呼称されている。だが、よくよく考えてみれば、そういった思い遣りの類こそ、高度で論理的な思考に基づく行動はないだろうか?自分と相手が置かれている状況から、短時間で様々な情報を読み取り、相手の思考と行動を予測し、その場において最も適切だと判断される行動を起こすのであるから。
ここは、恒夫が事故に遭う直前、海辺でジョゼとケンカ別れのような形でなされた会話と鏡写しとなっている。
そうなのだ。この次のシーンで恒夫自身の口から語られることになるのだが、恒夫は、自分自身がもっと強い人間だと思っていたのだが、そんなことはなかったと自覚したという趣旨のことを述べる。そして、ここで、夢を語り、欲しいものに手を延ばすことがどれほど怖いものであるかを、身を持って知ることになる。


恒夫の入院先からその足でジョゼの家を訪れ、ジョゼに対し、恒夫が現在の状態になってしまった原因を問い詰めるというわけではなく、想い人をめぐる宣戦布告とも、自分自身の意志を再確認するための告白とも、いまだ自ら動き出そうとしないジョゼに対してハッパをかけているとも取れるセリフをぶつける舞。ようやくの決心で想いを寄せる男に告白をしたのに、男は夢も希望も失ってしまい、昨日までの輝きが失われかけている現状に対する悲しみ。そんな彼の心がいまだ自分にではなく、目の前の女に向かっているという嫉妬、そして、このような状況も招く原因となった女に対する怒りと憎しみ。なんとかしたいのに何もできていない自分自身に対する焦燥…胸の内に湧き上がる種々の感情を抑えきれないその声は、打ち震えている。
ジョゼに対峙し、恒夫との関係ををどうしたいのか、夢を諦め、もはや生きることそのものに対してさえも希望を失いかけている恒夫をどうしたらよいのか。どうすべきなのか。なにかしなくてはならない。何をしたらよいのか。恒夫を想う二人の間にあるはずの共通の感情の共鳴を求めて錯綜する想いは、ジョゼ自身の口から発される言葉によって、ジョゼ自身の心をも決することになる。「夢をあきらめたりせぇへん!だって、そぉやろ?」感情の高まりにより、もはや涙声となっているジョゼの言葉に対し、「だったら、なんとかしてみせなさいよ!」と言い残して、舞はジョゼの前から去る。

欲しいものに手を延ばすことの怖さを、再び、それもこれ以上ないくらい絶望的な状況で今再び味わうことになり、自室で呆然とした時間を過ごすジョゼ。その心を動かすことになる、カギとなるのが舞の行動であり、言葉である。脇役でありながら、実にその存在感が生きたものになっている。単なる恋のライバルと言う典型的な恋愛物語のパターンに終止することなく、物語を大きく動かすことになるポジションは、彼女以外ない無いであろう。一見すると、女性同士の想いの衝突というありふれた会話劇にしか見えないが、その根底には恒夫を想う同じ思いがいやがうえにも感じ取れるが故に、舞が悪役になることは決してない。
加えて、「息できるようにいてやる」と、もはや生きる気力さえ絶えかけているかのような恒夫を、病院の外に連れ出す隼人の位置づけも、ここまでのおちゃらけポジションを前提に見ているからこそ、さらに一層生きてくるのだ。

ジョゼは、舞の言葉に鼓舞され、失意の底にある恒夫の心を回復させるべく、一念発起してオリジナルの絵本を描き上げ、恒夫の前で朗読会を行うという計画を思いつく。作品のタイトルは『人魚とかがやきのつばさ』。
それは、人魚と青年の物語を模しているが、実際は、ジョゼと恒夫の出会いの想い出そのものであり、語られる言葉は、そのまま、ジョゼから恒夫への心の応援であると同時に、愛の告白である。人魚は言う。心の翼は、どこまでも飛んで行けるのだからと…。ここまでのストーリーを追うことで、物語の冒頭から徐々に、そして確実に親密度の増したジョゼと恒夫の関係を知る鑑賞者にとってこの物語は、挿入されるジョゼと恒夫の外出の想い出がカットインすることで、人魚と青年、ジョゼと恒夫という二重の物語としていやがうえにも熱いものが心に迫ってくるはずだ。


