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059. ガンガーの祝福

サマナのインド修行から三か月後、三百人をこえる信徒さんと仏跡を巡礼するインド・ツアーが行なわれた。教団はじまって以来の大規模な海外ツアーだったこともあり、取材班は万全の態勢で臨んでいた。

ところがツアーの日程が進むにつれて、取材班の責任者スッカー師の表情はくもりがちになっていた。参加者への取材は順調に進んでいたが、教祖の映像がなかなか撮れなかったからだ。

ツアーのあいだ教祖は列車内でひたすら神々に果物を供養して、おりてきた大量の供物はそのまま参加者のイニシエーションとして配られた。教祖の顔色はみるみる黒ずんでいき、イニシエーションによってエネルギー交換している様子がそばで見ているとよくわかって、とてもカメラを向けられる状況ではなかった。それでなくてもインドの列車の照明は暗すぎて、写真もビデオもまともに撮れるようなチャンスはなかった。

「撮影のために特別時間を取ってもらえないか、尊師にお伺いしてみるわ」

体調を気遣って様子をみていたスッカー師も、迷った末にとうとう教祖に相談しに行った。

「明日の朝バラナシに着いたとき、撮影の時間を取ってもらえそう。数時間停車するみたいだから」

信徒を引き連れたインド巡礼ツアーでは、信徒さんの修行の様子や集合写真を撮ることで忙しく、教祖も一人になることがなかったので、私は写真を撮ることは半ばあきらめていた。信徒さんから離れて撮影のための時間を取ってもらえるなら、教祖らしい写真が一枚でも撮れるかもしれない。

バラナシに着いたのは未明だった。
あたりがぼんやり白みはじめてくると、有名なガート(沐浴場)の観光客相手のボートを三そう借りて、教祖とマンジュシュリー正悟師(村井秀夫)、カメラ担当のスッカー師と私、ビデオ・カメラ担当のI君とN君がそれぞれボートに乗り込んで、ガンジス川の上で撮影することになった。

「聖都バラナシ、聖なるガンガー。ロケーションは最高だな」

そう喜んだのもつかの間で川岸を離れるとすぐに、地面の上なら自分の足で走り回って好きなアングルで撮れるが、ボートの上ではそうはいかないことに気がついた。

「舟の上で撮影するなんて、もう…だれが考えたの…」

教祖の後ろにボートをつけられて、どうやっても背中しか撮れない状況にあせった。

「あっち! あっち!」

スッカー師が手振りを交えて大声で指示するうちに、インド人の船頭にも意図が伝わったのだろう、教祖の撮影がしやすいような船のポジション取りをしてくれるようになった。

まだ明けやらぬ静かなガンジス川には朝もやが漂っていた。船頭がボートをこぎ、中央にマンジュシュリー正悟師がカメラを持ってすわっていた。ときおり水面を打つオールの音がこだました。教祖は船尾でリラックスしていたが、すぐに表情が変わって蓮華座を組みなおしマントラを唱えはじめ、その音に合わせるようにさまざまな手印を組みだした。
写真を撮りながら、私はファインダー越しにあたりの変化に気づいた。

「光が…。こんなの、見たことない…」

私は息を止めて高速でシャッターを切った。朝日が昇ってくるにつれて、水面にかかっていた朝もやは精妙なフィルターのようになったのか、朝の光が透過してあたりはさまざまな色に染まっては変化していった。

最初は一面輝く朱鷺色に染まった。こんな光の色はこれまで見たことがなかった。総毛立つような感覚のなかで、私は二台のカメラを駆使して写真を撮った。次に光は輝く薔薇色に変わった。全身が震えそうになるのをがまんして、私はファインダーに額をぎゅっと押し当ててシャッターを切り続けた。

教祖はマントラのスピードを上げて次々と多彩な手印を繰り出している。昇りつつある太陽のエネルギーと連動しているかのように、マントラのヴァイブレーションが力強く響いてくる。あたりは薔薇色からオレンジ色に染まって、オレンジの輝きが増したと思った瞬間に、今生まれたばかりの太陽の輝く透明な光に包まれた。

あっという間にフィルムを使い果たして、私はあわてて二台のカメラのフィルムを新しいものと交換した。教祖はずっとマントラを唱えて流れるように手印を組んでいた。いったいぜんたいどうしてこんなに多くの手印が次々と繰り出せるのだろうか、どこでだれに習ったものか、そもそも習っておぼえたものなのかどうか…

「この人はいったい何者なんだろう…」

そう思いながら、完全に昇った太陽の光の中で、私は少し落ち着きを取り戻しながら写真を撮っていた。列車内では黒ずんでいた教祖の顔はすっかり輝いていた。マントラが終わり、盲目の教祖は再びリラックスした表情で中空に視線を送りなにかを感じているようだった。

このとき遠くを見るようにして微笑んでいる教祖を撮った一枚は、顔に光がきれいにまわってやわらかな表情をよくとらえていた。背景にはガートの建物が写って異国の雰囲気があり、この写真は大判のポスターにも使われた。

聖都バラナシのガンジス川で、わずか二十分ほどで撮った写真にはいいものがたくさんあった。私なりの傑作もあったかもしれない。にもかかわらず、私には良い写真を撮ったという満足感はなかった。なぜなら、テクニックも、感性も、意図も、あのときなにも働く余地はなく、私はただシャッターを切っていただけだった。
あの神々しいまでの光の到来は、どんなフィルムにも写し撮ることはできない。カメラなんか放り出して、圧倒的な奇跡のなかに、ただそこにいるだけで、本当はよかったのかもしれない。

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