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分析的?直観的?そして「わからない」ことを受け入れよう (76/365)

少し古い記事ですが、人類学者の方のポストイットの功罪に関する記事がツボでしたので共有します。

デザイン思考に代表される創造系のワークショップでは、ポストイットを使ったグループワークや様々なフレームワークがよく使われます。

これらは、「分析によって本質をあぶりだす」取り組みと言えると思います。私も何度もこのような取り組みに参加したことがありますし、主催したこともあります。

しかし常々感じていた違和感があって、それは
「わかっていたことを整理しているだけではないのか?」
というものです。

言語化、整理、共有という意味は大いにあるのですが、創造につながる発見が生まれるかというと疑問を感じずにはいられません。なぜなら、ワークの過程でどうしても過度の単純化、わからないことの切り捨てが行われるからです。

先ほどの記事の著者も、以下のように述べられています。
「ポストイットのような便利な道具が私たちに与えてくれる快楽や、膨大な記録を断片化し分類し統合し再構成するというという明確な作業プロセスのなかには、分析者自身にとってうまく理解できない部分や言語化しづらい部分を速やかに手放し、都合良くわかりやすい部分のみを恣意的に残していく、そんな危険性が常に潜んでいます。」

「快楽」、まさに。壁一面の整理されたポストイットを前に悦に入っている情景が目に浮かびます。いわゆる、「やった感」です(笑)

事業提案でよく使われるさまざまなマトリクスやフレームワークも同じです。あるコンサルの方から聞いたのですが、それらはそもそも、事象を整理し経営陣にわかりやすく伝えるためのツールだったのだと。

だけど、マトリクスを埋めれば新しい事業のアイデアが出てくる魔法の箱のように考えている人は少なくないですよね。そんなことができるならとっくにAIによる事業創出が実現していると思います。

事業創出は不確実なプロセスです。起業家の分析に基づくエフェクチュエーションという理論は、そもそも、予測的、分析的にことを進める古典的な方法論(コーゼーション)とは対極にあります。

直観にしたがって行動し、偶然から学び、深く思考し、あらためて実行する。このプロセスの結果として、アイデアの解像度があがり、成功に一歩近づくという考え方です。

ちなみに、私は「直感」ではなく「直観」を使います。理由はこちら。

さて、先ほどの著者の方はもうひとつ重要な指摘をされています。
「どうやら多くの人たちは、対象を「理解できない」「わからない」といった状態が苦手であり、時にそれを不快にすら感じてしまうようだと。そして一刻も早くその不快感から逃れようとする結果、分類や分析の作業を(無意識的にであれ)半ば強引に推し進めてしまおうとする力が働いてしまうのだと」

これすごく共感します。私は議論が好きなので、議論が発散してくるとむしろテンションが上がってきて、
「ちょっと言葉の定義からやり直しましょうか?」
とか
「あえて逆説的な仮説をたてて議論しましょう」
とか言うと、声には出さないまでも、
「えー、まだ議論するのー」
とか
「とりあえず結論出しておこうよ」
という反応が多いと感じていました。

特に日本では非効率の代表として「会議」が位置付けられていて、よく会議室に会議5か条的なポスター貼ってありますよね。いわく、30分以内とか、目的を明確に、とか参加者は全員発言すべき、とか。

これは、定常的な会議では機能しますが、「創造的な会議」は別です。このモードチェンジがうまくできていないように感じます。蒸し返したり、ひっくり返すのはぜんぜんOKなのです。

元リクルートのくらたまなぶさんは、数日にわたり、新事業の「創造的な会議」をファシリテートする際、前半日程はとことんゆるく、後半日程はとことん厳しく、明確にモードを使い分けたそうです。見習うべき点がありそうです。

自分の直観、わかりそうでわからないもやもやした感じ、と向き合ってよりよい方向を探究する、そういう生き方をしてみたいと思います。

今日も最後までお読みいただきありがとうございました。

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