ここにおいて、ジョゼと恒夫の作中における立場は完全に逆転する。それまでは、背中を押すのは恒夫の役割であり、背中を押される立場にあるのはジョゼであった。それは、恒夫に夢を諦めないで欲しいというジョゼの熱い想いの吐露であり、鼓舞である。あるいは、夢と言う言葉に置き換えてもよいだろう。二人の出会いはもともと偶然から始まったものであり、ジョゼの世話役を引き受けたのも、ジョゼの祖母の思い付き(?)が発端である。そこには、留学資金捻出のための割の良いバイトという意味合いと、足の不自由な者に対する同情もあったはずだ。だが、いまは違う。心の底から、相手・恒夫の心を思い遣っての心によるものだ。

助ける立場の者が助けてもらう立場になり、助けてもらう立場の者が助ける立場になる。ありきたりといえばありきたりと評されるかもしれない表現であるが、実に見事な構成である。長大な説明無くして二人の、いや、それは、この世界にある全ての身障者と健常者の関係、更にはその関係を超えるより大きな世界の中での人と人との関係にも想いを及ばせる実に秀逸な演出であると思う。

夢を諦めないなどと言うセリフは、過去の何千、何万という作品で扱われてきた題材であり、もはやギャグにさえならないと思われるほど陳腐過ぎるものだと思う。しかも、田辺聖子の手になる原作とは明らかに異なるアニメ版オリジナルのエピソードである。ところが、である。全体で2時間にも満たない作品の中の、更に10分間にも満たない短い物語として構成されているにすぎない劇中劇に過ぎないのに、これほどまでに見る者の心を打ち、感動的な物語を紡ぎだすことができようとは想像もしなかった。


届かないと分かっているものは最初から諦める

ジョゼが図書館で絵本の朗読をするきっかけを作った少女から、人魚の住むお城をはどのようなものかを問われ、ホワイトボードに人魚の城を描いていくジョゼ。それを見た司書・花菜から、作品を世に出すべきだと言われて、一瞬、館内が静まり返るような大きな声で無理だと答える。
この時点では、観客がその言葉の意味するところ(内包されたジョゼの感情を)読み取るのことは難しいのだが、物語後半、無理だと答えるその言葉に隠された彼女の心情を知ることになる。

欲しいと思ったものすべてに届かなかった、というセリフによって、あぁ、そうだったのか…と見る者を納得させるのだ。もともとは祖母が用立ててくれたのであろう、キラキラとした小物に埋め尽くされた夢の国のようなジョゼの部屋の中で、日頃から絵を描いているものの、それは、芸術的才能の発露といったギフト系映画のパターン的描写ではなく、こうやって絵を描いている時間が、幸せを感じ続けることができる時間であるという描写だ。
だが、それも、今、この時点で絵を描くという楽しみを感じるという刹那的な行動だからこそ、充足感を得られるに過ぎない。画用紙から目を上げて窓の外に視線を移し、自らの動かない足が視界に入る度に、全ては絵の中だけの夢の世界だという現実を毎日のように突きつけられているのである。そういった日常から一歩進んで絵を描いて生きるという夢や希望を持った瞬間、そこには、それが決して手の届く世界などではありえない、そして届かない世界であるという絶望を目の当たりにすると感じて諦めてしまう、自己防衛的なこれまでの人生の選択が心をよぎる。だから、絵を描いて世界に発信するなんて夢のような話を考えることは無理なのだ。


祖母の死後、相談支援員と民生委員の二人がジョゼのもとを訪れての会話が、重い。もはや逃げ道を完全に塞がれたかのように、どうしようもなく現実的である。それは決して、ジョゼを軽んじて突き放すつもりはなく、現実的で建設的な話をすべき立場にあるも者としては当然の理論である。
だが、一見すると事務的かつ、わずかな時間に過ぎないこの場面も、全編を通じて流れる「夢を持って生きる」と言うことの本質を示しており、後半の展開を考えるとまったく隙が無く、興味深い展開だ。また、現実に、現時点でアニメやマンガ、イラストや小説等々の文芸や各種芸術関係で名を成している人々の中にも、今の立場に至るスタート地点で、目指す仕事を夢のようなことを言ってないで、もっと現実的な仕事を考えろと周囲の人々から諭された経験を持っている人もいるはずである。そのような人々がこうして作り手の立場になって作品を世に出しているのだと考えるとこれもまたメタ的に感慨深いエピソードではなかろうか。

