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雑草エンジニア回想録⑮師匠

読者の皆様に尊敬できる人、愛すべき人、その人のために自分が頑張ろうと思える人、その人には素直になれる人はいらっしゃいますか?

  • 自分を必死に育ててくれたご両親

  • 夫、妻、子供

  • 親友

自分が尊敬できる人物が両親であれば良かったのですが、成人まで育てて頂いているにも関わらず、何故か尊敬できませんでした。その上で私には、自分の長い人生で3名の頭の上がらない人物がいます。

1人は、小学校4年生ぐらいからのお付き合いで、40年以上家族ぐるみのお付き合いをさせて頂いている親友です。年1回帰省された時にお茶をしたり、たまに電話連絡をする位の仲ですが血の分けた兄弟のような感覚です。
 
そして、2人目は自分の人生で唯一結婚したかった彼女です。24歳位に1年程度お付き合いして別れてしまったのですが、その頃の悔しさが全ての成長の原動力となり、私がその後大きな成長をさせて頂いた方です。

3人目は、本noteでお伝えする師匠のお話です。

前回からの続きとなるお話になります。初めての方は是非前回のnoteをお読み頂けたら幸いです。

1.決算期の不安定さ

2001年1月に着任した26歳の私は、既に3ヶ月が経とうとしていた。
スーパーエンジニアの田村主任(通称:タムタム)の配下で、インフラ保守用システム開発の仕事を黙々と対応していた。

20年以上前でも現在でも決算期の3月から新年度4月の2ヶ月間は、全IT業界に従事する人とって非常に不安定な時期となります。

システム開発の仕事を発注するエンドユーザーでは、8~12月位から早期退職願いやリストラなどの人員整理が始まります。そして、3月末までには新年度の予算編成や部課の新体制が準備されます。

1年以上のシステム保守契約を提携しているプロジェクトや、3年以上の長期計画に基づいている大型案件のプロジェクトは、通年の業務が継続されます。

又、4月頃に長期プロジェクトや新規プロジェクトを除き、要員募集をされているプロジェクトは、大概炎上案件だったりします。決算期3月末に納品の予定だったのが、発注側も受注側も収めきらずに新年度でもキャンプファイヤーをしている場合には、火消し要員を求められるケースが多々あります。4月の案件探しは会社、個人でも慎重にしなければなりません。

決算期の3月、新年度開始の4月の2ヶ月は、IT業界に勤める有とあらゆる立ち場の者が、業務内容の不確定さで不安と期待が入り混じる不安定な時期となります。

2001年3月 26歳の青年であった私はどうしていただろうか。

2.師匠を紹介される

2001年3月半ばに、田村主任(通称:タムタム)の配下でインフラ保守システムの案件を黙々としてこなしている中、自分の担当している案件は3月末で納品して一旦終了となる主旨を伝えられた。即ち一旦タムタム配下から放牧される状況となった。

ガビーン

スーパーエンジニアであるタムタムの配下で、多くの案件をやり切って数年間継続する事により、私自身もスキルアップした上でスーパーエンジニアを目指したいと思っていたので、良き手本となるタムタムからリリースされたのはショックだった。

その時には、自分のスキル不足や頑張りが足りなかったかと自己嫌悪に陥り、精神的に非常に不安になってしまった。だが、その後に色々な情勢を把握して状況が理解できました。

私がタムタム配下からリリースされた理由は、大きく2つあった。

1.単価が高かった
 メーカー子会社に取引しているパートナー企業は、中小企業の若手や韓国若手が中心であり、単価は60~45万円/人月だった。大手SIer経由の商流で着任した私の単価は80万円/人月だった。

2.新年度による予算の不確定さ
 タムタムはユーザーであるメーカーの社員がお客様ですが、新年度に保守・追加案件そして新規案件がいくつ獲得できるか不透明だった。先に昔からいたパートナー企業を確実に食わせていくのもやっとであったので、不確定な状況で高単価な私を抱えきれないと判断した。

そして、3月末の最終週に紹介されたのが、西脇(仮名)さんだった。

3.IT業界のランバラル

  西脇主任は、初代ガンダムのグフに搭乗したランバラルにそっくりな方だった。体型や背丈も似ているし、性格もランバラルに通じる男らしさがありました。
 何せエンジニア業界にも関わらず、醸し出すオーラが体育会系でラガーマンや建築関係の親方を想像させた。寡黙で言葉を選び常に他社の言動に目を光らせており、IT業界の戦地を潜り抜けてきた顔つきは、正にIT戦士だった。

