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空が青いから差別について考える

今回は差別について考えを書いてみようと思います。

まず、差別とは何でしょうか。
私は次のようなものであると考えます。

自力で変えることが容易ではない属性を持つ個人や集団に対して、絶対的/相対的を問わず不利益を与えること……(☆)

”自力で変えることが容易ではない属性”というのは、性別、人種、信仰、職業、容姿、嗜好、身体的特徴などです。

もっと具体的に言うと、女性、黒人、イスラム教徒、性風俗産業従事者、不細工、オタク、病人などです。

これらの人に対する差別は、現代社会ではおおよそ容認されていません(実際の有無は別とします)。

では、次に挙げる例はどうでしょうか?

イ. 「人に好かれない性格の人」に、「人に好かれる性格の人」と同じ扱いをしない。飲み会に誘わなかったり、ちょっとした意地悪をしたり。
性格って、なかなか変えられないですよね。

ロ. 身体能力の低い人と高い人が公式の場でスポーツをするときに、ハンデをつけない。
身体能力って、努力である程度カバーできるかもしれませんが、生まれ持ったものも大きいですよね。

ハ. 子供は飲酒も喫煙もできないし、エッチな本も売ってもらえない。
別に誰もやりたくて子供をやっているわけではないですよね。

私はこれらを差別として扱うのは馬鹿げていると思います。
たぶん貴方もそう思ったのではないでしょうか。

これらの例がなぜ差別ではない(とされている)かというと、そこには「正当な」理由があるからです。

好きでもない人に好きな人と同じくらい優しくする必要はないから。
競技の世界は才能も含めた力を披露する場だから。
子供には健全な発育のため、制限が必要だから。

こうした、「正当な」=「社会(を構成する人々)に受け入れられる」ような理由があれば、(☆)は、差別とは見なされません。

以降、(☆)を”亜差別”と言うことにします。

逆に、「受け入れられない」理由があるとき、それは差別とみなされるわけです。

そして、その理由は「偏見」と名付けられています。

一旦まとめると、
「受け入れられる」理由がある亜差別→差別ではない
「受け入れられない」理由がある亜差別→差別
ということになります

重要なポイントが二つあります。

①たとえどんな差別にも、理由があるということ

②ある亜差別が差別と見なされるかどうかは、時代の状況によるということ

「差別をするな」「差別をなくそう」と言っている人は、差別の理由・背景に目を向けていない人が多い印象です。

なぜその差別が生まれたのか?
それは文化的・社会的ものなのか、本能的なものなのか?

そういうことを考えないで、表層の差別だけを解消しようとしても土台無理な話だと思います。

でも、私はそれは仕方のないことだと思います。人は、過ちを犯すものですから。

差別を生む理由も、未知なものに対する不安や恐れである場合が少なくありません。

つまり、「誤解」です。

先程、人々が受け入れられない理由は「偏見」と名付けられている、と書きました。

この「偏見」、というのも、自分の側に正義があると確信しているような、歪んだ意識が見え隠れして好きじゃないです。

「誤解」なんですよ。人だから誰だって過ちくらい犯すでしょう。

差別を生む側も、差別をなくせと訴える側も、不完全なもの同士歩み寄る必要があるんじゃないかなと私は思います。

かつては当たり前だった女性亜差別や人種亜差別が今では差別として扱われるようになりました。

かつてアニメを好んだ犯罪者の出現によって仮想敵にされたオタクが、『電車男』などのオタク文化ブームによって社会権を獲得したと思ったら、女性声優やAV女優に気色悪いリプライを飛ばして、再び嫌われるようになった。

そういう風に、価値観は移り変わっていくものなんです。

だから、あたかも自分は絶対間違っていないかのように、声高に差別撤廃を訴える人を見ると、私はどうしても疑いの目で見てしまいます。

とはいえ、私自身は差別を受けているという実感を持ったことがほぼないので、これに関しては当事者意識の差かもしれません。

「そんなこと言ったって、差別する側は差別される側に歩み寄るなんてことはしない!」

そんな声が聞こえてきそうです。

わかります、差別によって(相対的に)利を得ている人は、その差別をなくしたくはありません。

そもそも、差別を生み出した人がすでにこの世におらず、既に構築されたシステムに乗っかっているだけの場合も多いです。
なにかを変革するというのは大きなエネルギーが必要なので、自分に得がないのにしたいとは誰も思いません。

最後になりましたが、「対話による解決を望んでいない/諦めた」方向けに、私が考える「差別をなくす方法」を書いて終わりたいと思います。

2通りありますが、片方はおすすめしません。

1つは、テロによって社会をぶっ壊すことです。

差別を生むに至った価値観を、暴力的に否定するのです。
ですが、破壊の末にあるのはディストピアなので、そんな社会で生きてもつまらないと思います。

あと、テロは現代においては全く容認されません。茨の道です。

(物理的な暴力でなく、炎上などを狙う「テロ」もここでは含めています)

もう一つの方法は、差別を受けている「ある属性」の人数を増やすことです。

正常に民主主義が機能している社会で、かつその属性の人たちが結託できるのであれば、とても有効な方法です。

多数決によってルールを変えてしまおう、というわけですね。

人数比の崩れによって、かつての価値観も変わるかもしれません。

結果的に、「元少数派」差別はなくなります。めでたしめでたし。

さて、そんなとき、「元少数派」の人たちは「元多数派」の人たちを差別しないでいられるのでしょうか?

自分たちがされていたことを水に流し、同じ悲しみを繰り返さない、「元多数派」差別のない社会を築けるのでしょうか?

私にはわかりません。貴方はどう思いますか。

自分が多数派に回ったとき、決して差別をしないと誓える人にだけ、差別撤廃を叫んでもらいたいものです。

2020年8月
千朶パンダ

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