『こちらあみ子』映画公開直前に向けて、今村夏子作品を振り返る(20220525)

記憶をたどれば、今村夏子作品との出会いは、こちらあみ子であった。ピクニックとチズさんが収録された文庫本だ。
そもそもの出会いは、広島県出身の作家さんがなにやら文学賞を受賞したということで、地元書店の店頭で新刊を目にした時だった。地元贔屓的な感覚で眺めていたことは間違いない。その後、むらさきのスカートの女で芥川賞を受賞することになるのだが、受賞後、単行本を購入してからの期間は、今村氏の作品に類似した、日常の光景を描いているはずでありながら、どこかしら心が落ち着かず、軽やかな筆致とは裏腹な、時に個人の、時に社会構造の奥底に潜むドロリとしたものを描き出し、読後感になんとも表しがたいざらりとした感覚を残しつつも幻想的で不思議な作品を書く作家、として記憶されていただけであった。
 
しばらく私の心から離れたところに存在する作家であった。が、2021年末になって、ネットで『こちらあみ子』の映画化情報を知ったことで、未読の『星の子』を購入。しかも、『星の子』は2021年の秋、芦田愛菜主演で映画化されていたというではないか!知らなかった!
 
『星の子』は異常と正常、というか、常識と非常識との境界線が曖昧になる感覚。そもそも、この社会そのものがあらゆる事象において明確な区分・差異・境界線を持っているようでいて、その実、突き詰めていけばその境界は曖昧なものとして認識されるということばかりだ。例えば、ニュートン力学と量子力学各々における物質の挙動であるとか、生命と物質の線引きであるとか、異常と正常、常識と非常識との境界線は本来は曖昧なままであり、そうであるからこそ、大多数がそうであるということを根拠とし、「ある程度そうらしい」という推測で成り立っているに過ぎない。
 
例えば、男女の性差などがその代表例であろう。昨今(問題の認識そのものはそれこそ何十年も以前から存在していたことである。ここ十数年におけるインターネット社会において、それまではテレビ出演するであるとか、出版物に茶策を記すといったマスメディアでの発信者的立場にあるもので無ければ容易ではなかった情報発信というか、意見表明が個々人の少数意見が多数意見とフラットな状態で議論の俎上に上がる可能性が高まることでいわゆる「世間」の注目を集めることが可能になったからだと思われる)。
 
『星の子』では、その常識と非常識、異常と正常との境界線が破壊される或いは融合される、もしくは逆転されることでの眩暈にも似た感覚が描かれる。それは、昨日まではこちらが「善」であり「良識」であったはずなのに、翌日には自分の方が「悪」であり、「非常識」でであり攻撃を受ける側に転化しているという状況が描き出される。当事者にさえも理解できないうちに状況が推移し、なおかつそれが絶望的である方向に突き進む世界観はカフカの『変身』『審判』等に見られる。
 
それも、実に些細なやりとりのレベルから、やささやかな事件とも言えないような事件の結果というレベルだったりとして描かれる。裏を返せば、我々の日常生活のあらゆるところに転がっているとも言えよう。この状況の展開、世界の展開常識の転化というのは、定義的なギャグ漫画においては、ナンセンスとしてその主軸とされるものである。
 
そして、カフカ的であるということは、筒井康隆的であるとも言える。己の与り知らぬところで自分自身の社会的立場(自らの接することができる生活空間という意味においては「世界そのもの」的とも言ってよいだろう)が、いつのまにか未知の世界と入れ替わってしまっている恐怖を感じる構成という点では、『コンビニ人間』(村田沙耶香著 新潮文庫)とも共通する要素を持っている。個々人の意識が、群体として機能する集団意識レベルで共感され、あたかも統一された一個の意識であるかのごとく振る舞う時、人間の心の奥底にある際限のない想像力、それに加えて、急速な勢いでダークサイド側に引き込まれていく光景は恐怖さえも感じる。
 
その究極が、目覚めたら自分がムシになっていたとか、わけもわからぬうちに拘束され審判にかけられてしまうというカフカ作品である。くりかえしになるが、常識と非常識、日常と非日常の転化や融合は瞬時に発生し、当事者は(もしかしたら、当事者の中でも本人のみが)その経緯にまつわる実情をなんら説明されることも無く理解する間もなくいきなり「状況」にほうりこまれてしまうのだ。これを恐怖と言わずしてなんと言うか!
 
