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歌集を読む・その1

今日読んだのは、盛田志保子の『木曜日』。2003年、Bookpark刊行。

盛田さんは1977年生まれ。77年といえば染野太朗・内山晶太・田村元などの世代ですね。内山さんと田村さんは早生まれですが。

(余談だけれど私はこういう、「誰と誰が同じ年か」みたいなのを調べるのがすごく好き。)

さっそく歌を見ていきましょう。以下引用は『木曜日』からです。

誰ひとり年を取らないギャグ漫画夕日に塩を撒いて笑うんだ

『奇面組』が年を取るギャグ漫画だったなあなどと思い出すけれど、ギャグ漫画のスタンダードでは年を取らずに同じ時空をぐるぐるしていますよね。上の句でそれを提示して、下の句へとぐっと飛躍していく。塩を撒くというのは何かを清めるみたいな意味で読んでもいいけれど、私はとりあえずなんかわからんけど夕日に塩を撒いていて、それがすこしきらきらしているという程度に解釈したい。それでそういうきらめきの中で笑っているんだ、という歌ですね。

上下の繋がりはどうやねんという話ですが、まあすごく陳腐に言うと永遠のなかの一瞬性みたいなことなのかな。「塩を撒いて笑う」のは漫画の中の人ではなく、漫画を読んでいる/提示している〈私〉だとおもいました。その〈私〉はギャグ漫画の永続的な閉鎖性みたいなものを感受していて、その反転として夕日に塩を撒く一瞬のきらめきと笑顔に至るような。ある意味で、漫画の中の人たちへの祈りのようなものとしての「塩を撒いて笑うんだ」って感じでしょうか。漫画の中の人たちが永続的な世界の中できらきら笑っているという読みでもいいとおもいます。

「夕日に塩を撒いて笑うんだ」がやっぱりいい。塩を撒く必然性とかはないとおもうけれど、むしろそれがいいんじゃないかなあ。

春の日のななめ懸垂ここからはひとりでいけと顔に降る花

「妹にキック」って連作タイトルがまずやばいですね。
ななめ懸垂の歌はなんというか、佇まいがもう完璧だとおもう。一首の中のバランスというか、サイズ感みたいなものが心地よくて。「ななめ懸垂」という単語の絶妙なレア感と、「顔に降る花」っていう景。完全にハマっている。

「ここからはひとりでいけ」は花が〈私〉に呼びかけているみたいですが、やはり〈私〉の意志や意識の表出として読みたい/読んでしまいますね。「ここからはひとりでいかなくちゃ。花もそう言ってる!」みたいなそういう感じ。
擬人法はやはり認識なので、どうしても「擬人法的に認識している〈私〉」の存在が気になってしまいます。私だけかもしれないけど。

でもこの歌の場合は「ななめ懸垂」の上向きの感じが、「「ここからはひとりでいけ」を擬人法で花に託して認識している〈私〉」と上手く調和している気がします。

おおよその配合でつくる真夜中のお菓子ほど美しいものはない

ジャンパーになんだかわからない種のいがいがつけて踊っていた日

地図よりも人を信じる信じたらたどり着けない海辺のホテル

この辺り、なんか好きな歌ですね。とりたててすごいことを言ってるわけじゃないのになぜか自信満々な感じが。

野外フェスのそこだけ晴れるなんてやっぱりスタアなんだな民生は

※「民生」にルビ「たみお」

さよならは練習次第ラケットをぶんぶん振って走るよみんな

民生の歌、「スター」じゃなくて「スタア」なのがいいし、「なんだ」じゃなくて「なんだな」なのがいい。句切れはよくわからないけど、三句目がないのかな?

ラケットの歌は、「練習次第」が上にも下にもかかるようでふしぎですね。ラケットを振って走るのはテニスかバドミントン辺りだろうと思うけど、その感じと「さよならは練習次第」というのが……。大枠でいえば「青春」という枠でつきすぎているのかもしれないけれど、これはこれで魅力的なんじゃないでしょうか。

とりあえず今日はこんなところでしょうか。
どちらかというとフィクショナルな歌が目立つ歌人ですが、そうじゃない部分でつよい魅力を感じました。

#短歌 #書評 #日記

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