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現在の私に至るまでの話⑤

昨日は、配膳会というところがどういうところなのかということについてをざっくりとお話したつもりでいる。

幼少期、場面緘黙で家族に受け入れて貰えなかった記憶がコンプレックスとなり、接客業に飛び込んだが、結果うつが悪化してしまい、接客はもう二度とやらないようにしようとしていたのだが、また配膳会に入るという事態となってしまったのは、私が話し方のコンプレックスで、配膳会で働いていた時にお世話になった人の訃報だった。

その人にお線香をあげに行くというつもりで、連絡したのたが、その思いは叶わずに、配膳会にまた入ることになってしまった。

現在の私は、顔見知りや知人、職場の同僚、また街で道を訊かれた時などは、普通に話す事ができるのだが、「宴会場での仕事」が、接客業に入った1社めの会社の時から、どういう訳か周りが見えなくなって、萎縮して過度に緊張してしまうのだった。

なので、宴会サービスは、極力避けたかったのだが。。

この配膳会社の社長も、人の話をよく聞かない人だったので、そんな事を言っても、その場は頷くだけであった。

その配膳会社に入って一番最初に行くことになったのは、皇居の近くにある外資系の高級ホテルの婚礼サービスであった。私は緊張もしていたが、そんな所に入れる時が来るなんて、と少し浮かれていた気持ちも否定はできない。

その日は朝、8:30からの仕事だったのだが、遅刻してしまった気がする。私は、体調を崩す直前も宴会サービスの仕事をやって、フレンチのフルコースのサービスも経験があったので、一連の流れだけは分かっていた。

ただ、会社が違うので、当然やり方も違う。その日、私が初めてゲストスペースに行くことになったのは、婚礼に参列するために来館し、会場の準備ができるまでお待ちいただくスペースにて、ゲストに飲み物やおつまみのサービスをする一環の中で、おつまみを配る係として、トレイナーの人についてもらって出るのだった。

おつまみは、カナッペといって、その現場では、真っ平らな平皿の上に所狭しとさらに小さな陶器の器だったり、ピックを刺したものが乗せられていて、少しでもバランスを崩せば、簡単に落ちてしまうような感じであった。

その後、ゲストを会場に入れる時間となり、私は先程と同じトレイナーの人と一緒に、簡単なサポートをしながら、流れの確認をするのだった。

ただ、以前やっていた会社のサービス方法とは異なり、全ての料理が、個別盛りであり、サーバーは、基本的にお皿を3枚持てなければならないとの事だった。(※ならないという事でもないが、3枚持てれば、周りに遅れを取ることも少ないという事である)

私は、ゲストの入った宴会場の中で、また過度な緊張が襲い、周りが見えなくなってしまっていた。披露宴で、新婦が退場する際、トレイナーの人が気づいて私の身体を押さえつけたので、よかったのだが、それがなかったら、私は中座中の新婦のドレスの裾を踏んでしまうところだったのだ。

今の私としては、場面緘黙の名残がここに来てなお残っているのだと思っている。

周りが見えなくなるだけではなく、私は声が出なくなってしまい、且つワインなどを注いだり、料理を持つ手に力が入らなくなって震えたりするのだった。この時の私には、お皿を3枚もつというのはハッキリ言って無理だったのだと思う。ただ、本当に僅かな時間だが、気持ちの持ち方によって、安定している時だけ、持てることはあったが、それは本当に稀であった。

こんな私に、周囲の仲間たちも、「ゲストは噛み付いて来やしないよ」とか「もうちょっと楽にしていいんだ」とか言ってきたが、そんな事は頭では分かっている。だが、身体が勝手にそうなってしまうのだとは、なかなか言い出せずにいたのだった。

私がひとり立ちするようになると、特例的に、私には2枚持ちが許されることになる。ということは、必然的に、他の人よりも、厨房とテーブルを往復する回数が増え、遅れを取ることになるのだが仕方ない。

ここまで、書いてきたが、少し気分が優れなくなってしまった。。

配膳会にいた時は、それほど気が張り詰めていたということだと思う。

私は、その後、いろいろな現場に行くことになり、1年〜1年半くらいで、自主退社したのだった。

明日は、配膳会をやめた後の話からしていこうと思う。

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