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アニメ『少女革命ウテナ』の私的な解釈(解説)と感想


アニメ『少女革命ウテナ』を見る機会があったのですが、私の中では久しぶりに考えることや心動かされることが多かったアニメ作品でした。

私的には今までの中でも指折りで感銘を受けたアニメとなりました。それほど大きな衝撃で、もっと早くに見ておくべきだったと思いました。

そして、この作品はわざわざ理性によって分解すべきものなのか・出来るのかとも考えたりもしたのですが、自分の中で噛み砕く過程が欲しいとも思ったので、言語化して残しておこうという次第です。

まあ、1ヶ月以上頭を悩ませていました割に結局よく分からなかったんですけれども。


そして、あくまでもこれらの解釈は私個人の解釈であり、拙いものであることは予め断っておきます。

というのも、この記事を書くにあたって様々な記事や解釈も読んだのですが、「様々だ」ということしか分からなかったからです。

尚、公式からの情報は現時点では断片的にしか知ることが出来ていないです。ご了承ください。



『少女革命ウテナ』という作品


最初に少しだけ作品紹介を行っておきます。

『少女革命ウテナ』は以前に紹介した『人狼 Jin-Roh』と同じ90年代のアニメで、ちょうど『エヴァンゲリオン』の後に放送された作品です。

その際にも少し述べましたが、日本の90年代というのは作家性や職人性の高いアニメが多く作られた時代であって、この『少女革命ウテナ』も非常に作家性の高いアニメ作品となっています。

私が衝撃を受けたのもそういう作家性の部分であって、この作品は時代を先取りしすぎていたため、2020年代になっても新鮮に突き刺さって考えることがあったという訳です。


監督は幾原邦彦、通称「イクニ」監督で、他には最近劇場版の制作が発表された『輪るピングドラム』や『ユリ熊嵐』といった監督作品があります。

ちなみに、あの「セーラームーン」シリーズの演出などにもメインスタッフとして関わっており、本作も「セーラームーン」スタッフの一部をその流れで連れてきたという経緯があります。

作品の特徴としてはとにかく独特な演出といいますか、演劇からの影響が多い人らしいのですが、空間を独自の世界に歪めてくる感じがします。

また、27話に見られる『天使のたまご』の直接的な影響のみならず、メタ構造や転生など、どことなく押井守っぽい感じが全体にあります。観念的なものが好きなんでしょうね。


そして、以下から『少女革命ウテナ』のテレビ版・劇場版を通した作品に対する私の理解や考察を書いていきますが、この作品に関してはこういう事をすべきなのかと迷ったということは今一度断っておきます。

そもそも、作品なんていうのは鑑賞者が各々勝手に感性で受け取れば良いものだという前提はありますが、幾原監督も庵野監督と同じく、そういうオタクの考察を嫌いそうな人だと思ったからです。

加えて、本作は難解な作品であるために私の解釈というものが余りにも稚拙・不完全なものである可能性があるので、それをわざわざネットで発信すべきかとも悩みました。

しかし、私はそれをどうしても言語化しておきたかったという……まぁ自分のエゴから書いておこうかなという次第です。



『少女革命ウテナ』の理解の為に【用語説明】


この『少女革命ウテナ』を言語化(理解)して他人に伝えようとした際にどういう構成にすればいいのだろうと色々考えたのですが、用語についての自分の説明・解釈を一気に行ってしまえば良いだろうと考えました。

