雑草エンジニア回想録⑬100万円詐欺

2001年11月頃に新規事業部が廃部となり、老害的な幹部達に目をつけられてしまった私は、完全に孤立した。

創業時から居る古の幹部達は、根は悪い人達ではないが在籍年数で後輩社員にマウントを取ってきたり、自分達が幹部で他の正社員は兵隊という認識が強かった。2年以上在籍していても、尊敬できる方々は少なかった。

そして、1年以上後ろ盾となっていた専務がいなくなった事で、古の幹部達が旧に態度を変えて、自分達のグループに馴染まなかった君はどうするのという他人事のようになってきた。

1.自分で営業

技術部門、営業部門、人事部門、新規事業部を経て、技術部門に戻ることになってしまったが、多くの心の支えがあり闘う姿勢はみせいていた。

自分がスキルシートをぶら下げて、営業担当者が取引先に提案するようになったが、丁度11~12月に差し掛かる時期だったので、動きが鈍かった。

そのため、営業の順番待ちをして社内待機をしているようであれば、いつ辞職を迫られるか分からない危機感があったので、自分で大学の先輩を頼った。

2.先輩の新田との出会い

私は国立大学の情報学部に入学したものの、アルバイトと学校の両立が厳しくて22歳の頃に大学を辞めた。アルバイトを大学時代に継続していた理由は、小学校4年生に離婚した後母親1人で自分を成人まで育ててくれて自分の養育費に非常にお金をかけた事が、心が痛み始めた。

成人した頃に急に申し訳なくなって、大学入学後の全ての費用は自分で稼ぐと決めた。学費や大学に掛かる費用や自分の娯楽費用は全てアルバイトから捻出させたが、昼は大学で夜はアルバイトという生活は非常に厳しかった。

そんな大変な生活で、大学も中退してしまったが唯一大学に入学して良かった事がありました。囲碁部OBの方々が義理・人情に厚い方ばかりだった。

私は、高校生の頃に囲碁の全国大会に2度参加できる程の腕前だったので、大学生活では囲碁部に入部する気は一切無かった。それよりは、自立してお金を稼ぐ事が重要だったので、お付き合いで拘束時間を必要とされる部活動は前向きでなかった。

それが、囲碁部に見学に行った折に一つ上の先輩が、生意気な私に非常に献身的に入部をお誘いしてくれました。囲碁部のリーグ戦位ならば息抜き程度に参加できると判断し、その1つ上の先輩の誠意に報いたいと思いました。

そして、囲碁部の活動をしていると、一回り以上多くの囲碁部OBが僅か1名の生意気な部員のために新入生歓迎会を開いて頂きました。そこから、囲碁部OBの様々な方と出会いました。

そして、IT業界で中小企業の副社長をしている新田と出会った。

3.新田の経歴

 新田先輩は、普通の先輩方と比べて非常に変わった方だった。先天性もしくは後天性のためか下半身の筋肉がやせ細る持病を持たれていた。車は運転できる位ですが、起立し続ける事や二足歩行ができる事ができない方だった。介護者もいる訳ではないが、車椅子もしくは松葉杖をつかれている方だった。

 そのような健常者と異なり、非常にハンデを背負われた方でしたが、キャリが凄かった。

・国立大学  現役入学・卒業
・国立大学系の大学院 現役入学・卒業
・アメリカに留学経験あり。
・日本I〇Mに入社・退社
・モバイル系のメディアサイトを運営する会社の副社長

と非常に理想的なキャリアを築かれていた。
IT業界で活躍する事を夢見ていた自分には、新田先輩は非常に輝かしい立場と夢のある生活を送られていた。

新田先輩は、非常に義理人情に厚い方で、私が大学時代に水商売のアルバイトをしている時に、男の私から店が暇になりそうな時に営業の電話連絡をすると、どんなときにも来店を断った事が無かった。

