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モヤモヤモアユアユーモア

忙しくて余裕がない時に一番失われるものはユーモアであると悟った。
なぜ失うかというと、「それどころじゃない」感がユーモアを殺すからだ。

人間生活ににじみ出る、おかしみ。上品なしゃれ。
人生の矛盾・滑稽等を、人間共通の弱点として寛大な態度でながめ楽しむ気持。
長い人生を生きていく中で、必要不可欠なものである。

「いや、それ笑えないから」的な感じになる時がある。
それはそこにユーモアが無いからではなく、
その場の環境がユーモアを許さないだけなのだと思う。

明日が人生をかけた大学受験とする。
友人が言った。
今日は歩道橋から落ちそうになったというか、落ちたんだけど、
そのまま死んだらオチがないなと思って受け身を取ったら無傷だった。

普段であればクソ面白いこの話が今日に限っては全然面白くない。
明日受験の俺に落ちるとか縁起でも言うなよと怒りさえ覚え、
歩道橋から2度にわたり落としてしまうかもしれない。

これがユーモアを許さない環境の定義だ。

この事象が自分自身の中で起こっていることがある。
思考が停止しかけた時は、
普段ビンビンモードなアンテナが賢者モードとなり、
日常に溢れるユーモアを見逃してしまい、
さらに自らにじみ出るユーモアを自らシカトし始める。

インプットユーモアもアウトプットユーモアももうええもあになり
ええええああああああいいいうううな状態が訪れる。

どうやら私の発想の源はユーモアであることが多いらしく、
ユーモアロスがアイディアロスに繋がるようなのだ。
アイディアを失ったミスターセンクスはノーセンクスとなり、
当然ながらノーセックス・ノービアー・ノーマネーになるのである。

酒と女と金がなくなったセンクスは廃人となり、
俳人として再起を果たそうとはするものの、
得意のアイディアがないのだから成功するわけなく、
もうだめだ表参道の歩道橋から落ちて命を落とそうと思ったその瞬間
今日のこのブログを思い出すのだ。

ブログを読み返していると、
ユーモアがあった日となかった日が一瞬でわかったりもする。
素晴らしい。
アウトプットしたものはユーモアを測るメジャーなのだ。

ユーモアを失ってはいけない
ユーモアを否定してもいけない
それは私の血液なのだから。

ユーモアのないこのモヤモヤな世の中で
ユーモア汁を中から出してやろうと思うのだ
外から出してはいけない。
浸透させなければユーモアの力は威力を発揮しないのだから。

MOTTOユーモアが世界に浸透していけば、
人類はMOTTO創造的になり、白濁し、毎日がより豊かになる。

ユアユーモアのボリュームをモアぶち上げれば、
食べられなかったレバーも食べられるようになり、
モヤモヤな気持ちも吹っ飛んでしまうような昇天賢者タイムが訪れるのである。

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