というのも、本作は現実へのメタが存在する作品であると考えているので、それを前から説明しようとすると説明が長くなる割に分かりにくいなと思ったからです。

それで、以下に主要な用語に関する解釈・解説を一気に書いてしまいます。その中に私なりの考えを散りばめておきました。

尚、用語の選出と並び順は私の独断です。


・『少女革命ウテナ』:「少女を革命する/少女に革命される/画面の前の少女を革命したい・ウテナ」の物語


この作品について私が二つ強調したい点があります。

①ウテナとアンシーは同じであること。

②現実の鑑賞者及び「劇」そのものへのメタが存在している。


①について、これは所謂「ウテナとアンシーは同一人物説」というもので、この立場の説だけでも、色んな考察・解説がネットに出回っています。

私自身は、「ウテナ/アンシー」が互いに向かい合い、一つの「私」というアイデンティティを取り戻す話なのだと理解しています。

そういう意味での同一人物です。ですので、ウテナというのは革命する側であり、アンシーとして革命される側でもあります。


また②について、「劇」というのはそれぞれに「役割」が与えられていて、それを舞台で演じることで物語が成立する仕組みになっています。

それはこの『少女革命ウテナ』という物語(劇)もそうですし、鑑賞者である私達が生きる現実世界の社会も実はそうであるという点で現実へのメタが成立していると考えます。

確かに、私達は社会という舞台で、「男/女」・「夫/妻」・「上司/部下」などといった役割に当てはめられて日常を過ごしている面があります。それはそちらの方が都合がよく、楽であるからです。


さて、『少女革命ウテナ』のラストはテレビ版・劇場版共に、自分に押し付けられた「役割」を全て捨て去り、互い(自分)と向き合うことで本当の自分を取り戻すという構成になっていると考えます。

例えば、テレビ版のラストではアンシーは鳳学園から逃げ出すことで、自分に押し付けられた「役割」を全て捨て去り、それ故に物語が終わります。

実はその際に私達も『少女革命ウテナ』の鑑賞者という役割を捨て、その上で現実と向かい合ってウテナ達のように行動するかという選択に迫られているのではないかと思います。


こういうメタ構造が『少女革命ウテナ』の核となっていると私は思います。



・天上ウテナ:私(主人公)であり、あなた


王子様になりたい女の子。本作の主人公でありヒロイン。

ウテナは主人公として鑑賞者の視点を担う点で「私」。

鑑賞者はウテナの視点で『少女革命ウテナ』という物語を見始める(入ってくる)という点で、物語の立場から見た「あなた」。


ウテナについて重要なのは、あくまでウテナは女の子なのだということです。そして、同性愛者という訳でもありません。

憧れの王子様になりたいと思っていて、それ故に困っているように見えたアンシーを助けたいとただ純粋に思ったということです。

ですので、ウテナのアンシーへの想いというものに「性」的なものは一切含まれていないのであって、テレビ版ではキスすらしませんでしたし、劇場版ではキスという行為が問題の解決法そのものになっていました。

「男性/女性」といった構造、「役割」を捨てるのがこの作品のテーマの1つです。



・姫宮アンシー:あなた(ヒロイン)であり、私


お姫様になれない女の子。本作のヒロインであり主人公。

ウテナから見たヒロインである点で「あなた」。

鑑賞者はアンシーの視点で『少女革命ウテナ』という物語を見終わる(出る)という点で、物語の立場から見た「私」。


アンシーは暁生の妹です。これはディオス(王子様)からすれば、「お姫様になれない女の子」という立場です。

全ての女の子が「お姫様」として救われるべきなのに、血の繋がった妹だけは「お姫様」として「王子様」とは結ばれない。

そして、「王子様」と結ばれない女というのは、おとぎ話的にも「魔女」しかいないのです。だからアンシーは魔女なのです。


「魔女」も「王子様/お姫様」同様、物語に依存・縛られた存在です。

それは自らが犠牲になることで物語全体がハッピーエンドとして成立するので、決して幸せにはなれず、幸せになろうともしてはいけないのです。

ですので、アンシーは初めから全てを諦めていて、人形のような印象を受けるのです。


ちなみに、「薔薇の花嫁」というのは「お姫様」という概念そのものだったと思います。

「薔薇の花嫁」、すなわち「お姫様」を最後に手に入れるということは物語の主人公(ヒーロー)になるということです。

この点でもメタが成立していて、皆主人公になりたいが為にアンシーを欲しがったとも言える訳です。



・鳳暁生:「(汚い)大人」の代表。現実世界の男。『少女革命ウテナ』の世界を統べる者=幾原監督


現実でモテる男はこんなものだよね。そういう諦めの集まりがこの鳳暁生です。

そして、ポジション的にも幾原監督の考え(諦め)が最も反映されたキャラクターだと思います。(※暁生カーも、幾原監督の愛車がモデルらしい)


