「気づく者」と「気づかざる者」

みなさんこんばんは。
邦也です。

昨日は僕の転職についてnoteを書かせていただきました。
まだ読んでない方は先に読んでおくことをお勧めします。

読んでいただくとわかると思いますが、僕の考え方はいわゆる「一般」とか「普通」とは違います。


基本的に自分が好きなように生きるということを念頭に置いて生きています。


さて、本日のお話は「気づく者、気づかざる者」というタイトルですが、僕がなぜこのような思考をする人間になったかという原点みたいなものなので、ぜひとも読んでいただきたいと考えています。

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僕は大学3年生まで普通の人でした。
このnoteで言う「気づかざる者」です。
分かりやすくするためにこれから、気づく者を「覚醒者」と呼び、気づかざる者を「非覚醒者」と呼ぶことにします。
※この呼び方や考え方は、あくまでも僕個人の意見です。


僕は、両親に大切に育てられ、生活には不自由したことのない、いわゆる良い家庭の育ちです。
義務教育にしっかりと通うことが普通だと思い、先生は頭がいい人だと思っていたし、両親は自分より優れていると思っていたし、なにより当時の僕には、「死は悪で、生は善」だと思っていました。

非覚醒状態の僕は、そこそこ人生は楽しかったし、そこそこ悲しいときもあり、このまま大手の会社に入って、ある程度出世して、家庭を持って、子供の世話をしながら死んでいくんだと思っていたし、それが幸せだと思っていました。


しかし、覚醒のタイミングは突然やってきました。


僕は、大学で部活動をやっていました。


何とかレギュラーを勝ち取りたい一心で、今までの人生で一番必死に、誰よりも練習しました。


そして大学3年生に上がる直前(僕のやっていた部活動では4年時のレギュラーがこの時期に決まるといっても過言ではないくらい大事な時期)に、練習中に大怪我をします。


手術をして、その後リハビリ生活が続き、退院に1か月かかり、完治するまでに8か月以上かかりました。

あと1年半を残しているとはいえ、ここまで長い間練習に参加できなかった僕が今から挽回することは不可能に近い目標でした。

自分がレギュラーになれる確率がほとんどないという事実が、自分の中でどんどん大きくなり、負の感情が溜まってきました。


毎日の練習に行きたくない。行きたくない。行きたくない。とずっと考えていました。

するとある日突然、家から出れなくなりました。



もう、練習に行かなきゃ、という気持ちさえなくなってしまったのです。


その後、カウンセリングなどを経て、うつ病だと診断されました。


とにかく、ストレスの原因となるものから離れることが重要というアドバイスを受け、監督に休部届を出しました。

僕は自由になり、家に引きこもるようになりました。


今まで部活中心の生活を送ってきたので、授業に出る以外にすることがなかったのです。


その間、僕には考える時間が腐るほどありました。

初めは、僕はなんてダメなやつなんだろう、途中で逃げ出すなんて…、親に申し訳ない、友人に馬鹿にされる、恥ずかしい、ダサい、死にたい…

こんな思考ばかりが、頭の中を支配していました。

僕のそれまでの20数年間の環境や、教育がこのような考えにさせていたのだと、今となってはわかります。

この思考回路は、完全に「非覚醒者」の考え方です。

ここまで極端じゃなくても、皆さんにも同じような考えが頭を巡った、いわゆる「病む」ことって意外とありませんか?

何かを途中で辞めれば「逃げ」と言われ、何かを失敗すれば「なんて自分はダメなやつなんだ…」と言うように。

しかし、頭がおかしくなるほどの思考の末に、僕がたどり着いたことがあります。


なんで生きてるんだろう


この疑問にぶち当たりました。

ここに至るまでには様々なステップがありましたが、きっかけは、なぜ自分がうつになったかを考えたことです。

僕の憶測が医学的に正しいかはわかりませんが、僕は今でもこう思っています。


人は、自分の心と行動がより反対方向を向くと心が壊れてしまう


僕は、部活に行きたくないと思いながら、部活に毎日行っていました。

この行為はまさしく、自分の心と行動が正反対を向いています。

人はこのような状態で何日かいると、すぐ壊れます。

普段は明るく振舞っているクラスの中心も、周りの声に流されなさそうなクールなあの子も、みな等しく同じだと、僕は思っています。

さて、ここまでくれば簡単です。

あとは思考に思考を繰り返すだけです。

なぜ、心の中でやりたいと思っていないことをやっていたのか。

親の期待、やり始めたことは途中で投げ出さないと昔から言われ続けた環境、周囲の期待…etc

次から次へと、やりたくないことをやっていた理由が出てきます。

しかし、その中には僕自身の気持ちは一つもありませんでした。

その時、気づいてしましました。


あれ?自分のやりたいことって何だろう?


周りの目を気にして、自分がやりたくないことを他人のためにやって、呪縛のように幼少期から教わってきた一般論を体現しようとして。

僕はやりたいことを理解すらできていない。

僕は何がしたいんだろう。

僕がしたいことって何だろう。

僕はなぜ生きているのだろう。


僕は美味しいごはんを食べるのが好きだ。

僕は友達と楽しく笑っている時が好きだ。

僕は旅行に行っている時が好きだ。


僕が好きだと思っていることは、なぜ好きなんだろう。

僕が好きなことは、それをしていると幸せに感じるから好きなんだ。


今僕がこんなに辛いのに死なない理由は何だろう。

死なない理由、死んじゃいけない理由なんてない。

今すぐ死んでもいい。

けど、生きてもいいな。

もし人生が幸せなら、生きてもいい。

生きるのも、死ぬのも、元々価値はなくて、より自分で価値を見出せた方に傾くだけなんだ。

生も死も本質的には同じなんだ。

じゃあ死んでもいいや。

けど、死ぬ前にやりたいことを全部やって、幸せになってから死ねばいい。

やりたいことをやろう。


やりたいことをやろう。



こうして僕は、「非覚醒者」から「覚醒者」へと、階層を上げました。


すべてのことには理由がある。

論理に基づかない理論は、無視していいんだ。

このことに気づいた時から、世界が変わって見えました。

僕らを取り巻く世界や社会、これらすべてが、まるで論理的でない理論で固められているのです。

何かを途中で辞めたらそれは逃げですか?

違います。選択肢の中から選び、行動しただけですよね。

自分に負けましたか?

違います。初めから自分となんて戦えません。


この覚醒は、他者が強制的に覚醒させることはできないと思っています。

自分の中にあるトリガーを、何かのきっかけで引ければ、人生は間違いなく変わります。

僕のトリガーは精神的負荷でした。

死の直前まで悩み思考し続けた結果、扉が開きました。


今回はここまでとします。

ダラダラと書きすぎてしまいすみません。

まだ僕が言っていることは、理解できない人が多いとは思いますが、僕の言葉だけでも、頭のどこかにおいておいてください。

あなたがもし、いつか覚醒したときには、きっとすべてが伝わるはずです。


まとめ

・生と死の価値は本来平等

・自分が好きなことを今やっていない理由はすべて他人のせい

・他人は関係ない。親でも、友達でも、自分の人生そのものである「幸せの追求」を阻害する権利は誰にもない。

・今のこの瞬間、自分の好きなこと出来ていますか?できていないならその理由を考えましょう。その理由は自分以外(環境、周囲)ではないですか?

・やりたいことをやりましょう。生きることが正しくて、死ぬことが間違っているわけではありません。自分の幸せを、やりたいことをとことんやって死ぬ人生が一番幸せだと思います。

・明日死ぬとしたら、後悔なく死ねますか?