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絵描きの掌編 胡桃シリーズ 第一話 〜雨上がりに蒲公英〜

雨上がりに蒲公英たんぽぽ



 僕の彼女は、なんというか、ベテランナースなのではあるけれど、冷や冷やするほどおっちょこちょいなのである。
 もちろん職場でのナースとしての失敗などはしない。けれども、それ以外のことがどうにもずれているのだ。いや、本人は大真面目なのであるから、笑ってはいけないのだが、どうしても彼女を見ているだけで吹き出してしまう。

 彼女の名は胡桃くるみ
 笑顔が可愛いから、何を仕出かしても許してしまう僕がここにいた。
 一緒に住むようになって間もなく二年。
 つい先日のことである。僕が夜勤明けでマンションに帰った朝、その日が休日であった胡桃は案の定まだベッドの中であった。
「ただいま」
 胡桃は、眠たそうに片目を開け、
がくくん、お帰り……お疲れさま」と言い、一瞬の間をおき、ハッと目を開けて、
「餃子焼くわ。夜中に下拵えしたの」と元気よく続けた。
 ちなみに、楽とは僕の名前だ。
(朝から餃子かよ……どういうセンスなんだ)
 内心そう思いながら胡桃を観察していると、
「今起きるから……ね……」と寝返りをうつと、たちまち大きな鼾を立てて再び寝始めた。
 ベッドからはみ出た右足に、五本指ソックスの左側が指部分を持て余したまま履かされていた。
 そんな胡桃が面白くて愛おしい。

 さて、三月のある土曜日。
 胡桃の職場であるクリニックは、昼過ぎに終えるはずだ。
 クリニックのそばに、新しいイタリアンの店を見つけたので、食いしん坊の彼女を連れていこうと、ランチを予約して待ち合わせをした。生憎の雨だった。
 終了間際に来た骨折患者の処置をしていた胡桃は、予定よりも少し遅くなったせいで、焦りながら店に飛び込んできた。雨で滴る傘をくるくる閉じて、店の傘立てに突っ込んでいる。傘を差してきたのにどうして? と思うほど全身が濡れている。
「あーん、ごめんね。遅くなっちゃった」
「大丈夫だよ。それよりも、なんでそんなに濡れちゃうの? 川に落ちたみたいじゃないか」
「そーなの! 溺れそうだった! 傘もそろそろ替え時かしら」
「いや、傘のせいじゃないと思うよ」
 僕達はランチのAコースとBコースをそれぞれ注文した。食いしん坊の胡桃は、僕のパスタやメインディッシュを「お味見」と言って、ずいぶんと横取りをしていた。よく食べるな。
 美味しいランチに満足して満面の笑みを浮かべる。
 直後、彼女の不機嫌を呼び覚ましてしまう小さな事件が起こった。

「あ? あたしの傘がない! 」
「どうされました?」
「私の傘がないんです。似てる傘がここにあるから、誰かが間違えて差してっちゃったんです!」
「この傘ではないのですね?」
「そうです! 黒に水玉で似てるんですけど全然、、違うんです。全然、、! ショック、気に入っていたのに」
 美味しいランチで幸せいっぱいなはずだった胡桃から笑顔が消えた。
「傘が戻りましたら御連絡致します」というスタッフに、すっかり機嫌を損ねていた彼女は、
「もういいです! 要りません!」
と、やや捨て台詞的な言葉を吐いて、雨の中、店の外へ出た。
 僕と胡桃はお互いの左右の肩を濡らしながら、久しぶりに相合傘をして駅に向かった。
 日曜日、胡桃の機嫌はすっかり回復して、いつも通り居るだけで僕を面白がらせてくれた。
 そんな彼女は実はものすごく几帳面で、朝から冷蔵庫の整理やそこまでやるかというようなゴミの分別に精を出していた。よく見ると、今度は片方の足に僕のくつ下を履いていた。