『ウテナ』という作品が出来る過程のエピソードをチラッと知る限り幾原監督というのは、変に繊細な人で「こういう」男女間のみならず「愛」というもの全てに心の奥底で飽き飽きしている気がします。

その割に幾原監督はモテそうだし、それが好きそうなのですが。いや、だからこそなのか。

私達が人間である以上至る所が結局そこしかないということに酷く参ってしまっていながら、だからこそ気になっている気がします。

それで幾原監督は綺麗なものを求めて苦心しているのでしょう。


ちなみに、暁生は「(汚い)大人」の代表のようなキャラクターですが、それもどうなのかなという気が個人的にはしています。

幾原監督は『ウテナ』において、意図してか意図せずしてかディオスのような「子供」という存在を純粋で、気高く、綺麗なもののように描いていますが、どうなんでしょう。

個人的には、子供も大人も「人間」という時点で一緒だろうと思います。


思うに、綺麗なものというのは手に入れることが出来ないからこそ綺麗なのでしょう。

綺麗なものというのは、手にした途端汚れてしまうのでしょう。手が汚れているから。

それを幾原監督も分かっているから『少女革命ウテナ』なんてものを作ったのだと思いました。



・ディオス(王子様):「(純粋な)子供」の代表。おとぎ話の男。


おとぎ話(物語世界)の男、すなわち「王子様」であり、誰も触れることが出来ない概念的な存在です。

『ウテナ』の物語世界でもディオスというのはもはや概念的な人物で、実体として現れていることは無かったと考えます。


ディオスは、抱くその理想からして現実化されることがありません。

全ての女性性=「女性」を救いたいと願う「男性」こそが王子様である訳ですが、それが達成されてしまうと自身は対としての「性」及び存在価値を失ってしまうということで、一種の自己矛盾に陥っています。

それ故にディオスの理想というのは決して達成されない「おとぎ話」であり、初めから死んでいるようなものです。


けれども考えてみると、そもそも当の「女性」が困っていなければディオスは自身の役割と理想に苦しめられることはなかった訳で、そういう意味ではディオスを殺したのは「お姫様」だったという関係にあります。

それは皮肉にもディオスが「お姫様」を救い出しているからこそ「女性」が自立出来ずに困っているのであって、コロンブスの卵のような話になっているのです。

悪いのは「お姫様」が先か、「王子様」が先か。

はたまた劇場版では、もはや「王子様」なんて実は初めから死んでいて、にも関わらず「ごっこ」遊びに興じているみたいなことも言われていました。

ただ少なくとも、「お姫様」は殻を破ろうとしなければ、外には出れないのです。



・世界の果て:現実・物語世界の限界、価値観の限界


世界の果てとは文字通り「世界の限界」を意味しています。

また、この「世界」とは、私達が生きる現実世界と物語の世界の二つの世界を意味していると考えます。


よって「世界の果て」を見せるということは、「現実世界の価値観ではどうせこのようなエンディングだ」という人間的価値観の終着点、

そして「私達は虚構(物語世界)の人間に過ぎない」というメタ的なネタ明かしの2重の意味があったと考えます。

当然、それを見せられた物語世界の登場人物達は絶望して世界を変えようと思い、再度ウテナ(主人公)に挑みます。


例の33話で、暁生はウテナと肉体関係を結びました。

恋愛において、男と女が行きつく場所は結局セックスしかありません。かと言ってプラトニックな愛というのもその反対ということで、想像の範疇です。

想像の範疇にあるということは、「価値観の限界」です。


如何に「愛」が色々な形で描かれようが、この世界で描かれている内は「価値観の限界」を超えることがありません。

私達が人間という生物である以上、そういう終着点が男女のみならず、他者との「愛」なのです。

ですので、暁生は妹であるアンシーすら抱きます。


それを超えた「愛」の描写を目指すと、もはや逆に「男」や「相手」、果てには「自分」という存在すら必要ないという倒錯した表現になります。

それでテレビ版のエンディングでは「究極の自己犠牲」、映画版のエンディングでは「私は私とキスをする」ことを描いたのです。


これらは現実では不可能な行為です。

そのように、世界の果てを超えるということは、その世界を生きる者達の理では本来不可能なことです。

テレビ版・劇場版のエンディング共にアンシーは「世界の果て」を超えることになりましたが、その後は描かれていません。

というより、これはメタ的に描くことができないのです。物語世界を超えるということは、物語が途切れるということだからです。


だから、現実世界に生きる鑑賞者達に「現実を生きて」という物語のメッセージを託すことで、アンシーが「物語世界を超える」ことが達成されるという構成になっているのです。



