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042. シャンバラ精舎

石垣島セミナーが終わるとすぐに、教団は阿蘇の外輪山にある熊本県波野村に十五ヘクタール(東京ドーム約三個分)の土地を入手して、「シャンバラ精舎」を建設することになった。

「シャンバラ」とは、チベット密教の理想の仏国土の名前だ。オウムにはもともと「日本シャンバラ化計画」という日本全国の主要都市に支部道場を持つ計画や、「ロータスヴィレッジ構想」という仏教に基づいた理想郷を建設する計画があったので、いよいよオウムの街の建設がはじまるのかと思った。

シャンバラといえば、麻原教祖が作曲した「シャンバラ・シャンバラ」という曲もあった。静かな瞑想曲が多いオウムの音楽のなかで、めずらしくアップテンポでリズミカルな曲調からは、荒々しい神々の動きによって翻弄される人間の姿がイメージされる。そして、阿蘇に建設されるシャンバラ精舎は、やはり平穏な仏国土とはかけ離れたものだった。

シャンバラ精舎の建設が始まると、波野村を乗っ取られるのではと危機感を抱いた村民が、激しい反対運動をくりひろげ、右翼や暴力団を雇って妨害し、地元警察は隙あらばサマナを逮捕しようと待ち構えていた。
出家者たちは、村民の圧力で電気・水道・ガスなどのライフラインを使えないなかで、火山灰の原野を開墾して造成するという過酷なワークに取り組まなければならなかった。そこに送り込まれたのは、石垣島セミナー後に出家した多くの新人だったので、耐えられずに逃げ出す人も少なくなかった。

同じ頃、麻原教祖はパーリ語仏典の翻訳に力を入れはじめていた。
最初は『阿含経』など北伝の経典翻訳を試みたが、どうもブッダ本来の教えとは思えない内容だったらしい。そこで、南伝の経典を翻訳することに決めて、編集部から多くの人材を経典翻訳部門へまわして、『南伝大蔵経』をパーリ語の原典から翻訳するチームが結成された。教義編纂の中心だった編集部から主要な人材を投入するほど、教祖は『南伝大蔵経』の翻訳を重要視していた。私も、他の編集部員と一緒に「南伝チーム」に移ることになった。

シャンバラ精舎にいくつかのプレハブ棟が建つようになると、富士山総本部の多くの部署が阿蘇へ移動することになった。
「こんなに大勢が移動したら、富士はからっぽになりそう、オウムの本拠地は阿蘇になるのかな?」と心配になった。

出発当日、移動する部署のメンバーが富士山総本部を出る時刻は、何時何分何秒まで正確に決められていた。ワゴン車に乗り込んで出発を待っていると、南伝チームのリーダーのヴァンギーサ師がカウントダウンをはじめた。

「三分前、二分前、一分前…五、四、三、二、一、はいスタート!」

オウムで開発した「大宇宙真理占星学」で割り出した、吉日・吉時・吉方位に阿蘇に出発するんだなと思った。

夜中に富士を出発して、波野村に着いたのは夕方だった。
シャンバラ精舎の敷地に入っていくと、車一台通るのがやっとの林道の脇に、泥だらけで真っ黒な顔をした男性サマナが携帯無線機を持って立っている。無線機からは、

「B地点に右翼の車…B地点に応援頼みます…」
「応援頼みます。応援頼みます…」

そんな声がとぎれとぎれ聞こえて、まるで野戦場にいるような雰囲気だった。

運転手が窓を開けると、警備のサマナが言った。
「この先で、村民との衝突が起きていますから、ちょっと待っていてください」
「なんだか物騒なところだなあ…」と思った。

到着して数日過ごしてみると、建設途中のシャンバラ精舎は想像以上に過酷な環境だった。夜は富士より寒く、昼間は蒸し暑く、火山灰を多く含む土地は、雨が降ればひどくぬかるみ、乾けば砂が舞い上がった。
この細かい火山灰の砂が、南伝チームのパソコンのハードディスクを次々とダメにしていった。

シャンバラ精舎にはさまざまな部署があった。一番人数の多い「建築班」をはじめとして、洗濯と食事を担当する「生活班」、水道がないので毎日タンクローリーで水を汲みに行く「水班」、動物を飼育する「動物班」、石垣島セミナーの出家で増えた子どもたちの「子ども班」、成就者が出ない停滞ムードの「修行班」、そして私のいた「南伝翻訳チーム」など。
買い食いもできない隔絶された環境だったからだろう、食堂の一角には食の戒律が守れない人のために、頼めば食べたいものを作ってくれる場所があった。もちろん好きなものを食べることは、修行者として褒められることではない。教祖はそこを「動物コーナー」と命名して許可し、利用する人もこっそりという感じだった。

点在するプレハブ棟を結ぶひどくぬかるんだ道を、ゴム長靴をはいて少し背を丸めて歩くサマナの姿は、修行者というより開拓民のようだった。

「ここは流刑地みたいだなあ…いったい、いつになったら富士へ帰れるんだろう…」

私はとても前向きな気持ちにはなれなかった。

教祖は一か月に二度ほどやって来て説法した。
「このような厳しい環境は修行者にとっては素晴らしい。私はこういう土地が好きだ」と語って、なかなか成就者の出ない修行班を叱咤激励し、「涙のシークレット・ヨーガ」と銘打って、戒律が守れないサマナの懺悔を受けていた。

私はどのくらいシャンバラ精舎にいたのだろうか。蒸し暑く、底冷えがして、ぬかるんでいて、プレハブの室内は湿っぽく、砂っぽく、暗い所だったという印象しか残っていない。

後で師から聞いたことだが、富士から阿蘇への出発時刻はたしかに「大宇宙真理占星学」で割り出したそうだが、その時間は「吉」ではなく「凶」だったという。

「えっ…」と、私は絶句した。一瞬意味がわからなかった。
師が、ぼそっとつぶやいた。
「カルマ落とすためでしょ…」

それなら阿蘇で良いことなんかなにも起きるはずはない! 
占星術をそんなふうに使うのは、麻原教祖くらいではないだろうか。あのとき、五〇〇人もの出家者を迎え入れて重くなった教団のカルマを、シャンバラ精舎は確実に落としてくれた。


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