 西脇さんとは、私がメーカー子会社との取引を辞めるまでの5年間近く、私を育成し続け就業し易いように関係者と調整し、立派なエンジニアになるように精一杯の愛情で仕事の厳しさと人としての優しさを教えてくれた方だった。

  人生で初めて生涯の師と呼べる方と奇跡の出会いを起こしていた。

  西脇さんは、向上心が高くメーカー全体で定型の古い方式で仕事をやり続ける事に非常に危機感を持っている方だった。メーカーの多くは、人の命や財産に関わる企業と取引しています。電気、ガス、水道、道路、鉄道、飛行機、金融・証券など日本を支えるインフラ企業にシステムを導入されています。

そのような日本を支えるインフラには、多くのシステムが導入されていますが、非常に歴史の古い技術とやり方で支えられています。そのため、メーカーの社員やそのグループ企業の社員達も油断をすると、時代にそぐわないレガシーなやり方を受け継ぐ可能性があります。売上が確保されている状態では、それも悪い事で在りませんが社会が大きく変化し、先端の技術も日進月歩ラットイヤーで進化するIT業界では、先端の技術を挑戦したり学習しない組織や個人は浦島太郎のように取り残させるリスクがあります。

西脇主務は、Web系の最先端技術をリスクが有っても積極的にチャレンジされる方だった。常にWeb系の技術雑誌を片手に先端のフレームワークや環境の情報を仕入れては、自チームの案件に全て導入して確かめる方だった。

4.西脇主任の愛情の深さ

 西脇主任は非常に義理・人情に厚く後輩達や周囲の同僚に情け深い人だった。一見強面で頑固そうに見えても、長くお付き合いをしているとその深い情と他人に対して自ら労力を働き、雇用を守り仕事の労働環境やあらゆる仕事の関係者に気を配り自チームに仕事を落し、仕事を収めきるプロだった。

 西脇主務と私の距離感は絶妙だった。西脇主務は非常に若い人達に愛情溢れる方でしたが、それと同時に管理者としての厳しさも常に表現されている方だった。自分にとっては、師匠でもありますが一回り上の兄貴という感じだろうか。

親友のような馴れ合いの空気感は決して許さない方でしたが、全ての行動が私を現場の荒波から守り、健やかにIT業界で成長できるように多くの方と調整した上で私が現場で仕事を円滑に行くよう配慮して頂いた。

IT業界の荒波みで多くのお客様とお仕事をさえて頂きましたが、赤の他人の別会社の企業の人を根気良く育てようとしてくれた人物は、師匠が一番長けていました。

私が一番弟子だろうと思いたいのですが、同じ現場で別会社の若手も同様に愛情をもって育成されていたので、師匠の弟子は今日まで多くいらっしゃるだろう。

5.最初の案件

 2001年4月に西脇主務から紹介された最初の仕事は以下だった。

案件名:部品管理における設計図書の構成管理システム
OS:Linux
開発言語:Perl,Html
開発環境:Apache Webサーバー
開発期間:3ヶ月

私がタムタムの配下で水を得た魚のようにJava言語が非常にマッチした言語で、習熟度も早く継続したい開発環境だったのを西脇主務は理解されていた。そして、私に申し訳なさそうに「Javaの案件は次必ず獲得するから、この案件で飯を食って繫いで欲しい」と正直に語られた。

26歳で会社や業界全般の事を理解できない小僧だった私は、やりたい事ができなくて残念だという気持ちもあった。それでも、大きな意味でWebアプリケーションを開発する事には間違いないので、有難く従事した。

上記案件の内容といえば、2001年当時はgitやgithubのようなお手軽な構成管理ツールが存在しませんでした。そのため、メーカー企業が設計書などのドキュメントを厳密に管理するには、独自に簡易のバージョン管理ツールを各部署で開発して、管理しなければならない時代です。

Perlで電子ファイルをアップロードやダウンロードしたり、各設計書のバージョン付与やドキュメント名検索、ドキュメントのバージョン検索などを提供するシステムでした。