・棺:望む理想は叶わないが楽に生きることが出来る虚構の世界


棺というのは本来死者が眠る場所です。

そこで生者が目をつぶって過ごす(眠る)ということは「死んだように生きる」ということです。

それは思い通りにならない現実から目を逸らして、じっとしているだけで生きることが出来るので、息苦しいながらも、ある意味で楽な世界ではあります。


これは「死者が生きている」と言っても一緒です。

黒薔薇編では、過去(美しい思い出)に縛られて生きる人も死人だと言われていました。


ウテナ達は『少女革命ウテナ』という虚構(物語)の世界、鳳学園という「棺」の中で生きる人間です。

その意味で、アンシーのみならず全てのキャラクターは「棺」の中にいました。

そして、暁生は『少女革命ウテナ』の世界を統べる虚構上のラスボスとして「棺」を管理しているのです。


またメタ的に、鑑賞者である私達にとっても『少女革命ウテナ』という物語は「棺」であります。

私達は『少女革命ウテナ』のような虚構世界を鑑賞することで楽しい世界に逃避することが出来ますが、現実は何も変わっていないという私達(キモオタ)への指摘が存在します。


この点、庵野監督の『シン・エヴァ』と通じる所があります。カヲルの元ネタは幾原監督だという話がありますが、仲良い二人なだけありますね。個人的には少しだけ幾原監督の方がやり方的に好きです。

幾原監督も「明日を開く鍵はリアリティ、嘘を壊し続けたい」と思ったのでしょう。

ただ、個人的には虚構を作って飯を食ってる立場の人間が言うことか?と思います。初めから茶番じゃないか。それで、『シン・エヴァ』を観た私は怒りのあまり酷くこき下ろした感想を書いてしまったのです。



鳳学園:暁生及び他登場人物にとっての「棺」、『少女革命ウテナ』の物語世界


「学生」という思春期の真っ只中の存在は、子供と大人の過渡期にあります。

暁生はそういう存在を囲むことで優越感を得て自身の存在を実感し、同時に幾原監督はそういう立場の存在に問いを投げかけているのです。


学園にいることを選ぶ限りは、人は永遠に成長しません。

何故ならば、学園に居る限りは自分に「役割」が与えられ「ごっこ」遊びに興じることが出来るからです。

生徒会長、その妹、フェンシングの部長、演劇部の部員……etc。帰宅部すら「帰宅部」です。皆に役割が与えられ、それを演じるだけで物語(人生)は継続していきます。

その意味では、大人であるはずの暁生ですら「学園長代理」という役割に興じていました。役割に自身のアイデンティティを求める限りは、皆「思春期」なのです。


役割に存在を縛られる限り、本当の「自由」とアイデンティティを得ることは出来ません。

劇場版のエンディングのように、全てを脱ぎ去って裸の自分を見つめて外に駆け出す必要があります。


しかし私的には、そうして全ての役割から解放されて得た「自由」を前にすれば、ニヒリズムに陥る可能性もあると思うのです。

大学生になって割と自由な時間と立場を与えられたが故に鬱になった経験がある私は特にそう思います。

何でも出来るが故に、自分がやりたいことが分かっていなければ、人は自由を前にアイデンティティを簡単に失ってしまいます。

結局、人間という生物は社会という繋がりの中で生きる以上は何らかの「役割」に縛られ続けるを得ないはずです。

そういう問答が、劇場版の最後の方になされていたということです。



薔薇の門:薔薇の棺、テレビ版『少女革命ウテナ』のエンディング


アンシーは薔薇の棺に眠っていますが、これは「女性」の棺です。それが「門」でもあるということが奥深いですね。

シンプルに捉えると、薔薇というのは女性器のメタファーです。テレビ版のエンディングでは、ウテナがそれをこじ開けることで、アンシーは「棺」から出るのです。

ただ、それは「剣」によって行われる訳ではないという点で、単純なセックスのメタファーという訳ではありません。「そういう構造」自体から逃げ出すことを『ウテナ』は試みているからです。