 月曜日も雨が降っていた。傘の出番である。つまり土曜日の事件を思い出さずにはいられない。仕方なく別の傘を差して出勤した胡桃は、開口一番、先輩ナースの杏子あんずさんに、
「聞いてよ! 土曜日ランチしてたらお気に入りの傘、持ってかれちゃったの! 似てるけど全然、、違うのに! くるみプンプンなの!」と頬を膨らませて訴えたらしい。
 杏子さんは、そういえば……と、
「そういえば、土曜日の帰りに花生かおちゃんも、傘がないって言って折りたたみ傘で帰ってたよ」
「えー? 職場でなくなるなんてありえなーい」
 そう言って胡桃が傘立てを覗くと……果たしてそこに胡桃自身の黒い水玉の傘があったのだ。
 夢を見ているようなパニック状態に陥った彼女は、杏子さんと同僚の桃乃もものさんに土曜日の顛末を語って、ようやく頭の整理が出来たようだ。そう、あの傘は胡桃自身が間違えて差していった、紛れもなく花生さんの傘だったのである。
 もう今すぐにでも店に行って、あの傘を取り戻してこなければ。
 その時の胡桃の固まったあとの焦り騒ぐ姿を想像すると、僕は何度でも吹き出すことができるのである。
 しかも、傘を差した時点で気づくだろ、普通……いや、胡桃に普通という言葉は通じない。花生さんには悪いが、どうにも面白くて仕方がない。
 胡桃はそわそわしながら昼休みになるのを待った。そして、午前中最後の患者の処置を終えたあと、白衣を着替えもせずに、イタリアンの店に脱兎のごとく駆け出した。のであるが、店は休み。暗い店内をガラスに顔をくっつけて覗く、怪しい白衣姿の女性。我が彼女である。
 店内の傘立てにはビニール傘が一本あるだけで、花生さんのものと思われる傘は見当たらなかった。
 ガックリと肩を落とし、胡桃は近くのファッションビルで花生さんへのお詫びのつもりで二本も傘を買ったそうだ。
 好きな方を選んでもらうか、もしくは二本ともお詫びに差し上げようと思ったらしい。なぜ二本も買うのかが僕にはよくわからないが、そこも胡桃らしいと言えばらしいのである。
 昼休みが終わる頃、午後出勤の花生さんがやってきた。
「あぁ、やっぱりあたしの傘、戻ってきてないかぁ…….でも、いずれにしてもスタッフの誰かだから、じき返ってくるよね」
と、杏子さんに話している。杏子さんと桃乃さんは目を合わせてくすくす笑っている。
「これから面白い話が聞けるよ、ふふ」
 杏子さんが言い終えるが早いか、ものすごい勢いで胡桃が更衣室に飛び込んできた。傘を二本手に肩で息をして、
「ごめんね、花生ちゃん! これあげるから許して!」
「ん??」
「あたしが犯人なの。もう花生ちゃんの傘はないの!」
「胡桃ちゃんが持ってっちゃったのか」
「そーなの! ごめんね」
「いいよ、いつでも」
「違うの! もうないの!」
「? 電車の中に忘れた? また白目剥いて寝てたんでしょ」
「違うの! 楽くんとランチしたお店なの」
「じゃ、あとで見に行けばいいよ」
「違うの! 」
 あとは、先程語った顛末を、手振り身振りで一所懸命伝える面白い胡桃の姿があったはずだ。
 その日胡桃は、傘の持ち主の花生さんをはじめ、杏子さんとも桃乃さんとも目が合う度に、ぷッと吹き出され、さらなる揺るぎなき面白キャラが確立されたのであった。
 なんといっても、本人は大真面目なのであるから。

 火曜日。
 捨て台詞を吐いた店の扉を開けた胡桃は、上目遣いにその顛末を、笑いを堪えるスタッフに正直に告げ、保管されていた花生さんの黒い水玉の傘は、無事に持ち主の元へ戻ったのである。
 二本の黒い水玉の傘を並べて、
全然、、違うじゃんねぇ、水玉の大きさも違うし。なんたって、楽くんにもらった蒲公英たんぽぽのチェーンホルダーをつけていたのに気づかないってありえなーい!」
と、一番大笑いしていたのは、紛れもなく胡桃なのであった。
 そろそろプロポーズしてもいい頃かな。

僕の追記 
 この傘取り違いの一件は、全てが終わったあと、胡桃が僕に白状したことだった。僕は次に花生さんに会う時、どんなリアクションをとればいいのか、今から悩んでいる。


 第一話 完


雨上がりに蒲公英



胡桃シリーズ 第二話



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