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親の言葉で操られていく子

 特に意味がない腰を上げる際の祖父母が使う掛け声「よっこらっしょ」であっても、毒がない口癖であっても、口癖が既に呪文のようになった言葉であっても日々の言葉は共に生活する家族、特に小学校低学年までには影響があるようにみえる。
 家族の中では社会で感じる垣根が無い分、近しい人間の言葉は素直に耳に入ってくる。このことを意識して接している親はどの程度いるのだろう。大人になればなるほど自身に染み付いた口癖は方言を直すことにも似てかなり自覚と根気が要る。

 そもそも言葉には思考がその核にある、意識的に使うこともあれば無意識のことがあっても。その為、今日のタイトルにあるよう時として厄介。

 その三年生男の子はその日私とは初対面だった。
 体格はどちらかという栄養指導を受けた方が良いふっくらした子。他の小柄、痩せ気味の子からすると例えが申し訳ないがジャイアンの容貌で威圧感があるかもしれない。
 児童の間を回っている途中、その子の解き終わった算数プリントを採点しながら短い会話をした。内容は個々の習熟度確認と事前に知らされていた情報との照らし合わせだ。
「君には九九で苦手な段はある?」
中国人は皆九九が出来る。」
「先生は君のことを聞いているの」
それでも、尚、この子は「中国人は九九は出来るんだ。」と話はかみ合わない。その後幾つかの算数についての質問には全て「中国人は」という言葉付きだった。

 その児童の家庭環境を聞いていなくても日頃親から「中国人は***が出来る・長けている」と呪文のように聞かされているだろうことが分かる。
 三年生半ばの子に意図があって出た言葉には全く見えなかった。只、教室で国籍によるいじめを受けていないかは気になった。

 氏名は中国名、現時点では帰化している家庭ではないのだろう。
 ご縁があって日本に住み、日本の学校にも通うようになった。
 もし、この児童の傍にいる大人が自身が属する国の良さだけを教え込まず、中国人の得意な分野を育てる一方で「折角日本で暮らしているのだから日本の良さ***も身に付けたいわね」と接してもらえるならばこの児童の世界はもっと広がりが持てるのにと残念だった。

 両親の国籍が違って生まれた子を少し前まではハーフと呼ぶのが多かったが、最近は(日本では、と一応限定)ダブルという表現も先に述べたことに近い。半分ずつ親から受け継いだように聞こえるハーフに対しダブルは両方とも得ている語感に引け目はない。

 空気、水、どちらが無くても生きていけない。そして、少なくとも日本に住む私たちの中には水道水ではなく更に美味しい水を求めることが出来る人も居る。
 言葉無しにも一般社会では生活は出来ない。声に発せず文字であっても言葉は不可欠。美味しい水を求めるようにもう少し日常の言葉を見直しできないものか。

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