『むらさきのスカートの女』においても、その常識的なものと非常識的なものとの転化は徐々に進み、ついには衝撃的な結末を迎える。だがしかし、ここで留意すべきは、日常生活の中に特異点のように出現したむらさきのスカートの女という非日常が、いつしか、観察者である「私」の日常に溶け込み、ついにはその非日常であるべきはずのむらさきのスカートの女の存在を取り込み、融合した末、ついには、自分自身がその日常の中に存在する非日常そのものに転化するという筒井康隆や松田洋子級の壮絶な物語を、ごくごく平易な描写で描いている。
 
それ故に、あらすじを読みその結果を知ってもなお、本文を冒頭から、一文字一文字に込められたリズム感や空気感を順を追って読み勧めた上でなくては、そこに描かれている異次元に迷いこんだかのような不可思議な感覚を味わえないだろう。
そもそも、「他人のものを盗むのはやめよう!」「差別をやめよう!」「戦争をやめよう!」「困っている人がいたら助けよう!」と声高に叫び続けていなくてはならないという現実が、人類が生まれながらにしてその生命の起源の奥底に埋め込まれた憎悪しつつも生きていくことと不可分でもある感情ないしは思考の原動力とでもいうべきものについてのすべてを物語っている。「お腹がすいたらご飯を食べよう!」などとは叫ばなくても当たり前のようにあそうするだろうから。
 
それにしても、平易な文章で描き出される描写によって気軽に読み進めることができるとはいうものの、読めば読むほど、異空間というか異次元といあうか、いつの間にか摩訶不思議な空間に迷い混んでしまったかのような感覚を持ってしまう作品群だと感じる。ホラー作品にミステリー要素をも組み込み、なおかつ、不条理極まりない世界を映像化している稀有な作家であれば、伊藤潤二、もしかしたら、うる星やつらにおけるいくつかのエピソードに強烈に発揮されている押井守監督の世界観にも通じるかもしれない。

物語の出だしは、ごくごくありふれた日常風景の描写からスタートしていながら、いつの間にか、常識と非常識の境界線かあやふやになってしまうかのような世界に引き込まれてしまう作品といえば、筒井康隆、星新一に通じるものを強く感じる。別役実の短編にも共通する要素があるだろう。別役作品は舞台化を前提に書かれたものも多いが、それでいて、なかなか映像化が困難だと思わせる空中ブランコ乗りのキキであるとか、風博士など、言ってみれば、「読者が作品を読み終えた時、読者の想像力によって作品が本当の意味で完成する」作品群であり、今村作品ともあらすじを追うだけでは計り知れない深い部分で似通った感覚を味わう。
『こちらあみ子』もまた、一読するととてもビジュアル的ではあるものの、もし、仮に映像化することになったとしたら、果たして可能なのだろうか?という、作品である。筒井康隆の虚構船団などもそうだが、あたかも、超能力が存在する世界でミステリーのネタを探していく感覚。観念的なので、オーディオドラマであれば可能かもしれない。余談になるが、しばらく前に、沼野允義氏の手になるレムの『ソラリス』の完全新訳が出版された折、何十年かぶりにビデオを観直したのだが、ソラリスの海の描写が思っていた以上に少なく、己の記憶の改ざん機能に驚いたものだった。得てして、人間の脳による外界認識とはことほどさように頼りないものなのである。

そして、『こちらあみ子』本文の字面から受ける印象は、完璧なハッピーエンドではないものの、なにか、遠くにある燈明のような、ほのかな希望というか、明るい未来を予見させる構成で幕を閉じる構成も見事だ。松田洋子の『ママゴト』、或いは、『赤い文化住宅の初子』のような、どうしようもないどん詰まり感、救いようのない絶望感(灯りの存在を感じさせるからこそ、余計に闇が濃く感じられる)をこれでもかというほどの圧力で読者に突きつける。そんな中でさえも、幸福の欠片のようなものを匂わせる構成は、実に複雑な読後感をもたらす。同様の感覚を得ることができる作品が遠藤淑子の『ヘヴン』であり、それぞれの物語に通奏低音のように共通した、希望と絶望との狭間に生きる人々の心の奥に去来する心象を打ち震わせるような言わく言い難い感情を描き出している。
『こちらあみ子』は冒頭から日常的とうか、読者側の日常的な生活の延長線上を思い起こさせる導入部ないしは、想定可能な反に内での事件が発生するという具合なのだが、読み進めるうちに、異次元の摩訶不思議な空間に引きずり込まれてしまう感覚。常識と非常識、身体感覚で言えば無重量空間に放り込まれたような感じだが、精神的に、世界に対する認識の平衡感覚が狂わされる独特の感覚だ。
 
後悔と疑念、取り返しのつかない過去を消すことも忘れることもできぬまま、或いは同時に未来永劫消え去ることのない不安と共に生きていかねばならない。絶望の先には、やはり希望と言う名の絶望しかないというまさしく絶望的人生を知ってもなおそこで生きていかねばならい苦しみ。それを希望と言うなら(希望とは、未来とも言い換えても良いだろう)、その希望の、未来の描かれ方は、まさにチェーホフ的である。
 
宮崎駿の手により生み出された伝説的大作『ナウシカ』(徳間書店刊)にも、その根底には、逃れえない悲痛な運命というか、存在の意味性を読み解くこともできるだろう。同様に、後年の庵野秀明による実写版特撮作品群にも共通している感覚だ。
 
