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三丁目歯科

給湯室に置いてあった誰かのヨーロッパ土産のクッキーをつまんだら歯の詰め物が取れてしまった。仕事はエンドレスでやってもやっても終わらないし、部の連中は使えないやつばっかり。よほどイライラしていたのか、普段はお土産の甘い物なんて口にしないのに、なぜかその日に限って手を伸ばしてしまった。ただでさえ忙しいのに詰め物が取れるなんて。怒りをぶつける先もなく、さらにイラついた。
見かねた後輩が会社の近くの歯科医院を紹介してくれた。電話してみると、すぐに診てくれるという。仕事を抜け出して後輩の書いてくれたアバウトな地図を片手に歯科医院へ向かった。
「とにかくあったかい歯医者さんなんです」後輩はこう言った。
腕がいいとか、親切とかならわかるが、歯医者を形容するのに「あったかい」は変じゃないか?

歯医者は昔から苦手だった。歯を削る痛みも音も嫌だったし、先生も好きではなかった。虫歯を作ってしまった私が悪いと言わんばかりに(それはもちろんそうなんだけど)一方的でつっけんどんな態度。これまでの人生でいくつか歯医者を渡り歩いてきたけど、どの先生も似たり寄ったりだった。
先生ばかりではない。歯科医院は受付の人もおしなべて事務的で、歯科衛生士や歯科助手はいつも無表情で黙々と処置をしている。

後輩が教えてくれた歯科医院は、雑居ビルの二階にあった。少し古ぼけた看板には、三丁目歯科と書いてある。このあたりは二丁目のはずだけどなと思いながら階段を上った。
恐る恐るドアを開けると、あら、待っていましたよと受付の人がにこやかに出迎えてくれた。保険証を出して、問診票に記入する。
しばらく待った後、中に案内された。勧められるままに、椅子に座る。助手の女性が操作をすると、椅子がウィーンと音を立てて後ろに倒れた。天井を見上げると、視力検査に使われるCみたいな記号がたくさん書かれた紙が貼ってあった。

丸い眼鏡をかけたやや年配の先生だった。大きなマスクと眼鏡ごしからも、温和な表情が見て取れる。私は詰め物が取れてしまったことを説明し、ティッシュにくるんだ詰め物を差し出した。
「ちょっと虫歯が進んで、詰め物があわなくなってるね。少しだけ削って、型を取らないとね」
あーやっぱり削るんだ。私の不安な顔を見て先生は言った。
「痛いのは嫌い? そんなに痛くならないと思うけど、ちょっとだけ麻酔をしとこうか」
ちくんと麻酔をした。先生は私の唇を触り、麻酔が効いたのを確かめる。そして機械を手に持ち、まるで小さい子に話しかけるように、やさしく言った。
「痛かったらね、こっちの手をパッて挙げるんだよ」
「先生はうんと上手だけど、我慢することないからね」助手の女性が私の肩を叩いて「頑張ろう、頑張ろう」と励ます。
麻酔がほどよく効いて、痛みはほぼ感じなかった。苦いどろっとしたピンクの粘土みたいなもので型をとって終わりになった。
「今日はほんとに頑張ったね」「えらかった、えらかった」先生と助手の女性がかわるがわる褒めてくれたのがなんだか可笑しくて恥ずかしかった。三十過ぎて他人にこんなに褒められることなんてあっただろうか。

歯科医院を出た後、私はあったかい気持ちで満たされていた。後輩の説明は正しかった。腕も悪くないし、親切でもあったけど、あったかいという表現がぴったりだった。
たまには部のみんなに何か買って帰ろうかなと思った。少し先にシュークリームが有名な老舗洋菓子店がある。シュークリームなら歯にくっつかないし、仮の詰め物も取れないだろう。何個買えばいいだろうか。部のメンバーの顔を思い浮かべながら、私は数を数えた。

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