薔薇の棺からアンシーを救い出すことは「女性」のみならず全ての役割からの解放だと言えます。


「女性の解放」というのは、暁生が「やめろ!」と言っていたように、男性からすれば都合の悪いことです。

というのも、女性が真の意味で自立してしまえば、男性というのは不要になってしまうからです。


しかしそれ以上に暁生にとって都合が悪いのは、「女性の解放」は「王子様/お姫様/魔女」というおとぎ話の崩壊、ひいては物語世界・神話の崩壊を意味することです。

すなわちそれは、暁生の世界=『少女革命ウテナ』の終わりでもあります。


薔薇の棺はこじ開けられ、アンシーは「女性」・「ヒロイン」・「キャラクター」といった全ての役割から解き放たれます。

アンシーが役割から解き放たれることで、テレビ版『少女革命ウテナ』は2重の意味でエンディングを迎えます。



・剣:男性性、自分の譲れない意志・誇り、「力」


剣というモチーフはシンプルに捉えると、男性器のメタファーとして男性性を表します。

決闘者達は剣を手に取り決闘を行いますが、それは各々の意志とプライドのぶつかり合いであったと考えます。

そして最後まで決闘を勝ち抜いた者(ウテナ)の剣は、最も「男性」らしく強い意志……「力」だと暁生は考えていて、それを手に入れれば、自分に失われたものが戻ると思っていたのです。


自分を譲れない時に、自分の場所を揺るがされた時に、自分を守るために人は剣を取ります。最後のアンシー然り。

けれども、そういった自分を守るという行為は「自己犠牲」という気高さから離れた行為であり、剣を握る間は本物の「ディオスの剣」が現れることはありません。


また、アンシーを襲った「百万本の剣」というのは、「(王子様/お姫様にはなれない)有象無象の男性/女性」の意志だといえます。

ウテナの剣を暁生が手に取り、薔薇の門へ向かった時にざわめきたったのは、そういうことだと思います。あれは「モブ」の意志です。

それらは「どうして自分は王子様/お姫様(主人公/ヒロイン)として選ばれなかったのか」というルサンチマンと与えられた「役割」への憎しみに満ちており、それは本来襲われるべき暁生の身代わりとなったアンシーに襲い掛かりました。

メタ的には暁生が主人公ではなく、ラスボスだからです。



・ディオスの剣:「困っている人を救いたい」という純粋な意志・気高さ、究極の自己犠牲


「困っている目の前の人を助けたい」という純粋な意志があれば、例え自身にその人を救い出す力や知恵が無くとも、その人を突き動かします。

仮に川に溺れている女の子が目の前にいたとして、そこに子供一人が飛び込んでも救える可能性が低いどころか自らの命を落とす危険性があります。

そして、そのために命を落としても大抵はその存在すら皆に忘れられてしまうのが常であり、報われることは一つもないのです。


しかし、そんなことなどは省みない。これは究極の自己犠牲であり、「気高さ(誇り)」を失わないことです。

それを失った暁生(大人)は、テレビ版の最終回で百万本の剣に襲われるアンシーを目の前にしてもジュースをすすってくつろぐのみで「リスクを十分に~」だとか言って助けないのです。


これは目的を忘れ、手段が目的になってしまったとも言えます。

大人になって、他人を助けるための力や知恵に固執するようになってしまい、いつしか他人を助けたいという意志が失われました。

だから暁生は本来「愛」を表現するためのセックスを「愛」抜きに行います。

暁生は物語の筋書きを守ることに囚われ、何のために物語が始まったのかを忘れてしまったのです。


それを見たディオスは暁生に背を向け、立ち去ります。

いつかは分かりませんが、ディオスと暁生に分かれた時点から全ては「ごっこ」遊びになってしまいました。

それが全ての始まりで、だから『少女革命ウテナ』というフィクションを私達は鑑賞することが出来るというメタ構造になっています。


暁生は「ディオスの剣」がもはや剣の形をしていないことには気付きません。暁生は最後までこのディオスの剣は、何か特別な「力」であると考えていました。

けれども、世界を変えるのは「力」ではなく、人の心ありきなのです。



・車:目的に向かう手段、世界に駆け出す「自由」


おとぎ話の王子様は「馬」に乗っています。しかし、現実の大人は「車」に乗っています。

おとぎ話では、馬に乗ってお姫様を助けに来た王子様は、お姫様を馬に乗せて自分たちの城へ向かいます。しかし現実では、車に乗って女を迎えに来た男は、女を車に乗せてラブホテルへ向かいます。