「夢を持つことは素晴らしいことです。」と一方では口にするが…」
それに畳みかけるように、「夢は夢。現実は現実。あんたが一番わかっとるやろ?」と、民生委員は語気を強める。いまや、夢に手を延ばすどころか、意を決して夢を語ったことさえも・非現実的であると断言されてしまったのである。それとて、決してジョゼを糾弾するつもりはないであろうし、職務上はもちろんも、個人の倫理上からも、目に前のいる足の不自由な女の子のことを見捨てるわけにはいかない。同様に、周囲との接触を避けてきているにもかかわらずジョゼを気にかけて連絡をくれたという、ご近所さんの気遣いも含めての言葉である。
「他に誰か支えてくれる人がおるんでっか?」
この一言は決定的かつ、本質的だ。これ即ち、「あなたは一人では生きてはいけないのでしょう?」という反論しようのない決定打を浴びせられたに等しい。もはや、ジョゼに返す言葉が無い。痛々しいとはこのことである。


あたい、幸せやのセリフの裏にある決心とは。

一時は意識を失い、将来も後遺症によって歩行も困難になるかもしれないという状況から奇跡的な回復を見せた恒夫は、退院予定日に迎えに来て欲しいとジョゼに伝える。画面に映し出されるのは、胸元に握られたジョゼの手首のみだ。ジョゼの表情は見えない。
「あたい…幸せや…」
たった一言のセリフしか無い。なんという劇的な構成であろうか!ありきたりドラマであれば、感激の余り、涙を流して退院を喜ぶとともに、その場にいることを望まれるという至福の瞬間を感動的な表情と音楽で盛り上げるであろう。だが、今作においてはそのような演出は無い。
それはなぜか?ここまで物語を見てきた鑑賞者ならば、ジョゼの胸中にある真意を推測できるであろう。現在のジョゼは、必要最低限の人々を除いて、誰とも関わらない生活をしていた頃とは正反対の状態にある。あるがままの自分自身の存在を認めてくれただけではなく、なおかつ、いや、原作においては親に見放され、アニメ版いおいては心の拠り所となる家族を全て失い、もはやこの世界に居場所が無いこと、もっと言うならば、社会に必要とされていないと思わざるを得ない状況のなかにおいて、目の前に存在する想い人から自分を必要としてくれているという言葉をかけてもらうということは、人生における最上の喜びを感じたはずである。
セリフは、嬉しさに声が震えているではないか。それなのに、なぜ、表情を移すことなく、あまつさえ、背後を見送るショットの実としたのか…。
それは、恒夫の退院。それは、即ち、恒夫が再び夢を求めて自分のもとから去っていくということをも同時に意味しているからである。

今回の事故、そして、恒夫への告白そのものである図書館での自作の物語の読み聞かせを経験し、仕事を始め、恒夫の見舞いのために病院を訪れる生活の中で、常にジョゼの心の中にあるのは、愛する恒夫が夢を諦めずに怪我から回復し、退院することである。と、同時に、人との接触を断って、部屋の中で殆ど孤独に近い状態の生活=待っているだけでは何も起こらない、死んだような生活から一歩を踏み出すことができるようになったきっかけとなった愛しい人を失う日の到来でもある。
ここにおいて畳みかけるように、欲しいものに手を延ばすことの怖さから逃れることができない。物語の終盤だというのに、ここにおいてなお、こういった演出がなされるとは、なんと痛々しいことであろうか!