『ナウシカ』につては、地球環境保護視点からのアプローチを含め、様々さ視点からいくつもの論評がなされているので、詳しくはそちらに譲るとする。世界の破滅を生き残り、地球の生態環境の再生過程の中でもなお争いを繰り返す「世界」の中での戦いに巻き込まれながら、今現在の自分たちが生きている世界の構造の正体を知り、ついには、自らが「人類」として持たされた意味、悲劇的もしくは呪いとしか形容できない存在意義を知った上でもなお、「生きねば…」とつぶやく孤高の存在にまで高められたナウシカの姿が描かれる。
 
これもまた、もはや絶望しかないと思わせる世界の中、ただただ、時間的にも物質的にも何一つ幸福の保証となるべきものも無い、「希望」という言葉のみを心の糧として生き続けることしかできない絶望的環境を容赦なく読者に突きつけてくる。なぜならば、過酷な環境下で生き延びることこそがナウシカたちに与えられた唯一の命題であり、なおかつ絶対的な存在意義でもあるからだ。しかも、唯一の解決策をもたらすかと思われる時間でさえも、ナウシカたち地球人にとっては、宇宙レベルでの時の流れは悠久過ぎるが故に、それに比して比較しようのないほどに短すぎる個体生命しか有しない彼らにとっては一瞬のものと同意であり、いかようにしても自力で問題を解決する手段とはなり得ない。
 
その意味で、ありとあらゆる悲惨な過去とともに、希望(或いは未来という名称)という名称を付された絶望の先にあるであろうものに一縷の望みを託して生き続けるという、絶望意外にはありえないであろうという世界を歩み続けることを運命付けられているナウシカは、チェーホフ的でもある。
 
絶望的世界の中に希望を見出す。そのエッセンスは、戯曲「ワーニャ叔父さん」で描写されるワーニャの生き方と、それを補い、かつ、さらに畳みかけるように彼の心情を別の言葉で解説するかのようなソーニャのセリフにも見て取れる。村上春樹の『ドライブ・マイ・カー』を原作の主軸として制作されたとした濱口竜介監督の映画『ドライブ・マイ・カー』における主人公、そして彼を取り巻く人々の生き方を描く演出は一見の価値ありだ。同作が収録されている『女のいない男たち』(文藝春秋 文藝文庫)に収められた『独立器官』においては、異星人や異次元空間が出現してくる奇想天外な舞台で繰り広げられる作品ではないものの、その基礎に流れているものは、猜疑心と信頼と愛情と勘違いと絶望だ。
 
別の見方をすれば、人類に残された最後の希望とは巷間囁かれる「夢」「希望」ではなく、「恋」かもしれない。恋とは、それによってあらゆる論理的思考を一瞬にして喪失させ、他者の救済を願い、或いは同時に他者の殲滅を願い、己の身体的恒常性を失って生命の危機に陥ることさえもいとわなくなり、それでいて社会の破滅と社会の幸福化を同時に内在させんと思い至らせてしまう最大最強の最終兵器的なもの…それ人間の間に生じる恋愛なのかもしれない。
 
やや話題が前後するが、今村作品において、登場人物の言動、思考が読者の視点から、もしくは、作品世界の別の登場人物の常識や視点から徐々に徐々にズレて「狂い始める」状況は多分に筒井康隆的である。読み進めるうちに、心の奥底がざわざわし始める感覚。これは、田辺聖子の作品にも見られるのだが、一見すると、理路整然としていて、常識的で社会規範に即して思考し行動しているはずなのに、どこかズレを感じるという感覚。或いは、ずれた世界にすっぽりとはまりこんでいることに気付かないと言うものだろうか?読んでいる自分自信の持っている常識的観念がなんとも不確かなものに感じられてくるという現象に直面することになる。明らかにおかしいとは思うものの、果たしてどこがどうおかしいのかを、断言できたものかどうかという自身の価値観が揺らぐ瞬間を認識することとなる。
また、余韻を含ませる幕引きも実に見事だ。ラストまで読み終え、もう一度読み返すことによって、一読した時の印象とは異なった視点で物語を読むことも可能になる演出というか、描写は見事だ。「私」の視点は、コンビニ人間においては、主人公たる私であるが、スカートの女においては、導入部からほとんどが、第三者的立ち居振舞いをする私の視点から語られる。それはある意味、読者側からの視点でもある。そして、いつの間にか、摩訶不思議な立場の融合と逆転と言うか、視点と立ち位置の置換が行われ、読者の感覚をふらつかせるのだ。
 
個人を規定するのが、自分自身ではなく、自分を取り巻く周囲の人々、言い換えれば、社会が個人を規定していく光景が、滑らかな遷移で描かれ、そこには、個人の意思決定や行動規範の基礎がいかに不安定で容易に変化・転化してしまうものであるかを物語る意味において、恐怖すら感じる。映画『こちらあみ子』は、二度目を観たくなる作品に仕上がることは間違いないだろう。完成が待たれる注目の作品だ。
 
『こちらあみ子』映画公式ホームページ
https://kochira-amiko.com/
 
 
映画『こちらあみ子』7月8日公開!@amiko_2021



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