では、その後は?これについては、その時には誰も考えていない。

後の事を考えたら今包まれている輝きが失われるから。これが価値観の限界です。


おそらくその後は、また車(馬)に乗って男(王子様)は別の女(お姫様)の元へ駆け出して別の物語が始まるのでしょう。

しかし、取り残された女(お姫様)は追いかけることも、遠くへ逃げることも出来ないのです。

じっと待っているだけでは世界に駆け出すことは出来ず、自由も得ることが出来ません。


アニメ版では「赤いスポーツカー」に乗った暁生が色んな登場人物を連れまわしていました。それは各登場人物に「世界の果て」、すなわち物語世界と現実世界の限界を見せることが目的です。

そうすることで暁生は、外の世界に駆けだす意志、つまり「自由」を奪い、各人物に学園での役割を全うさせるのです。

ですので、テレビ版で「車」を所持していたのは暁生だけでした。


一方で、劇場版でウテナが車になってアンシーと共に外に駆け出したという意味はとても大きいです。

ウテナはテレビ版では「自己犠牲」という気高さを示して、アンシーを物語の外へ救い出しましたが、一緒に輝くことは出来ませんでした。

しかし、劇場版ではウテナは「車」になることで、アンシーと共に物語の外へ駆け出すことが出来ました。これはテレビ版へのアンサーです。

劇場版に至り、ようやくウテナ達は「自由」を手に入れたのです。


ちなみに、馬の形をしたメリーゴーランドは永遠に同じところを回っているということで子供の「車」です。

目的や見返りが必要なのではなく、「進む」ということが子供にとっては重要なのだということです。



・革命:自分を変えるために、未来へ一歩踏み出す意志を持つこと


「革命」というと、「力」によって世界の全てを一気にひっくり返す何か特別な事のような印象を持ちますが、そうではないというのが『ウテナ』のテーマの1つです。

アニメ版の最後では、アンシーは学園という「棺」の外へと歩みを進めます。

世界の外へ出るそのたった一歩がアンシーにとっては「革命」であり、ウテナがその勇気を与えてくれたということです。



・世界を革命する力:たとえ現実が変わらなくとも、理想に近づくためにひたむきに泥臭い努力を積み重ねる覚悟


「革命」に関連して、この物語で皆が求めていた「世界を革命する力」というのは、実はこういう地味で報われない努力とその覚悟の事を意味していたと考えます。

しかし、多くの視聴者と登場人物は「それを手に入れたら一瞬で世界が自分の思い通りになる何か凄い力」と思っていたことでしょう。

それで決闘者達は思い通りにならない現状を変えるために、この力を求めたのです。


そして、この力の正体というのは「王子様/お姫様」という役割にすがって生きる暁生にとっては非常に不都合なものでもあります。

というのは、おとぎ話では困ったお姫様を王子様が颯爽と現れて助け出すことで王子様は「王子様」、お姫様は「お姫様」となる訳で、基本的にお姫様は王子様による逆転待ちの状態なのです。

それは王子様も同様で、王子様はこの世から困っているお姫様がいなくなってしまえば自分も「王子様」ではなくなってしまう訳で、両社は共依存の関係なのです。

従って、登場人物全てが「『世界を革命する力』が『力』である」と信じている状態が「役割」及び世界を維持するためには望ましいのです。


しかし、世界を変えるのはそうではなくて、ニヒリズムにさえも立ち向かう「覚悟」次第なのだという作品のメッセージがあったと思います。

それこそ、このアニメによって視聴者の意識及び世界が変わらなくとも、幾原監督はそういうことを伝えたかったのだろうなと思った次第でした。


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