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全部雨のSay Something.

私はランニングをルーティン化している。
火曜と木曜に最低5km
土曜日か日曜日に最低10Km
これで週に20km走れるので、月間約100kmの計算だ。

今週の火曜日は雨だった。しかもかなりの雨量だ。
雨ならば仕方ない、今日は走れないなと思い走るのをやめた。

雨の日にランニングすることをシャワーランと言うらしい。
随分とポジティブな雰囲気を醸し出している。
人は時にずぶ濡れになりたいらしい。
しかしその裏には玄関がビショビショになったり、靴を乾かしたり、体をケアしたりと色々大変なことが待っている。
「大変なこと」が先に来てしまい、雨の日はどうしても走る気になれない。

これは責任転嫁の話だ。
基本的に責任転嫁をする人は、責任感がないと言われる。
人や物に責任を転嫁し、自分に課せられた課題から逃げている。
次に出てくるのは、タラレバの思考だ。
あれがこうだったら、こうだったのに。
あなたがこうなら、どうだったのに。

私は責任を転嫁するのも、それを見ているのも好きではない。

しかしこれはどう言うことか。
「雨が降っていなかったら、走れたのに。」
火曜日の私はこの責任転嫁を素直に認めてしまった。

自分が走れないことを雨のせいにしているのだから、立派な責任転嫁だ。
異様な「仕方ないよね」感を感じる。

私が考えた持論はこうだ。

①迷惑がかからないから
 しかしこれはちょっと違う。
 「もっと良い靴を履いていれば、早く走れたのに。」
 靴に責任転嫁をすること自体は、誰の迷惑にもなっていない。
 しかし、そこはかとない無責任感が漂う。

②自然には抗えないという共通認識が人間のDNAに組み込まれているから。
 天気という自然現象は誰にも抗えないものだ。
 天気を変えることは誰にもできない。
 「雨が降っていなかったら、走れたのに。」
 基本的には責任転嫁の典型である。
 しかし「雨=しょうがない」というDNAが共感意識を呼び、
 無責任感を和らげている。

Oh my god!も同じではないか。ある意味神様に責任転嫁している。
つまりDNAレベルで言えば、雨は神なのだ。
そう、雨は神である。

つまり神様が私に、今日は走るのやめとけばー?と語りかけてきたのである。
いつかとは思ったが、私もついに神と対峙する日が来たようだ。

争わないことである。 

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