動物園の虎舎の前で、ジョゼは何を思ったか。

そして、退院当日。病院のロビーで待つ恒夫。約束の時間を過ぎてもジョゼは現れない。決して短くない時間待ち続けた末に、一抹の不安を胸にジョゼの家を訪ねる。そこで目にしたものは、身の回りの品々は荷造りされ、いますぐにでも家を出るつもりかというような殺風景な空間であった。舞たちの手を借りつつ、ジョゼの行方を捜す恒夫。松葉杖をついて歩く足取りは軽くない。ジョゼの行先として心当たりのある場所を探し回る。そして、恒夫はある場所を思い出し、駅に向かう。駅員から返ってきた言葉に、ジョゼだと確信する恒夫。

これをジョゼの側から考察してみる。あれほど、自分を必要としてくれているという言葉をかけてくれた恒夫に会うことなく、その日は病院ではなく、動物園に向かう。その動機は何か…。
ジョゼは、動物園の虎舎の前にいた。そこは、かつて、恒夫と訪れたあの虎の前だ。怖い時にすがれると信じた者ができたときに対峙したいと願っていた虎だ。まんじりともせず、ジョゼは虎を見据える、対する虎は、哲学者か賢者のごとき思慮深い瞳でこちらもジョゼを見据えている。一切のセリフが無い場面でありながら、ジョゼの瞳の奥に見える決心と、何かを語りかけるようにジョゼ=鑑賞者を見つめる虎との間で交わされる言葉にならない会話が見る者の胸に迫ってくる迫力は、饒舌なセリフの応酬や劇的な楽曲で盛り上げるだけの作品群とは異なった類まれなる迫力を持って迫ってくる。
欲しいものが手に入ったと思ったら、再びそれを失うことになってしまったジョゼ。だから、再び、今度は永遠に諦めることにしたのではないか。欲しいものに手を延ばさない。そもそも、欲しいと思わない…。これからは、求めることはせず、自身が一人で生きていくことのみを決心することの描写である。たった一人で、いちばん怖いと思っているものを見ることができたならば、全てを諦めよう…。初めて二人で来たときは、来園者の声や姿が目に入ったはずだが、しんしんと雪降る今日はクリスマスでありながら人影もまばらだ。傘もささずに虎舎の前に佇むジョゼに傘をさし向ける者も無ければ、目をくれる者もいない。それでも良いのだという決心。そう、傍らに立ってくれるはずの恒夫はもういないのだ。


恒夫を退院日は奇しくも、家族や恋人と穏やかな時を過ごすというクリスマスの日、というのも、実に象徴的である。封切りの日付がまさに12月25日ということも、舞台演出としては観客を物語世界に引き込み、時間軸を一体化させて経験させるという意味でも最高の舞台だ。幾多の困難、それは、すれ違いと思い込みと交通事故という生命の危機を乗り越え、ジョゼと恒夫二人の心の繋がりを描く物語における最高のクライマックスである。だが、ジョゼは現れない。

部屋はもぬけの殻。身の回りの荷物も箱に詰められている。行き先として思い当たる動物園で、恒夫は、奇跡的にも、降り積もった雪の上にジョゼがいた痕跡を認める。天はまだ見放していなかった。もはや、直感的にこれはジョゼのものだと確信する恒夫。病院では、車いすの女性が通り過ぎるのを一瞬、ジョゼと見間違うシーンが挿入されているが、その、わずか数時間前の描写とは明らかに異な確信のごとき直感。このさきにジョゼがいる!
雪の上にかすかに残されたジョゼの車椅子の轍を追う。だが、その轍も街中の交差点で雪が踏み溶かされてしまい、もはや負うことはできない。畳かけるように覆いかぶさってくる絶望感の中、恒夫は心の中でジョゼの名を叫ぶ。いやそれはモノローグで心情描写をしないという方針の今回の物語で言えば明らかに口に出してジョゼの名を呼んでいると考えた方がよいだろう。
そして、呼応する場面は、わずか数秒の間に、大転換を予測させるに充分なものだ。坂の上でふと停止し、その呼びかけに答えるかのように振り向くジョゼ。二人の心の距離は物理的なものを越えているという、秀逸な描写である。これさえも、幾多の作品で用いられる手法であり、ありきたりと言えばありきたりな表現だ。だがそれでもなお、心が通じ合う瞬間を映像化したという意味において素晴らしいと言わざるを得ない場面だ。この表現を陳腐だと言うなら、新海誠作品などは陳腐の極みということになるだろう…。


