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大怨霊・平将門の歴史

過去

怨霊・平将門について、関連する史蹟である将門塚、神田神社に絡ませて調べたことをまとめておきます。
生前の将門にはあまり触れていません。伝説の中の将門像について掘り下げて行きます。
ちょっと長めかも。

将門公御肖像(東京・築土神社旧蔵・昭和二十年消失)

平将門は十世紀の東国在住の豪族で、はじめ親族間で争っていましたが、常陸国国衙を襲撃したことを皮切りに東国を制圧し、国家の反逆者「朝敵」と見做され、藤原秀郷、平貞盛らによって追討されます。
一般的に将門は、菅原道真、崇徳院と併せて日本三大怨霊の一人に挙げられ、日本史上きっての大怨霊として知られています。

将門塚の怨念史

こうした霊的な将門を象徴し、最も知名度を誇る場所が、「将門塚」でしょう。塚は、平将門の「首塚」と呼ばれます。追討後に京都で曝された将門の首級が、空を翔けて飛来し、当地に埋まっているという伝承に基づく通称です。

広さはさほどありませんが、大手町の巨大なビル群に囲まれた一等地です。
周辺には皇居外苑、東京駅、三菱一号館をはじめとした近代建築など、魅力的な歴史スポットに溢れています。
塚は通常の参拝者の他にも、心霊スポットとして怖いもの見たさで訪問する人(ホラー的見地)、パワースポットとして将門の「気」を感じに来る人(スピリチュアル的見地)などが絶えません。オカルト的ではありますが、現代のかたちで信仰が生き続けているのです。
現在の境内は2021年の改修工事を経た姿で、すっきりした都会的な景観は、周囲の風景と調和しています。
改修前の将門塚は、低木の茂った緑の多い境内でした。そして、境内の中心である石碑・灯籠の周りには、蛙の置物が多数奉納されていました。
現在、置物は神田明神に移されていますが、この蛙の信仰は三井物産が1986年に始めたものです。
境内の緑と蛙が手伝ってか、かつての将門塚はモダンなオフィス・ビル街の中にあって、土着的な、ミスマッチで一種異様な雰囲気を漂わせていました。

改修前の境内(Googleストリートビュー、2009年)

個人的には、その独特の雰囲気が、将門の都市伝説化を助けていたのではないかと考えます。

改修後の境内(2022年)

現在の近代的で開かれた景観を、恐ろしく思う人は少ないでしょう。少なくともこの場所を心霊スポットのような認識で訪う人は、これから消えていく予感があります。

将門塚の歴史について、詳しく見て行きたいと思います。
参拝する多くの人が礼拝の対象と考えるのが、境内右奥の石碑だと思います。
これは板碑いたび、あるいは板石塔婆いたいしとうばと呼ばれる形態の石碑です。
碑文には、
「平将門 蓮阿弥陀佛
南無阿弥陀佛
徳治二年」とあります。
境内にある案内板によると、徳治2年(1307年)、「踊り念仏」で有名な、時宗の開祖・一遍に師事した遊行上人ゆぎょうしょうにん真教しんきょうがこの地を訪れました。
遊行上人とは、時宗総本山・清浄光寺の住職のことです。
真教は、またの名を他阿弥陀仏といい、たびたび祟りをなす将門に「蓮阿弥陀仏」という板碑にも刻まれている戒名を贈ったそうです。
この称号の形式を「阿号」といい、念仏者の重源ちょうげんがみずから「南無阿弥陀仏」と名乗ったのが始まりとされます。

一遍上人立像(京都・長楽寺蔵)
真教上人倚像(京都・長楽寺蔵)

真教もこの当時に板碑を建てたと伝えられていますが、現在ある板碑は、1970年に建立されたものです。
当時、それまであった板碑が何者かに盗まれ、三つに折られて返還されるという、恐れ知らずな事件がありました。
その後、折られた元の板碑は修復されてから将門にゆかりの深い茨城県坂東市に寄贈されました。

茨城・神田山延命院に保存されているかつての板碑(右側)

そして、将門塚には1970年当時の時宗の遊行上人、他阿隆宝が揮毫した板碑が新たに建立されたのです。

ところで、首塚とは言いますが、塚らしい遺構は現在何も残されていません。

「平将門故蹟考」(明治四十年)

