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芽の出た玉ねぎから、人間の成長支援について考える


中庭の奥の方に鳥の声がこだまする。向かいの家のリビングにぼんやりと人影が見える。オランダの人たちは日中、部屋の電気をつけないことが多い。この時期はなおさらだし、白色蛍光灯の明かりはほとんど見かけたことがない。

昨晩は夜中のセッションの後、珍しくスムーズに眠りに就くことができた。セッションが終了したのが26時頃、振り返りなどをして、ベッドの入ったのは27時近くなっていたはずだ。

それでも7:30には目が覚めた。寝不足による倦怠感はない。普段、夜中にセッションがある日はその後、3時間くらいは眠りにつけず、次の日10時すぎにのろのろと起き出すということもある。そのときは睡眠時間を確保した割にイマイチスッキリとした感がない。今は日の出も早くなったので、いずれにしろ7時すぎには一度目が覚める。それ以上寝ても良質な睡眠にはならないということなのだろう。今日はまた午前中からセッションがあるので、そのためにコンディションを整えておきたいという意識が働いているということもある。

今、我が家のキッチンには芽の生えた玉ねぎがある。2週間ほど前の買い物でまとめ買いをした後、少しずつ使ってカレーを作っていたら、1週間後には使いきれなかったものからかすかに芽が伸びていた。せっかくだからこれをそのままにしていたらどのくらいまで芽が伸びていくのだろうということを試してみたくなった。今は、「芽」と呼ぶにはもう随分立派な、でも、「茎」と呼ぶには伸び方が奔放な緑の芽(と呼ぶことにしておこう)が、何本か生えてきている。芽の部分は5cmを超え、深い緑色をしている。「玉ねぎは緑黄色野菜だったのか」という謎のつぶやきが心に浮かぶほど、その緑には圧倒される。何せ普段目にする玉ねぎには緑の気配がない。確かに芽が出かけている玉ねぎは、切ってみると確かに微かに黄緑になっている部分があるのだが、そのときの若々しくて遠慮がちな黄緑とは比べものにならないほど、力強い緑が現れている。

これはどういう現象なのだろうか。玉ねぎの白もしくはそれを組成する成分には、緑の元になるものが含まれていたということになる。しかしそれは芽が生えてくるまで確認することはできない。

桜の花びらの色で布を染めたかったら、花びらではなく、花が咲く前の枝や芽を使う必要があるという話を聞いたことがある。


芽が出る前の玉ねぎで染物をしたら、緑色になるのだろうか。

変化はとうに始まっていて、目に見える状態というのは最後の最後にやってくる。そして次なる変化の種となるものは、すでにそこにある。その兆しがちっとも見えなくても。

これは人間にも同じことが言えるだろう。私たちが知覚できるものはほんの一部で、知覚できる前から変化はすでに始まっているのだ。

そして、成長に必要な環境条件が最低限揃っていれば、特別なことをしなくても芽が出てくる。

ここで、「玉ねぎの中は今一体どうなっているのだろう」と玉ねぎを輪切りにしてみたくなるが、それをすると、今現在の玉ねぎの様子を見て成長のメカニズムを予測することはできるかもしれないが、目の前にある玉ねぎはそこで命を終える。(大いなる連鎖の中で生き続けるとも言えるだろうけれど。)

そんなことを考えると、人間の成長にはどう関わるのが良いのだろうかという疑問が湧いてくる。確かに成長のメカニズムというのはあり、それは普遍的なものと個別のものが組み合わさるはずだが、そのメカニズムを解明しようとするあまり、目の前の人の成長プロセスを無理やり明るみに出そうとした場合、それによって何らかの影響が出るのではないか。場合によっては成長がそこで止まるということもあるだろう。

ここでは様々なものを一括りにして「成長」と呼んでいるが、その中身にもいろいろなものがある。中には、自分自身がそのメカニズムを理解した方が意図的に成長の道を歩めるものもあれば、意図するほどに成長から遠のいてしまうものもあるだろう。

少なくとも成長に介入する者は、自分自身が環境要因の一つとなって相手に影響を与えているということを自覚する必要があるだろう。介入は、毒にも薬にも成り得る。

こんなことを考えているのは最近、オランダに住む友人の執筆した能力の成長に関する書籍を読み返していることともつながっている。能力の成長と意識の成長の関わりとその支援に関して、改めて学び直しながら、自分なりの言葉で表現するということに取り組みたい。


今関心があるのは、成長および成長のための取り組みが自己目的化することを防ぎ、いかに自然に力が発揮されていることを後押しすることができるかということだ。それには、関係性も含めた環境がキーになっているのではという気がしている。そしてそれを対話空間というものの中でどう作り出していくか。

葡萄の蔓から伸びた葉が陽の光を浴びて輝いている。彼らは「成長」を目的とせずとも、1日1日、確実に変化をしている。

私の中では成長とは、本来持っている命の輝きを発揮すること。それは一人一人に異なる固有の、かつ動的な輝きであり、量的な差を追求することではないのだということに、ここに来て気づいたのだった。2020.5.17 Sun 9:39 Den Haag

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