再び、雪の坂道を滑り落ちながら断末魔の叫びを上げるジョゼ。だが、車椅子は一向に停まる気配をみせない。それどころか、いよいよ加速していく。坂の下は自動車が往来する通りだ。このままでは間違いなく死ぬ!意を決し、車椅子が転倒するのに合わせて全身をバネにして車椅子から飛び降りる。ジョゼの身体が宙に舞う。ダメか!?しかし、そこに、ジョゼの名を呼ぶ声が響き渡る。恒夫だ。恒夫が全身で受け止めるべく、両手を広げているのが視界に入る。ジョゼは、その胸に狙いを定めるかのように飛び込む。
ここにおいて、ジョゼの危機を救うために現れる恒夫というシチュエーションが物語冒頭と同じように繰り返されている。これをパターン的過ぎると揶揄するのは容易だが、これは、この瞬間、二人が共に歩む人生を再びスタートさせるという儀礼的な意味合いも含まれていると考えるべきであろう。ジョゼは親や祖母や家(のちのエンディングで描写される)といったあらゆるものを物理的に失うだけでなく、精神的にも失ったものは計り知れないほど多い。
そして、一度は最愛の想い人たる恒夫をも精神的に失ったのだ。一方の恒夫においても、まさしく、人生どころか、命そのものを失う寸前までの状態に陥り、夢も希望も根こそぎ失うという人生最悪最低の状況を経験する。そうした喪失の物語の中からほのかな燈明を見出し、二人で歩き始める再生の物語ともとれるのではなかろうか。


恋愛映画には食傷気味だと評する人は少なくないとは思うが、それでもなお、日々、恋愛物語は創出され続けている。それは、人類の歴史において人々の数だけ恋愛物語が存在し、そのどれもが魅力的だからだ。だからこそ、過去百年間の映画、数百年間の文芸、千年をゆうに越える古代演劇や伝説においても、恋愛物語が物語の中の一大テーマとして毎日のように新作が描かれ続けられていのである。ここにまたひとつ、恋愛映画の傑作が加わった。


物語の随所に呼応するエンディング

アニメ版『ジョゼと虎と魚たち』の主題が、夢を持って生きることのすばらしさを主題とするものであるとするならば、別の言い方をすれば、そこで求められているものは、夢を持つ自分のことを全肯定し、ありのままの自分を受け入れてくれる存在である者との出会いの重要性であることは敢て言及するまでも無いであろう。それは失った親かもしれないし、生活を共にする家族かもしれないし、恋人かもしれない。でも、それは個々人によって、また同一人物であっても時により、状況により違うものだろうが…。他者を拒み、他者と自分の境界線を消失して全ての人々の心が一つになることを理想とする物語においても、やはり、最終的には自己は自己として存在しつつ、自らを受け入れてくれる他者の存在を欲するという作品の代表作として『新世紀エヴァンゲリオン』を挙げることができる。パンドラの箱に最後に残ったものは希望であったという。生きていくために必要とされる夢と共有者として語られる人物、共に希望を抱ける人を持つことができるか否か。それはまた、単なる心の共有ではなく、相手の立場に立って物事を見る、考えることができるようになるということでもある。

偶然的な出会いから始まり、紆余曲折の恋愛模様を経験し、幾多の困難を乗り越え、本人も気づかないうちに徐々に通い合う心はその精神の奥底にまで及び、ものの見え方、考え方も変えていく。飾らない、ありのままの自分を受け止めてくれる伴侶を見出す。これこそまさに、恋愛物語の王道パターンだろう。また、現実世界でも、容貌や学歴や資産とは違った尺度で自分を評価してくれる人物との出会いを待ち望んだりするということはあるだろう。好きになった相手が、偶然王女様だったり、魔法使いだったり、異星からの勇者だったりというのは枚挙に遑が無いが、出会った相手が偶然、車椅子に乗っていたという物語があっても良いのではないか?と思えるようになることができる作品だと思うのだ。