Perlは2024年現在でRubyやPythonなどのスクリプト言語が台頭して廃れた言語となりましたが、当時はApacheWebサーバーと連携してWeb開発に利用される言語です。

自分1人のタスクで心細い中、西脇主務が日々声掛けをしてくれたり、週次の進捗確認をしてくれた事で高いモチベーションを維持して納品まで無難に収めきれました。

6.師匠の育成

 私は、そこから4~5年間も西脇主任配下でスクスクと成長させて頂きました。

Struts,Spring,Torque,iBatis,Tomcat,JBoss,Oracle,MySQL,subversion,HTML,CSS,JavaScrpit,JQuery,Java,JavaEEなどJava全盛期のテクノロジー全てを網羅させて頂いただろう。師匠が最先端の技術をチャレンジする事が大好きで、日本市場に技術サイトや日本書籍が出回っていない中、メーカーの社員に提案をして新しい技術の導入を案件に盛り込んでいた。

私は、師匠の弟子になってから、春のGW、夏休み、秋のGW、お盆の多くは休み余り取った記憶が無い。その多くは、TVもゲームも無い自宅で只管海外の文献を調べたり、オープンソースのファイルを解析したり、開発資産となる開発ソースを黙々と作成したり、環境構築のマニュアルを作ったり、関連書籍を読み漁ったりと。

2024年現在では、AI翻訳機が非常に優秀でドキュメントをリアルタイムに正確に翻訳して頂けるが、当時の翻訳機はそこまで精度が高くなかった。そのため、人力による英語のマニュアル類を調査する必要がありました。

もし、業務命令でその仕事を強要されていたら、超が付くブラック企業になるだろうが、これは私が自らの選択でそのようにした。兎に角1日でも早くどこの現場でも通用するフルスタックエンジニアに成りたかったし、早く経済的にも高スペックに成りたかったの365日体制で挑んだ。

遊びたい盛りで禁断症状が度々出た。

綺麗な姉さんのいる店に飲みに行きたい、デートしたい、○○したい、囲碁したい、オンレの麻雀が打ちたい、仲間とバカ騒ぎ出来る飲み会に参加したい、美味しい外食を食べたい、ボケっとしたい、etc

そのような禁断症状が出来た時には、オンレの雀荘に駆け込んでいただろう。

そのような土日休日も仕事の事ばかりを考える生活でも、休み明け後に師匠に成果報告したり技術の感度を報告すると非常に喜んでくれた。
喜んで頂けると、こちらも嬉しくなって次回の休みも頑張ろうという気持ちになれた。

この4~5年間の師匠との実案件を含むやり取りで、未経験に近いエンジニアが日本を代表するエンジニアと日常会話ができるまで成長させて頂いた。

最初は1プログラマーで黙々とコーディングするだけの1兵卒だったのが、段々と師匠がPM、私がPL兼SEという役割で5名前後のチームを組んで頂いた。その上で、成果責任の規模も徐々に増やして工数の話や利益の話などもお聞かせしてくれた。

Webシステムに関して、フロントからバックエンドまで実装できるようになり、設計でもシステムエンジニアとしてエンドユーザーのメーカー社員の方とも直接責任をもって対応させて頂いた。

師匠が愛情をもって、私を懸命に育てようとしてくれた全ての苦労が、私のエンジニアとしてのバックボーンとなり非常に大きな武器を持たせてくれた。

7.そして

 師匠との話は書ききれない程の内容になってしまうので、纏めさせて頂きます。

 私は、26歳の時に師匠と出会い5年近い協業作業によって、40代半頃まで前線で戦えるスキルと論理性が身に着きました。それは、厳しくもあり優しくもあった師匠のお蔭です。

 そして、その師匠との出会いが実現したのも、自分が社内の下らない社内派閥や社内営業に辟易としながらも上を向いて夢をみていたからだと思います。

 若い人達には無限の可能性があります。

 理想と現実の狭間で揺るぎながらも、勘違いも含めて上を向き続けて自分の何か光り輝く事を磨き続けて欲しいです。自己研磨をして上を見続けていると、自然と私と師匠のような巡り合わせが必ずあると思います。

 次回のnoteは師匠から学んだ人を育てえる方法論や、私が退社した事で自社がほぼ倒産した話を記述できたらと思います。


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