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一時的健常者・一時的障碍者

 おそらく私だけでなく仕事をしている多くの人は病気になった場合、その後、中々完全治癒できないままも見切り発車出勤をしているのではないか。
 或る意味運にかけるように出勤「してみる」。十分な想像範囲内の休んでいた期間に生じた仕事が山積み、それをこなす身はまだ病み上がり。それを承知の上で出勤しても溜息生じる情景を見て改めて体力が必要な現実を知らされる。少なくとも出勤する以上は「私は仕事をしにきました」なのだから、出勤を択んだ以上はこなすしかないのだが。
 今回、運は味方してくれず悪循環に陥ったまま去年に続き、時期までも似通った11月初めに二回目の声帯炎を起こす。
 流石に去年初めて声帯炎を起こしたようには不安がないだけ救われた。
 だが、私の仕事は声無しではその半分しか成り立たない為、辛うじて現場が立ち止まらない程度の仕事ぶりでしかない。それを自己満足出勤と云われるのなら仕方ない、否定しない。

 思い出せないほど前に一時的健常者という言葉に出逢う。
 私の中にストンと落ちた、腑に落ちるってこういうことなのだと解る程。
 指摘されて納得した。確かに先天的病気がない場合は20代30代が人生のbest期間であり、それ以前は発達途中、以降は少しずつ能力が欠けていく。
 決して何も指定の障碍がなければ健常なわけではない。普段の私はコンタクトレンズ、メガネ無しでは室内でも生活できないことも障碍の一つ。皆誤解して自分は問題ない健常者グループと考えている。そして、街は健常者中心に造られる。

 今回は顕かに声が出ない為様々なところで苦戦する。
 声には程遠いささやき声でも発することで完治が遅れる為、我慢はするが予想通り電話、特にインターホンでの宅配受け取りは工夫が要求された。
 今回経験して解ったことの一つに「呼びかける」「呼び止める」ことが生活の中に案外多いこと。加えて人は話が済むとすぐに「それでは」と背を向ける。職場だからかもしれないがそこには余韻がない。くるりと向けられた背に追加の伝えたいことがあっても声をかけて振り向かせられない。この時に自分では身体的にここまでしか出来ないという限界に初めての歯がゆい経験をする。
 私は一時的に声が出ないだけだが、これが一生だった場合は受け入れられるまでは精神的にも辛いことは想像に難くない。

 先週行きつけの美容室で温かなスタッフのお気遣いに救われる。一年前のことだというのにその時のこと(声帯炎罹患)を覚えていてくださって、こちらが何も云わずともメモとペンを用意してくださる。咳き込む時にはアシスタントが白湯を用意してくれた。美容室全体のサービスとは異なる利用者の困った所を察して手を伸ばしてくださった心遣いがとてもうれしかった。
 まだ、発声までには10日間はかかりそう。声帯炎を癖には決してしたくないけれども、普段の生活では見えない様々な風景を今見ている。

 

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