アニメ映画版を見終わったあと、決して容易ではない未来を感じさせつつも、前向きに歩みだそうとする二人を祝福するかのような明るく清々しい満開の桜が場面を彩るエンディングは、見る者に最上の幸福感と安堵感を与えるに充分すぎるほどの演出だと感じた。手を伸ばした瞬間に届かないという絶望を身をもって知る哀しさを回避するために、ジョゼのように、最初から手を延ばすことを諦めるというのも一つの生き方ではあろう。手を延ばすこと、期待すること、夢見ること、夢や希望を持つことをしなければ、手に入らなくても悲しむことも無いし、仮に手に入ったとしても、それらを失う不安に支配されることもないのだから。それでもなお、いや、だからこそ、夢を持つことを諦めた者が、夢を持って前に進もうとする姿に感動を覚えるのである。

原作では、ある意味、相思相愛の生活という願望を享受し、この先も永遠に続くことを望むばかりの幸福の絶頂にいながらにして、二人を取り巻く空気はいかにも仄暗く、もはや不可避とさえ思えるような哀しい未来を予感させるという、二律背反の空気感をもって描かれる描写は、まるで一編のフランス映画を観終わったかのような皮膚感覚に近い

実写映画の方が、アニメ映画版より原作に近い雰囲気のエンディングだと感じていたのだが、ここで、二度目の鑑賞時に感じたことがある。原作と実写映画版よりも、原作とアニメ映画版のほうが、より近い雰囲気での幕引きとなっているのではないかというものだ。

アニメ版のハッピーエンドが気に入らないと指摘する方にも想像してもらいたい点がある。
原作は、ホテルの部屋で、いずれは二人の関係は破綻してしまうであろうという仄暗い未来を内包した上での、幸福な現在の瞬間を味わうという場面で終わっている。原作におけるラストの、二人で暮らす生活を魚に喩え、死んだモンとして、絶望的なまでに完全無欠の幸せをかみしめるジョゼの求めている幸福とは、そばにいて欲しい人と一緒に時を過ごすことという、願望としても実に根源的であると同時にとてつもなく刹那的で単純なものである。そして、そこには常に、破綻する未来を内在させていることは作中でも語られている。
実写版は、ジョゼと恒夫の二人の関係が破綻し、恒夫は別の女性と歩み始めるという、別離の物語として描き切っているのだが、最後の最後、それは、恒夫との別離の後、何年かの歳月が流れた末の光景なのだろうか、やや年を増したと思える面持ちで一人で台所に立つジョゼの姿を映し出す。恒夫と別れ、後に年を経て一人で台所に立つジョゼを描かれたのは、視聴者にジョゼは生きているということを見せなくては、この救いようのない不幸を絵に描いたような人生の主人公の存在に耐えられないという制作側の良心だったのかもしれない。これは、その直前のカットで恒夫と別れたジョゼが一人、電動車椅子で去っていく後ろ姿を映し出すカットによって、作品を見る者が抱くであろう、ジョゼのその後の未来に不穏な未来を感じさせたことへの答えであり、救いのショットでもある。ジョゼは一人で強く生きている。その姿を見せることで、ここにおいても決して順風満帆とは思えないものの、未来への燈明を感じさせるという終わり方は、ある意味、ハッピーエンドだとは言えないだろうか?

ただ、同時に、実写版の恒夫が、その後、歩みを共にした彼女と幸せな生活を送っている姿までは描かれていない。一方で、恒夫の嗚咽の描写によって、恒夫の内部で自分自身の罪悪感を薄めるとともに、恒夫の心に楔のように撃ち込まれたジョゼの姿とジョゼと共に過ごした期間が、今後の人生においても恒夫にとって決して忘れられないものになるであろうことをも示唆している。

そう、アニメ映画版が描いているラストシーンが、まさに、ホテルで恒夫と肌を重ねながら、自分たちが死んだモンになった…とつぶやく瞬間を描いて終わっているとしたらどうだろう?実写版での、ジョゼの元を去り、後悔なのか、自責の念なのか、路上で泣く恒夫の姿が描かれる場面の直前で終幕となっていると考えられないだろうか?

