2019.07.07 七夕の夜に思う、言葉という厄介なもののこと

202. 七夕の夜に思う、言葉という厄介なもののこと

近くの商店街まで買い物に出かけ、いつもより早めの夕食を済ませた。まだ真昼間だと言われてもおかしくないくらい外は明るく日差しも強いが、木々から落ちる影の方向が1日が終わりに向かい始めていることを教えてくれる。

今日は本来予定に入っていたことややろうと思っていたこと以外に予定外のことへの対応に時間を使った。人に何かを伝えるというのはやはり難しい。それが短い言葉を交わすコミュニケーションツールを使った場合尚更だ。伝えたいことを伝えきれず「言葉足らずだったなあ」と思い返すことも多い。気持ちを伝えることも難しいが、フラットに物事を伝えることはもっと難しいかもしれないと思う。自分がどんなに物事として伝えたつもりでも、相手は何かそこに気持ちがあるのかもしれないと思うだろうし、自分でさえ気づいていない気持ちがそこに含まれている場合もある。

スーパーまでの道のりを歩きながら、なぜ人はすれ違うのだろうと考えていた。(そういえばこのテーマは最近既に考えたことがある気がするが、人間の心とコミュニケーションのメカニズムにはなかなか答えは出ないのだろう)「やはり言葉は厄介なものだ」という考えが浮かんできた。言葉があるから今目の前にないものや具体的な形のないものについて話すことができるが、言葉に対する認識が違うと話は噛み合わなくなる。先日もオーナーのヤンさんが私の寝室の「アラームが鳴っていると」メッセージを送ってきたのでてっきり目覚まし時計のアラームのことかと思ったら(寝室にあった目覚まし時計は使わないのでクローゼットにしまい込んでいるが)天井についている火災警報器のことだった。「これだ」と指し示せば一目瞭然に対象物を明確にできるところだが、言葉を介すると、受け取る相手の「言葉に対するフィルター」を通すことになる。同じ言葉を使っていてもフィルターの種類によって相手が受け取る意味は変わるし、そもそも使っている言葉が違ったらその言葉がざっくりと意味することさえ分からない。オランダに来てもうすぐ1年になるがいまだにオランダ語は全く分からず、以前勉強していたドイツ語に近い単語だけが意味をなす言葉として入ってきて、あとは「●☆■▽#❖◎►」である。

言葉の中にはさらに「ある特定の世界の中での言葉」というのもある。「社内用語」や「業界用語」が分かりやすいが、同じように「ペットを飼っている人の使っている言葉」「小さな子どもがいる人の使っている言葉」などもあるだろう。お腹が大きい女性同士、もしくは赤ちゃんを連れている人同士が交わす「予定日はいつ頃ですか」「何ヶ月ですか」というのは「こんにちは」に等しいかもしれない。この場合、「仲間ですね」という意味も含まれているだろう。予定日や月齢に本当に興味がある場合もあるかもしれないが、多くは「コミュニケーションをはじめましょう」というコミュニケーションなのだと思う。人は無意識に自分と同じような状況にいる人との挨拶のようなものや共通言語を身につけていく。それを使えば同じような状況にいる人と円滑にコミュニケーションをスタートし、関係をつくることができるからだ。ややこしいのは「同じような状況にいるように見える人」が相手の場合だろう。お腹が大きい女性が妊娠をしているとは限らない。「予定日はいつですか」を「こんにちは」のつもりで言っても相手はそうは受け取らないこともある。大学3年生くらいの共通の挨拶と言えば「エントリーシート出した?」とか「説明会行った?」かもしれない。しかし自分で何かをやってみようという学生にとっては「何を言っているの?」という話だ。同じコミュニティに属しているとか見かけが似ているとか、何か共通点があるように見えると、人は相手を「自分と同じ世界の人だ」と思ってしまう。そしてその世界の言葉で話し始める。自分がどんな世界の言葉を使っているかは自分ではなかなか気づくことができないこと、そして、自分とは違う世界の言葉を話している人の言葉も自分の世界の言葉の意味に翻訳して受け取ってしまうことが、心のすれ違いを生むのだと想像する。

ビジネスシーンのように何か進めるべき物事や対象物がある場合、それでもどうにかこうにか相手の言わんとすることを擦り合わせることができる(擦り合わせざるを得ない)が、明確な目的がなく、「コミュニケーションを取ること」自体が目的の場合はこれまた難しい。目的のないコミュニケーションの達人だと思うのは母だ。ペットの話から親の介護の話、子どもの話、孫の話、最近髪型が変わったニュースキャスターの話、異常気象の話、世界水泳の話、宇宙飛行士の話…近所の人やスポーツクラブで会う人、バスで隣に座った人、相手がどんな話をしても「あらー、そうなんですねー」と言っている。(本当に聞いているかは分からないが、返事は返している)そしてあれこれ話題がめぐり、だいたいの場合「大変でしたねー」となる。なんとなく相手は満足そうである。母が人と話しているのを聞いていると人は話していることの半分くらいは「大変なんです。大変だったんです」ということを言いたいのかと思うくらいだが、自らの話題も多岐にわたる達人である母の話を聞いて「大変だったねー」と言うとまんざらでもなさそうなので、母自身が「人は自分が大変だったことを話す」という世界にいるのかもしれない。ときには、私の話を聞いて「大変だったねえ。それでも草ちゃんは○○ということを大事にしたいのねぇ」と言うことがある。それが、言われてみると結構図星で、「この人は今の話の中から何を聴いていたのだろうか」と驚いたりもする。人は、手っ取り早く自分が知っている世界の言葉を口にするけれど、その奥にある本当に伝えたいこと、聞きたいことは自分でも分かっていなかったりする。

アインシュタインは娘に1,400通にものぼる手紙を書いていたそうだが、その中の1通にこんなものがあるという。

−私が相対性理論を提案したとき、ごく少数の者しか私を理解しなかったが…(中略)…この宇宙的な力は「愛」だ。…(中略)…愛に視認性を与えるため私は自分の最も有名な方程式で代用品を作った。「E=mc²」の代わりに、私たちは次のことを承認する…(かくかくしかじか、難しい言葉が続く)…恐らく謝罪するには遅すぎるが、時間は相対性なのだから、私がお前を愛しており、お前のお陰で私が究極の答えに到達したことを、お前に告げる必要があるのだ。(アインシュタインが娘リーゼルに宛てた手紙より)

アインシュタインは色々な言葉を並べているが、結局娘に「愛している」と言いたかったのではないかとこの手紙を読んで思う。しかし、アインシュタインにとっては考えに考え、色々な経験をしてたどり着いたことであって、こうして言葉を尽くす必要があったのだろう。恐らくここで語られている「愛」は私が知る「愛」とは違うのだとも思う。

日本を出て良かったと思えることの一つは、人を「言葉らしきものを話しているが異星人のようだ」と思えることだ。「●☆■▽#❖◎►」と聞こえてくる言葉が、何を意味しているのか分からない。「私のことを知ってほしいです」なのかもしれないし「あなたのことを知りたいです」なのかもしれないしただ単に「こんにちは」なのかもしれない。それを受け取ろうとするプロセスを通じて関係性がつくられていくのだろう。無意識の中で所属している世界というのはきっとあるだろうから「何にも所属しない自分」にはならないのだろうけれど、自分が身を置く世界とそこにある言葉の意味から一歩一歩外に出て、「人が何を言っているか分からない自分」であり続けたいと思う。2019.7.7 Sun 19:48 Den Haag

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