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あわいの旅


今日も鳥の声で目が覚めた。
4月末にイズミル内で滞在先を移動して以降、ほんのりと明るくなる空の感覚と鳥の声で目が覚めることが続いている。目覚ましのアラームを使わなくていいというのは本当にありがたい。

しばらく布団の暖かさを感じていたら、隣に寝ている彼がうっすらと目覚めたようで身体を寄せる。男性でかつ、欧米人の割に(というのは思い込みだろうか)体温が低い彼は、いつくっついてもちょうどいい温度だ。またひとときまどろみを続け、いよいよベッドから起き出そうとするときに「おはよう」と声をかけると、同じように「おはよう」という言葉が返ってくる。

「おはよう」と「おやすみ」を言う瞬間が一日の中で一番幸せだと思う。

そんな話をしたことがあるせいか、彼はどんな日も欠かさず「おはよう」と「おやすみ」を言ってくる。いつも言っているせいか、発音はもう、ほぼ日本人のものだ。

私が「おはよう」や「おやすみ」を言い忘れることがあろうものなら、「今日はおはようを言わなかった」と言ってくる。心の感覚が敏感な彼にとっても、それらの言葉はつながりを確認したり新たなつながりをつくるものになっているのだろう。

4月の滞在先はテラスからエーゲ海が見える三階建ての一軒家で、言わば特別な場所だった。5月の滞在先は集合住宅だが、バルコニーがとても気持ちがいい。腰掛けることのできるソファースペースに、たくさんの多肉植物たち。火を起こすことができるスペースもある。(起こした火は思いの外激しく、煙がたくさん出てゆっくりと楽しむことはできなかったけれど)

誰かのためではなく、まず自分のために、本当に好きなものが集まっている場所。そんな場所は心地いい。

2年半暮らしたハーグの家にもテラスがあったけれどこんな場所にできるということを考えさえしなかった。

「彼女(この家の持ち主)は、何か特別な状態でテラスのビジョンを見たのだろうね」

テラスでビールを飲みながら、そんなことを話した。

4月から仕事から離れていた時間も多かったためか、今は成長に対する意欲は薄くなっている。およそ4年のスパンで、上昇と下降、あるいは成長と今に在ることの間で価値観が大きく揺れ動いてきた。今は後者の方に振れているときなのだろう。同時に、関心の向く先も個人から人と人とのあいだにあるものにシフトしている。屋号である「あわい」に戻ってきたとも言えるし、こんな風に何かと何かの間をゆらゆらと揺れること自体もあわいなのだ。

いつかはこの「あわい」という概念を超えるときが来るのだろうか。「あわい」は「あいだ」という意味だが、「あいだ」が成り立つためには何かと何か、分かれた二つのものが必要だ。分かれていると思っていたものは実は一つのものだったと気づいたとき、「あわい」はどこに存在するのだろう。

こうして書きながら、この静かな朝の時間に懐かしい感覚を感じている。言葉や意識になる手前のものたちがそっと降りてくる時間。明確な意識とともに何かを書くのもいいけれど、そのときは意識の域を出ない。意識の外側からやってくる言葉を綴って綴って綴る。目的のために為すのではない行為こそが、今取り組んでいたいことだ。

これまで日記をアップしてきたウェブサイトが、システムがアップデートされたためかこれまでと同じようにすることができなくなり少し困っている。できれば根本的な対処を見つけたいが、日記を書いてアップするというルーティンを取り戻すためにもとりあえずできる形で上げてみた方がいいだろうか。

フローニンゲンに住む友人の日記もしばらく読んでいないが、彼は元気にしているだろうか。

この家での暮らしや目の前にいるパートナーとの時間をまず大切にしながら、見えるもの、聴こえるものを超えた世界との対話もまた続けていきたい。2021.05.07 Fri 6:58 Izmir

このページをご覧くださってありがとうございます。あなたの心の底にあるものと何かつながることがあれば嬉しいです。言葉と言葉にならないものたちに静かに向き合い続けるために、贈りものは心と体を整えることに役立てさせていただきます。