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出来事と体験、アジアンスーパーでの会話を思い出して

先週から始めた日本にいる仲間との朝の対話の時間を終えて以降、日記を書くこと、そして過去の日記を読み直しウェブサイトにアップすることを続けている。

それでもまだ今日は書くことを続けたいという欲求がある。今日は久しぶりにゆったりとしたスケジュールであること、朝から雨が降り続いていることなどが意識が内省に向かうことを後押ししているが、同時のここのところリフレクションジャーナルを書く時間を十分に取ることができず、言葉になる手前のものがどんどんと積み重なっていっていたこともあるだろう。

今朝は、リフレクションジャーナルを書き始める前にオランダのフローニンゲンに住む友人の日記を読んだ。これまでは夜に日記を書く前に読むことが多かったのだが、友人が旅行先のアテネで財布を紛失してしまったことを知って以来、無事にオランダに帰ってくることができたかが気になっていた。

無事にオランダ、そしてフローニンゲンの街に帰り着くことができたということを今朝読んだ日記を通じて知り、ほっとしている。

今回起こったのは財布の紛失という出来事だったのだがそこから、「最も大切なのは、何が起こるかではなく、その出来事の後にどのような時間を過ごしていくかということなのだ」ということを、友人の体験を通して学んでいる。

例えば歴史というのは「○年に●●ということがありました」というように、あたかもある特定の出来事がきっかけでその後の社会や人々の生活に変化が起こるというように見えるが(年号を覚えるという行為はその最たる例だろう)実は、社会や人々の生活にどんな変化が起こるかは、その出来事を人々がどう捉えたか、その後、どんな時間を過ごしたかによって大きく変わるのだ。そして同時に、ある出来事をどう捉え、その後どのような時間を過ごすかというのは、その出来事以前に人々がどういう状態であったのか、どのような思考をしてきていたのかにも深く関わっている。


歴史を揺るがす大きな出来事というのは、それだけで人々の意識変容を起こすものだが、同時に、その土台となる意識は、出来事よりも随分と以前からの経験や歴史の積み重ねによって形成されているのだ。

例えば、他者批判や被害者的な考えを持つ慣習を意識が身につけていたのであれば、思いがけないトラブルは、さらにその慣習を強化させることになるだろう。一方で、大きなシステムからの学び、未来からやってくるメッセージに目を向ける慣習があるのであれば、思いがけないトラブルも、新たな可能性を開く扉となるかもしれない。

また別の面から今回の出来事を見つめてみると、物やお金は人間にとって大切なものの一つの側面だということに気づく。お金を失うことも大きな損失だが、たとえばお金が入っていた財布が大切な人から贈られたものだったら。「お金はいいから、財布だけでも返ってきてほしい」と思うだろう。

もし、旅行先でたくさんの楽しみな予定があったならば、その機会を逸してしまったことを残念に思うに違いない。失ったものにまつわる手続きのための時間を取ることになるのは、時間を紛失していることだとも言える。

一方で、お金や物を失ったことで得た経験もあるだろう。

私自身、日本滞在中に東京のカフェで打ち合わせをした際に財布を落としてしまい、財布を保管してくれていたカフェまで行くための電車賃がなく途方に暮れていたときに、コインランドリーで洗濯が終わるのを待っている知人の姿を見つけ、小さなコインランドリーが輝いて見えたことがある。(その場で電車賃の500円を借り、それは翌日に無事返すことができた。)

トラブルを解決しようとする過程でたくさんの人の優しさや奇跡のような瞬間に出会う。

もしかすると奇跡は日常の中に溢れているのかもしれないけれど、それが奇跡であるということに、何不自由なく過ごせているときはなかなか気づくことができない。

ちょっとした人との関わりや、かけられた一言がこのうえなくあたたかくやさしいものとして心に染み込んでくる。

今後の手続きで手間がかかることも多くあるだろうけれど、そのプロセスで人との関わりがあり、そこに光を見出し感動さえも覚える瞬間があることを心から願っているし、友人はきっとこれからもそんな風に世界と出会っていくのだろうと想像している。

外に出れば、溢れるほどに色々なことがあるということを昨日1日外出をして改めて感じたが、最後に二つ、昨日の小さな出会いで印象的だったことを書き留めておく。

一つ目は美容院の帰りに立ち寄ったアジアンスーパーでの出来事だった。暑くなってきたので冷たいうどんでも作ろうかと思い、日本の麺類や調味料が並んだ棚を眺めているときに、中年の、夫婦であろう二人組に話しかけられた。その背の高さと雰囲気からおそらくいわゆるオランダ人(民族的なオランダの血筋を引いている人たち)なのだと思う。

「英語を話せるか?」と断りを入れてから、女性は「これはどんなものか?」と聞いてきた。手には柚子の絵の描かれたポン酢の瓶が握られていた。「これは醤油のようなものか?」と言うので、「醤油にレモンとミカンの間のようなフルーツの果汁が混ざったものだ」と答える。購入しようか迷っているようなので「何をつくるつもりなのか?」と聞きながら男性が押すカートを覗き込むとそこには米や海苔が入っていた。日本のものが好きな息子さんに贈るのだという。「この絵(ポンカンの絵)が素敵だと思うけれど…」と迷う女性に対して、「それは日本でもよく使われている調味料であって、私も好きだ」と伝えると、女性はホッとした顔をしてポン酢をカートに入れ、「他におすすめのものはないか?」と聞いてきた。

調味料が多いコーナーだったため、単体として食べ物になるものはないかと見回したところ、ラーメンやうどん、蕎麦が目に留まったので「日本の麺類はどうか」と勧めてみる。ラーメンはスープに化学調味料が使われていることも多いので、うどんや蕎麦の方がいいかもしれないと思い、うどんとそばを指し示す。と、その中にパッケージにざるそばと麺つゆの絵まで描かれた蕎麦があったため、思わず、「先ほどのポン酢はこうやって使うこともできる」と口にすると、男性は笑顔になり、私が差し出した蕎麦をそのままカートの中に入れた。

二人は丁寧にお礼の言葉を述べ、棚を眺めることを続けた。

しかしながら、改めて考えるまでもなく蕎麦をポン酢につけるという話は私は今まで聞いたことがない。(今、調べてみるとポン酢に蕎麦をつけるレシピもあるようでホッとしている。)「せめて蕎麦ではなくうどんを勧めた方がポン酢にあっただろうか」などということが、帰り道ぐるぐると頭を回っていた。

息子が好きだというものを、良く分からなくても贈ろうとすること。
そのために真剣に悩む様子。

そんな在り方の美しさを感じるほどに、ミスマッチな組み合わせを教えてしまったことが後悔される。組み合わせはイマイチかもしれないが、せめて日本の食べ物、もしくは日本のものを嫌いにならないでほしいと願っている。

そんなことを考えながら歩き、家に近づこうとしているところでふと視線をあげると、トラムが通る通りの真ん中の街路樹が植えられている部分を犬を連れて歩く男性と目が合った。

天気の良い日は朝夕犬の散歩をしていて、いつの間にか顔を見ると手を振り合うようになった人だ。ころんと出たおなかに一見強面だが、はにかむように笑う笑顔が可愛らしいこと、道ゆく人たちと言葉を交わしていることを私は知っている。

きっと随分前から向こうは私に気づいていたのだろう。
目が合って、微笑み、手を振り合う。

考え事もいいが、目の前の人に目を向けること、何かを交そうとすること以上に大切なことがあるだろうか。

頭の中をぐるぐると回っていたことが一気に吹き飛び、目の前の世界が広がり、輝いた。2020.8.3 Mon 12:02 Den Haag

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