しかし、明治40年の「平将門故蹟考」の挿絵を見ますと、小さな山のようなものが見え、かつては塚がちゃんと存在していたことが判ります。
この絵では、塚の下に灯籠とその基壇が描かれており、これらは現在も板碑の後ろにその形態を留めています。
真教が建てたという板碑は、明治にはすでに残っていなかったようです。
さらにその前景には、蓮が繁殖している池が見えます。

「五千分一東京図測量原図 東京府武蔵国麹町区大手町及神田区錦町近傍」(明治十六年)

明治16年の地図で将門塚のあった場所を見てみると、塚はかつての大蔵省内に位置していたことが判ります。

「東京諸官省名所集」(明治九年)の大蔵省
「東京景色写真版」(明治期)の大蔵省
「新撰東京名所図会 第拾六編」(明治三十一年)の大蔵省
左下に将門塚灯籠と基壇が描かれている。

この大蔵省の庭池を擁する庭園の一角に、将門塚は位置していました。
江戸時代までは酒井雅楽頭うたのかみ家の上屋敷で、その時代から庭園の一部であったようです。

さて、明治以降、天皇親政の世にあっては、朝廷に反乱した将門は、悪人としての姿が強調されてしまいました。
文豪・幸田露伴が大正九年に著した「平将門」では、「日本はじまつて以来の不埒者に扱はれてゐる」、「不届至極のしれ者とされ」ていると語られています。
文学的に誇張された表現ではありますが、それに近い認識がなされていた事実が推しはかれます。
しかし、明治後期に織田完之おだかんしと云う人物が将門雪冤運動を展開し、将門に関する複数の著作を残します。さきに挙げた「平将門故蹟考」もその著作の裡の一つです。

建碑記念の絵葉書(明治四十年)
中央の碑文は織田完之。

この運動の影響で、明治39年、大蔵大臣阪谷芳郎により、頂部に笠石を乗せた古蹟保存碑が塚の上に建立されました。
故蹟保存碑の裏は、織田完之の文章が記されています。
永らく失われていた板碑も、このとき再建されました。

「江戸の今昔」(昭和七年)

再建された板碑の銘文は、真教上人の建立したものの写しとされ、
「平将門故蹟考」によると、神田明神の氏子総代・小栗兆兵衛がその拓本を伝えていたといいます。

しかし、大正12年、関東大震災が発生します。大蔵省の庁舎は焼け落ち、将門塚の周囲は見るも無惨な景観に成り果てました。

「江戸傅説」(大正十五年)
塚の上に立つのは古蹟保存碑。
「上代の東京と其周囲」(昭和二年)

この機会に発掘調査が行われ、石室が発掘されましたが、塚の主は判りませんでした。そして、バラックの仮庁舎を建設するために、塚は削られて、池も埋められてしまうのでした。
ですが、板碑、灯籠と共に、池に沈んでいた千鳥岩は残されました。現在の将門塚に近い景観はこのとき形成されたようです。
この千鳥岩のそばには、将門の首を洗ったという古井戸がともに沈んでいたと伝えられます。

「日本傅説研究 第二巻」(大正十四年)

仮庁舎の建設後、就任直後の大蔵大臣・早速整爾はやみせいじをはじめとして大蔵省の役人が次々と死に、その死者数はなんと十四人にのぼります。
昭和3年、この事態を受けて、仮庁舎を壊して礎石を復元し、鎮魂祭が行われました。
朝日新聞は3月27日夕刊で「将門の霊よこの通り謝る」、
讀賣新聞は3月28日朝刊で「将門の霊よ鎮まり給へ」
という見出しでこの事を報じています。
讀賣新聞は記事のなかで
「怨霊立どころに役人共に取りついて省内にバタバタ病人をこしらへ早速蔵相の死亡もつまりはこの怨霊の祟りだなどゝ誰れいふとなく縁起を担つぎ始めた」
と、センセーショナルに書き立てます。
昭和15年、将門没後千年にあたる年に、落雷で大蔵省がまたもや焼失してしまいます。
翌昭和16年、これを将門の祟りとした大蔵大臣河田烈かわだいさおの書によって、震災後失われていた古蹟保存碑が再建されます。
現在、古蹟保存碑は境内入口右手に残されていて、裏には初代と同じ織田完之の文が復刻されています。
また、浅草・日輪寺の境内にある板碑の字を写し取り、これをもとにして新たに板碑が建立されました。

