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中国語を勉強して気づかされたこと

 最近、といっても3ヶ月くらい前から本格的に中国語を勉強し始めた。

 現在のアルバイト先で旅客案内業務として中国や台湾の観光客と接することが
多かったため、決まったフレーズ程度なら話すことができたのだが
もう少し体系的に勉強してみたいと思い、
本屋で初学者向けの参考書を買って、単語の勉強も本格的に始めた。

 勉強を始めた当初は、中国語を学ぶことに一種の楽しさを感じていた。

椅子は(yǐzi)など、日本語と同じ読み方、同じ意味を持つ単語も多い。

しかしながら教科書のレッスンの内容が一段階、もう一段階と上がっていくたびに単語や文法学習に対するもどかしさや難しさを感じる自分がいた。

特に言語学習である以上、単語を覚えることからは逃げられない。

中でも厄介なのは発音だ。
中国語は声調と呼ばれるイントネーションによって同じ音であっても
意味が全く異なるのだ。
そのため拼音(ピンイン)と呼ばれる発音記号があり、単語の意味を覚えると同時にそれらも同時に覚えないといけない。

例えば、中国語ではma (お母さん)は一声と呼ばれる高い音を長く伸ばす発音である。しかしma(馬)は三声と呼ばれる日本語で言うところの「あーあ」と落ち込んだ時の低い声で発音する。

 日本語で言うところの、橋(は)と箸(し)のようなアクセントによる違いであろうか(もっと複雑なものには違いないのだが…)

毎日単語帳やアプリに向き合って(時にはサボって)覚えられた単語や表現を、
バス旅客案内で使う日々であった。私の中国語の発音が悪いのかポカーンとされる場面も多々あった。しかし、初めて地鉄(di tie)の発音が通じ、道案内できた時のあの時の喜びはいまだに忘れられない。
勉強の成果が実った。そんな気持ちだったのだろう。

そして、毎日今でもずっと中国語の理不尽さにイライラしながら勉強している。
なぜ、父方と母方でおじいちゃん、おばあちゃんの呼び方が違うのか。数字の2はerの発音かと思えば時間の時はliangを使うなど、例外も多い。

このような初学者としての日々を過ごす中で日々の英語教授法にも大きな気づきを与えてくれた。
中国語を学び始める前までは、生徒に単語を覚えられないと言われても、書いて覚えたりreadingで見る回数を増やす、そしてその単語を会話や例文writingで使っていくんだよとインプットとアウトプットの両立で覚えればいいんだよと”勉強の仕方”ばかり教えていた。
この勉強の仕方は今までの自分の英語学習の経験や恩師とも呼べる英語の先生の指導から得た学習方法の一つであり有効な方法の一つだと自負している。
しかし、今まで伝えてきた”勉強の仕方”は、本当に生徒のためになったのであろうか。単語覚えるの大変だよね、わかるよと共感してあげること
でも前忘れてた単語覚えられているじゃんと
彼らの努力の成果を一緒に喜んであげることができればよかった。
今ならわかる。he his him hisの代名詞の使い分けの難しさが。
そしてourを(オワ)と読んでしまう気持ちが。
共感して、一緒に練習したい。そして一緒に正しく発音できるようになりたい。

私が中国語単語を覚えるときに見せる表情は、
彼らが英単語で月、曜日を一生懸命書いて発音して覚えるときと全く同じである。

この共感や協働の指導への意欲をより強くする出来事が1週間前にあった。
私が約1年ほどacademic writingや英語科指導法について個人的にprivate lessonをお願いしているフィリピン人の先生に以前このような質問をしたことがあった。

Based on your experience, what is the most important thing to make your class active?
(クラスをよりアクティブにするためにもっとも重要なことは何だったか)と

彼はフィリピン国内の中学校や高校でも指導経験のある英語教師である。
彼は、facilitating students, not teachingと答えた。
教えることは、知識(knowledge)を得ることにつながるが、
その先の発展はないだろうと。
教師ができることはいかに説明を短くして
生徒が話す時間を増やすことだと言われた。

まさに“If you get a man a fish he'll eat for the day, but if you teach him how to fish he'll eat forever.”(魚を与えるか、魚の釣り方を教えるか)である。

彼が言いたかったのは、教師の役割は偉そうに知識や学習法をひけらかす、
すなわち先輩風を吹かすことではなく
学び方を共に見つけていく、そして時には正しい道を享受する
頼れる仲間であるべきだということであろう。

教育者として一兵卒である自分が語るのは憚られるが、
共に勉強の大変さを分かち合うこと、そして共に乗り越えていくことこそが
教育の本質なのだと思った。どのような素晴らしい教授法や指導法、学習方法を伝えても生徒に対する共感の気持ちがなければ、それらはすべて無用の長物となす。

次からはもっと生徒に向き合って指導したい。
彼らの勉強に取り組む姿勢を抱きしめてあげるごとく分かち合いたいと思った。
その中でこそ自分が培ってきた、そして学んできた指導法や教授経験は生きてくるのであろう。
そして、中国の方に中国語が通じたあの時と
同じ喜びを生徒にも感じてもらいたい。
生徒の隣に座ることでわかる、同じ高さからの勉強の世界の景色は
教師が学習者であるからこそわかるものだ。

自分が今となってはそこまで苦に思わなくなった英語学習の大変さは中国語を学習したことで思い出してくれた。初心忘れるべからずとはよく言ったものである。





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