
8ミリフィルムの作品を見て言われたこと。
何かを作りたい、ということははっきりしていたが、どういう風に作るかを模索していた美術専門学校時代。
毎回各授業、各課題が終わる最後に講評がある。講評とは、自分が作った作品を先生とクラスのみんなの前で見てもらい、自分の意図やコンセプトをプレゼンすること。そして、先生から(あるいはクラスの誰かから)作品に対してコメントやアドバイス、ときには酷評をいただく。美術系の学校ならこれを避けては通れない。講評の度緊張し、みんなの作品のすごさや先生のコメントに、大変落ち込むものだった。
1年生は5科目を順番に勉強していった。その初めの「映像」の講評直前に、担当の先生はこう言った。最初の講評だし、きっとみんなのもじもじしている感じとか、緊張が伝わったのだと思う。
「もう、恥ずかしいとかじゃないからね。自分で作ったものを、ちゃんと自分の言葉で説明してください。作品は、誰かに見られて初めて、作品になるんだから。恥ずかしいとか、言ってる場合じゃないよ。」
この言葉で、わたしはふっきれた。恥ずかしい、とか言ってらんないんだな、と。
そして1年の終わり「映像」で作品を作った。
8ミリフィルムカメラで撮影し、友人たちにも出演してもらって、編集、最後に自分のナレーションを入れた。
そして講評で言われた言葉を、今でも忘れない。
「これ、文章で読んだほうが、面白そうだね」
ショックだった。
その作品は「映像作品」だったのだ。文章だけって、じゃあ映像がダメってことじゃないか、と落ち込んだ。確かにそうだったのかもしれない。
その時、ものを書いて表現することに、まだ出会っていなかったからというのもあった。
ちなみに、この映像作品のナレーションの文章を探したのだけれど、2001年頃のこと。何でその文章を書いたかも覚えておらず、自分のパソコンはまだ持っていなかったので、ワープロか、家のパソコンか、もしくは手書きだったのだと思う。
そのデータを探しているときに、当時macで使っていたMOという記録メディアがたくさん出てきた。今では信じられないが、「230MB」しか保存出来なかった。ギガではなくメガ。その倍以上の640MBのものもあったけれど、それでも今では少ないと感じると思う。
そしてそのMOは、それを読み込む機器が壊れてもう読み込めなくなってしまった。
話を戻す。
その1年生最後に作った映像作品のタイトルは「とける」。
人間は、「こわがり」「つよがり」「どんかん」のどれかだ、という友人から聞いた話から、わたしには「こわがり」という小さないきものが一匹着いて生きているという話。その「こわがり」とのやり取りで進んでいくお話だった。
「迷子」
電車で迷子の「こわがり」をみつける
困っているので
毛の色が濃い灰色になっている
私の前を行ったり来たり
降りようかどうしようか
うろうろしていて
かわいそうに思う
けれども私はすでに
「こわがり」を一匹連れているので
連れていく訳にもいかず
降りる駅で
なるべく迷子のこを見ないようにして
ぱっと降りた
私の「こわがり」がはぐれないように
かばんにつっこんで
詩画集「ぽちぽち、晴れ」より
これはその後、詩で違う角度から書き直したものだけれど、ナレーションのものは口語調でもっと長い文章だった。
「文章で読んだほうが、面白そうだね」というお言葉から間もなく、わたしは文章で表現することに出会う。だからその先生の言ってくれたことは、ある意味正しかったと言うことにもなる。
美術やデザインの学校だったのに、自分が書いた物語や詩をいかに形にできるかに、命をかけて(そのくらいの熱量で)やっていく。
後半へ続く。
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