東京・日輪寺の板碑。
碑面は茨城・延命院のものと同じ。

これもまた真教上人直筆と伝わり、1970年に破壊されるまで将門塚の板碑として礼拝の対象になりました。
これらの大蔵省の事業には将門を鎮魂する意図があり、讀賣新聞は3月13日朝刊で「成仏せよ平将門」の見出しでこの事を報じています。
昭和20年、東京大空襲により付近は焦土と化しました。
アメリカの日本占領後に、米軍の指示で一帯を駐車場にする工事をしていたブルドーザーが事故を起こしました。この事故では死者が出たそうです。
神田の材木商・遠藤政蔵がこの現場を見たところ、将門塚の板碑が発見されたので、矢張りこれは祟りだという事になり、政蔵はGHQに「古代の大酋長の墓である」と説明して、工事をやめさせたそうです。

怨霊将門像の変遷

将門塚の歴史を辿るだけでも、将門の怨霊譚には事欠きません。
ここからは、怨霊将門は時代によってどう描写されて来たのかを見ていきます。
天慶3年(940年)の将門の死後まもなく書かれたとされる「将門記」によると、
将門が上野国国府(群馬県前橋市)を占領した際に、八幡大菩薩の使いとくちばしる昌伎しょうぎ(歩き巫女。遊女を兼ねる場合もあった)が神懸かりして、将門に朕の位、すなわち皇位を授ける、と告げたそうです。
この事から、将門は天皇に対して新皇を自称するに至ります。

僧形八幡神像(國學院大學博物館蔵)
奈良時代、悪僧で知られる道教を天皇にするように神託を下したのもこの八幡神だった。

神託の中では、この位記(位階を授かる者に与えられる文書。通常なら皇位に用いることはない)を書いたのは菅原道真だとしていますが、いまだ道真の怨霊の恐怖も冷めやらぬ時期で、同じく朝廷を恐怖に陥れた人物として、関連づけて考えられたのでしょうか。
また、網野善彦氏は、鎌倉時代の法令「御成敗式目」の起請文に登場する日本中の神仏の中に、皇祖神・天照大神を差し置いて「八幡大菩薩」、「天満大自在天」が挙げられることから、将門の時代から中世まで一貫して両神は東国の中心的な神であったことを指摘しています。(『「日本」とは何か』)
さて、将門を恐れた天皇や貴族は神仏に調伏を祈り、僧侶は「邪滅惡滅之法じゃめつあくめつのほう」を修め、神官は「頓死頓滅之式とんしとんめつのしき」を祭りました。
この結果、将門には天罰が有って、神鏑(神の鏑矢?)を受けて死にます。
将門の死は、祈禱調伏の効果によるものだとされたのです。
さらに将門記は、地獄に落ちた将門が生前に金光明経を一部書写したために、一月のうち一時だけ責め苦から休ませてもらえるという「冥界みょうかい消息」を記しています。
将門記からは、将門の伝説化が死後間もなく始まった事が判ります。
初期の将門伝説は、調伏譚によって彩られます。
「帝王編年記」では、東大寺が将門調伏を行った際、法華堂の執金剛神しゅこんごうじん像の頭部、元結もとついという部分が蜂に変化して将門のもとに飛び去り、退治してしまったと伝えます。

「執金剛神縁起」(室町期)
将門に襲いかかる蜂。執金剛神像は秘仏で、毎年12月16日に一般公開される。

永観2年(984年)の「三宝絵詞」に収められた「僧妙達蘇生注記」によると、将門を調伏したのは天台座主尊意とされます。
しかし、実は将門は悪人たちの王となって統率するために地上に遣わされた善性の存在であり、彼を殺してしまったために尊意は地獄で日に十度も将門と合戦をしなければいけないと伝えています。

「北野天神縁起絵巻断簡」(鎌倉期)の尊意。
尊意は数々の霊験で知られており、絵巻では菅原道真の怨霊とも対峙している。

文化11年(1814)年の「遊歴雑記」には、
「下総の国成田山の不動尊は弘法大師の作ながら、俵藤原秀郷等が念願せし平の将門を調伏の尊像なるによって、神田明神 ・元鳥越明神 ・築土明神の三ヶ所の氏子はまいらず。その像へ参詣すれば氏神の祟ありて途中に煩ひ怪我などする事とかや」と記されています。
神田明神、築土明神は将門を祀り、鳥越明神は社名の由来が将門の首が神社を飛び越え(鳥越)たことに由来するので、これらの神社の氏子は新勝寺に参ってはならないのだそうです。