アニメ映画版では、物理的にも時間的にも離れ離れで暮らしていながらも再開して幸福な瞬間を迎える。二人の表情は笑顔で満たされているが、二人のこの先の人生が順風満帆であるという保証は全く持って何一つない。それどころか、立ち向かうべき壁が大きく高いことは、仮に身障者でなくても想像はできるだろう。それを、これほどまでに明るく爽やかで朗らかで温かい祝福されるべきシーンで幕引きを図っているのだ。そう考えると、これほど切ない物語も無いのではなかろうか…。冒頭にて、決して安易ではない未来を予感させつつもと記したのはそういう意味である。

ここで、これを踏まえて今一度アニメ映画版を見てみると、下半身不随という苦難を背負って人生をスタートし、偶然の出会いによって恋愛感情を芽生えさせ、親しい肉親との別離の末に、相思相愛の関係になって、遠くメキシコに離れて暮らす中においても恋愛関係が消滅することなく再び、この満開の桜の下で、日常的に会っているかのような笑顔で再開し、満ち足りた笑顔を交わしつつ、からかうような悪態をつき合うという場面で幕が下りるのだ。
この最高の幸福感がずっと続くかもしれないという空気の中で物語が終わる。まさに、絶望的なまでに完全無欠の幸福の絶頂という表現がぴったりだろう。
場面の美しさ、清々しさ、そして、ジョゼの笑顔に引き込まれてしまうとうっかり忘れてしまいそうになるのだが、そう、この後、二人の関係がずっとこのまま続く保証など全く無いのだ。いや、実際、恒夫は劇中において、この世界から消え去る直前の状況に陥っている。恒夫はいつかいなくなってしまうかもしれない…、この関係もいつまで続くのかわからない…という負の想いを常に内包しているという点において、幸福な瞬間は見方を変えた瞬間に醜悪なまでに絶望的な悲しみを内包する瞬間となる。まさしく原作の雰囲気そのままに終幕を迎えていると言えるのではないだろうか?

エンドロールでは、大学を卒業した後の恒夫の生活、絵本作家になるという夢を胸に、新し職場で働くジョゼの姿が描かれる。最後の最後のショットは、手を取り合って、今まさに前に歩みだそうとするジョゼと恒夫の後ろ姿を描き止めたスケッチブックに桜の花びらが舞う。作中で幾度も別離と破綻の危機を乗り越えてきた二人の姿を見てきた鑑賞者にとって、もはや、これをハッピーエンドと言わずしてなんと言おうか!という幸福感に心が満たされる。
人魚姫の物語は、その後は幸せに暮らしましたという言葉で締めくくられているが、こちらのアニメ映画版は、果たしてどうだろう…。

この、映画の鑑賞後に胸に残る一抹の不安…、健常者と身障者との間にある絶望的なまでの壁の存在を描き出してしまった物語の結末はどうなっていくのであろうか…。恒夫は事故によって一度ジョゼの立場に身を置くことになるのだが、最終的に恒夫自身は回復して旅立っていく。ジョゼは新たな夢と希望を胸に生きていくことを決するが、魔法によって身障者の立場を脱するわけではない。果たして、望むべきものを心に宿すということはどういう未来を引き寄せることになるのか?そしてこれこそが「欲しいものに手を延ばすことが、どんなに怖いものか…」というセリフに内包された答えの一つなのではないだろうか?

かつて、『機動戦士ガンダム』の送り手の一人として重要な立場にあった安彦良和氏はインタビューにおいて「ガンダムのテーマは、『人はわかりあえない』ということ」だと述べている。今作におけるそれは、健常者と身障者は分かり合えないというであるだろう。そうだと言い切るのか、それとも、だがしかし、それでもなお…と続けて、二人の、これから先の未来に希望を見出すことができるか?それを鑑賞者に問う作品であるとも言えよう。

物語の進行に際し、そこかしこで笑いを誘うエピソードを盛り込みつつも、見直すことで更に考えさせられるセリフや演技に溢れているだけでなく、見終わった後でも、夢や希望を持つ意味、心と心の繋がり、身障者と、彼らを取りまく社会=観客自身について等々、様々に考えを巡らせる機会になるであろうという、実に見事な仕上がりである。私には書けない。こんな素晴らしい作品は!

誤字・脱字を修正しました。2021.01.27
拙文をご覧いただき、心よりお礼申し上げます。更に加えて、大変ありがたいことに、誤字・脱字のご指摘をお知らいただきました。重ね重ね、お礼申し上げます。それにしても、改めて、これは名作だと思います。できうれば、もっと多くの方にしてもらいたい作品だと思います!

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