千葉・新勝寺旧本堂(現・薬師堂)
現存最古の本堂。門前町に移築されている。

また、平安末期の「今昔物語集」では、将門の娘とされる如蔵尼、子の良門、孫の蔵念の仏教説話が説かれています。
これらの人物の説話が人々に広まるに連れて、将門の伝説に多くの架空のキャラクターが登場する下地が出来あがります。

時を経て、室町時代成立の「太平記」巻十六「日本朝敵ノ事」では、将門は
「其ノ身皆鉄身ニテ 矢石ニモ傷ヲレズ 剣戟ニモ痛ザリシカバ」
と、超人的な肉体を有していたことが語られます。
将門を恐れ、比叡山で「四天合行ノ法」という祈禱がされると、
「天ヨリ白羽ノ矢一筋降テ 将門ガ眉間ニ立ケレバ 遂ニ俵藤太卿ニ首ヲ捕ラレテケリ」
と、「将門記」に見える「神鏑」が、「白羽ノ矢」になって将門に突き刺さります。
都で曝された将門の首は、まるで生きているようで、
「斬ラレシ我ガ五体 何レノ処ニカ有ラン 此ニきたレ 頭つぎテ今一軍ひといくさセン」
と夜な夜な喋るので、人々に恐れられたそうです。
ある時、この場所を通った人が、
「将門ハ こめカミヨリゾ 斬ラレケル。俵藤太ガ はかりごとニテ」
と歌を詠むと、将門の首はからから笑ってから枯れた、と記しています。
太平記よりも前に成立した「平治物語」でも「こめかみの歌」を載せていますが、ここでは詠み人は藤六左近という人であったと語られます。

平新皇将門公御真影(三宅蘭崖)
分身する将門。影武者とする伝承も多い。

将門を討った藤原秀郷、通称俵藤太を主人公とし、有名な百足退治のエピソードが語られる御伽草子、「俵藤太物語」では、将門の容姿について、
「そのありさま、ことに世の常ならず、丈は七尺にあまりて、五体はことごとくくろがねなり。左の御眼おんまなこに瞳二つあり。将門にあひも変わらぬ人体同じく六人あり。さればいづれを将門と見分けたるものはなかりけり」
と記され、超人的な特徴が増えたうえ、分身までするという、怪人物としてさらに誇張された姿になっています。
そして俵藤太は将門の愛妾とされる小宰相、別名・桔梗の前から、
「本体には月日に向かふても燈に向かふ時も御影映りたまふ。六体には影なし。
さて又御身体悉く黄金なりといへども、御耳の側のこめかみといふ所こそ、肉身なり」
という弱点を聞き出し、討伐に成功します。
太平記と同様に、曝された将門の首は生き続けるのですが、ある人が、
「将門は、こめかみよりも、射られけり 田原藤太が謀りごとにて」
と詠むと、この怪異は収まったそうです。

「源氏一統志 四」(弘化三年)
京都で曝される将門の首。

さて、二つの逸話で将門の首は、超常的な存在ではあれ、現在の大手町ではなく京都で果てています。
「将門純友東西軍記」では、くだんの「こめかみの歌」によって果てた首の逸話に加えて、
「将門がむくろ、首を追て武州に来り、豊島之郡にて倒る。其霊あれて郷民をなやます。故に一社を建て瞎(かため)明神と号す。かためは一目なきかたちなり。将門、貞守がために弓手ゆんでの眼を射貫る。故に郷民、社をよんでかためと云ふ。遥か後に神田と云ふ。社のほとりに田あるゆえに、しか云うと伝えたり。今、神田明神は将門が霊となん。」
と、この時点では首を追ってきた胴体ですが、勝手に動き出す屍はのちの首の伝承に繋がると思われます。
加えて、神田明神の起源にも触れています。
ここでは平貞盛によって将門が射抜かれたことになっており、矢が左目に刺さったので「かため」の社、それがのちに「かんだ」となったといいます。
天和元年1681年に成立した「前太平記」では、
「こめかみの歌」の後に
「東国懐かしくや思ひけん 此首飛で空に翔(かけ)り 武蔵国のある田のほとりにぞ落にける」
と、ようやくお馴染みの首伝承と同じ形になります。また、神田明神は落下地点に建てられた叢祖ほこらであったと伝えます。
もともと、神田明神は将門塚の付近に位置していました。そして、神社を管理していたのは、浅草の芝崎道場・神田山日輪寺でした。
徳川家康が江戸に入ると、神田明神と日輪寺は移転されることになります。
神田明神は日枝神社とともに一旦駿河台へ、そのあと神田明神は江戸城の鬼門、日枝神社は裏鬼門へと、それぞれ配置されました。
神田明神は江戸の総鎮守とされ、江戸っ子から篤い信仰を集めました。

「江戸の花名勝会 神田」(文久三年)
歌川豊国(右下・尾上菊五郎扮する滝夜叉姫)
歌川貞秀(左下・神田明神の境内)
歌川芳虎(上・石を噛んだ〈神田〉将門の首)の合作

江戸時代には、将門を題材とした文芸作品、浮世絵、歌舞伎、浄瑠璃が数多く製作され、江戸っ子に親しまれました。
先に挙げた「前太平記」は、通俗的な将門に関する歴史書として博く親しまれ、歌舞伎の題材になります。
近松門左衛門作の浄瑠璃、「関八州繋馬」は、平将門の架空の子供、良門と小蝶が、父の意志を継いで源頼光らと渡り合う物語です。
この影響を受けて作られた山東京伝作の読本「善知鳥安方忠義伝」は、良門と、今度は滝夜叉姫という架空の娘が謀反を企てたのに対して、将門の架空の忠臣・善知鳥安方が諫言する物語です。

「越中立山の地獄谷に肉芝道人蛙合戦の奇をあらはし良門伊賀寿の両雄に妖術を授く」
(歌川芳虎、嘉永五年)

話の中では、良門と滝夜叉姫が、筑波山で蝦蟇の仙人・肉芝仙にくしせんに妖術を教えられ、かつての将門の屋敷、相馬の古内裏で妖怪を集結させます。
この場面を描いた浮世絵で、非常に有名なのが「相馬の古内裏」です。

「相馬の古内裏に将門の姫君滝夜叉妖術を以て味方を集むる大宅太郎光国妖怪を試さんと爰に来り竟に是を亡ぼす」
(歌川国芳、天保/弘化期?)

本来は「和漢百物語 大宅太郎光圀」のように、多数の骸骨が登場する場面なのですが、それを巨大な一体の骸骨に集約してしまう歌川国芳の発想力には、敬服してしまいます。

「和漢百物語 大宅太郎光圀」(月岡芳年、慶応元年)

神田神社の不遇の祭神

寛永3年1626年、神田明神に参拝した公家・烏丸光広の提言により後水尾天皇から勅免が下されます。
なんと、将門の反乱は、このとき正式に許されたのです。
そして寛文11年1662年、霊元天皇より「神田大明神」の勅額が下賜されます。
江戸時代にはすでに、将門の復権は十分に為されていたのでした。

「東京開化狂画名所 神田明神」(月岡芳年、明治十四年)
カメラを前にして、影武者と共に様々な表情をきめる将門。

しかし明治の世になって、朝敵将門は蒸し返され、教部省の指示で神田明神の祭祀から外されてしまいます。
教部省は「新聞雑誌」明治7年2月8日の記事で
「天地ヲきわメ古今ニ亘リ賊臣平将門一人而已のみ」とし、
「今日文明ノ時ニシテ此ノ如キ逆祀アルベカラズ」と神田明神を強く批判します。
教部省は宗教を管轄し、国民を教化する目的で設置された官庁です。
同記事では将門祭祀に就いてさらに、
「衆庶ノ蠱惑ヲ氷塊シ、循々じゅんじゅんトシテ能ク教化スルハ教導ノ職ナリ」
と書きます。教導職とは教部省の役人のことで、かなり使命感に燃えています。さらに、
「若シ隠忍シテ之ヲ置カバ、四海万国本朝ヲ何トカ云ワン」と、このまま将門を祀っていては世界の恥だと、大袈裟に風呂敷を広げています。
明治7年3月、「神田大明神」の額はおろされ、三条実美が書いた「神田神社」の額が掲げられます。明神とは仏教的な立場からの神の呼称であり、神仏分離政策によって江戸時代まで渾然一体としていた神道と仏教を引き離そうとしていた新政府にとっては都合の悪い扁額でした。
同年8月、本殿の祭神は、大己貴命を中心にすえて、大洗磯前神社から新たに少彦名命を加えました。
将門は摂社・将門神社に祀られますが、これは将門の祭祀を絶やさないように、本居宣長の曾孫、本居豊穎とよかいが提案したからです。
将門神社は、社殿の右横に明治11年に竣工します。

「五千分一東京図測量原図 東京府武蔵国神田区駿河台及本郷区湯嶋近傍」(明治十六年)
「神田大神」社殿右に「将門神社」。
天明2年(1782)建立の神田神社旧社殿。
右面、渡廊の先には将門神社がある。
(「HISTORY - 神田明神1300年事業」より)

「郵便報知新聞」は、明治7年9月14日の記事で、
例祭日が近づいているが誰も挙行する人が居らず、神主を始めとした氏子らが富めるのは将門の恩恵であるのに、朝廷に諂諛てんゆしてそれを忘れたものは人非人である、と厳しく非難する人がいて、
神社に一文銭も投じる事をよしとせず、新しい神社創建のために醵金きょきんが当時の金額で千円ほど集まっている、と報じています。
江戸っ子としては、政府の将門の扱いは到底容認できるものではなく、江戸三大祭であった神田祭は十年間、中断されてしまいます。

明治17年の神田祭
(「HISTORY - 神田明神1300年事業」より)

明治17年、神田祭が復活しますが、このとき台風が直撃してしまいます。
台風は将門の祟りとされ、将門台風と呼ばれました。
9月16日の「時事新報」では、「将門様の御立腹」という記事が載ります。
記事によると、
「大江戸の昔に劣らむ大祭礼」が催されますが、この時期を見計らって将門が
「八百八町を荒れ廻りて折角の御祭りをメチヤメチャに致されたるなり」
として、
「ウカウカ朝敵呼ばわりして跡で後悔し玉ふな」
と政府を非難しています。
この記事は「神田八丁堀栃面屋の弥次郎老人」の言葉とされますが、実際は、時事新報創刊者の福沢諭吉の文章であると考えられます。
近代の将門怨霊伝説は、この台風によって始まったようです。

さて、大正十二年になると、神田神社の社殿は関東大震災の影響で大方が焼失してしまいます。
この際に将門神社も灰となり、以降再建されることはありませんでした。
下記の動画は、震災当時の東京各所を撮影した「關東大震大火實況」です。
11分3秒から、神田神社の甚大な被災状況を視聴できます。

現在の社殿は、伊東忠太が顧問になり、佐藤功一、大江新太郎によって設計され昭和9年に再建された、鉄骨鉄筋コンクリート・SRC造のものです。この工法では日本初の社殿で、大震災の反省から神社の不燃・耐震化に挑戦した意欲的な建造物です。

再建された現社殿。昭和20年の東京大空襲にも耐えた。
(「HISTORY - 神田明神1300年事業」より)

ちなみに、本殿の奥にある魚河岸水うおがしすい神社は、社殿に先立って鉄筋コンクリート・RC造で再建されました。

かつての築地市場、魚河岸(中央卸売市場)の守り神。
市場内に当社の遙拝所があったが、現在は豊洲に奉遷された。

また、神田明神の境内左手にある古民家・通称「神田の家」は、戦後GHQから将門塚を救った遠藤政蔵の住まいが移築されたものです。

遠藤家旧店舗・住宅主屋(昭和二年)
二階部分は戦後の増築。2009年、文化財指定を機に当地へ移築。

さて、1984年、氏子の希望を受けて、将門はようやく摂社から本社の祭祀に復帰しました。
これは1976年に放送された将門を主人公にした大河「風と雲と虹と」の人気が背景にあったと考えられます。
怨霊としてではなく、飽くまで日本史の英雄としての将門像が復活の後押しになったのです。
しかし、1985年から発表された小説「帝都物語」では、日本最大の怨霊として取り上げられて、再び怨霊としての名声を拡めます。
将門の記録は生前のものはほとんどなく、後世、伝説的人物として扱われている史料が圧倒的に多くなりますから、一般にそのような側面ばかりが顧みられてしまうのは仕方ないと思います。
オカルトと平将門は、切っても切れない関係なのでしょう。

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