そんな新田先輩とは、不定期に歌舞伎町で一緒に飲み歩いていた。男らしいのが、10回飲みに行くと8回の支払いは全部新田先輩が出していてくれた。

4.新田に相談

そして、2001年11月頃にすぐさま新田先輩に飲みの連絡を入れた。晩飯を一緒に食べて、その上で女性の居るお酒の席で直ぐに相談した。

私『新田さん。私今月から技術部に戻ることになりました。』
新田『技術部で入社したから良かったね』

私『それで、いきなり現場に出るには感覚が錆びついており、肩慣らし感覚でできる難易度の低いお仕事を頂けませんか。』

新田が少考し始めた。

新田『いいよ。いくらぐらい』
私『100万円程度で』

新田『わかった。』
私『有難う御座います!!! 必ず成し遂げます。新田さんのメアドに営業から連絡させますね。』

非常にどんぶり勘定ですが、中小企業の社員であれば1~2ヶ月分の人件費を捻出できると考えた。

5.自社と契約

翌日、自社の営業に報告して、1人月~2人月分だけど100万円の受注は獲れたから、営業の方で企業間の契約締結をお願いした。

そこから、私は実務作業を開始し始めた。

仕事内容は以下の感じだろう。

1.案件名 スポーツ情報サイトのモバイル版
2.期間 1~2ヶ月を予定
3.人数 私1人 + 社内の執行役員
4.開発環境
  HTML,CSS,JavaScrpit,PHP,WebサーバーApache,PosrgreSQL

恐らくフロントエンジニアで高給取りの現役バリバリな方であれば、恐らく1週間で8割の精度で完成しきる内容だろう。画面数も5画面程度であり、大きなデザインを必要とされていなかった。2024年現在であれば、JavaScriptの部分がVue.jsとTypeScriptを利用するといった感じだろう。

更に生成AIを利用した雛型の自動生成を行ってベースとなる叩き台も小一時間でできるだろう。恐らく、2024年現在の優秀なフロントエンジニアの能力を考えると、2週間で製造から微調整そして納品まで高品質で収められるだろう。

6.Hello HTML

  2001年11月の私は、オブジェクト指向言語のJavaの基本構文位はできましたが、HTML、Css、JavaScript、Webサーバー、DBサーバーの知識が素人だった。とてもではないが、企業がBtoC向けにリリースできる高品質のWebサービスを実現できるレベルでは無かった。

それでも、自分でApacheやPostgreSQLをインストールして、テキストエディタにHTMLタグを記述したりして、イメージ図に近い画面を表現するのは楽しい一時だった。

それと私の相談相手として、古株の執行役員が御守役についていた。

7.突然の納品

新田の仕事を受注してから1ヶ月を経とうとしたときに営業から声を掛けられた。

営業「次の現場、決まったら来月から○○の現場に出てくれ。」
私「え!? 今の仕事全然終わってないですよ!?」

営業「今の仕事サッサと締めて終わらせて」

50年近い人生を生きてきて、技術系の人間と営業系の人間というのは、生き物として本質的に違う生き物であるというのを感じたやり取りだった。

そして、理解した。

自分は100万円の仕事を1~2ヶ月自分1人の人件費で考慮していたのですが、会社側はサポートした執行役員の工数を上乗せしていた。そうなると100万円では全然利益がでない計算になる。

しかし、納品物は全く品質が悪すぎる。
下手をすると後3ヶ月前後は係る可能性もある。

内勤の創業時代の幹部達には、私は目の上のたん瘤のようだった。社内の事情とそれぞれの考えや生き方を非常に理解しており、社内事情に詳しくなり過ぎており、私が下手な噂を立てると私が入社させた200名の社員に悪影響を及ぼしかねない。だから、さっさと本社から離れ現場に出て行って欲しかったのだろう。

8.新田に報告

私は、全ての事情を包み隠さずに月末時点での低品質の成果物一式を納品物として形式上収めた。

新田『わかったよ。心配するな』

当時のスキルでは、自分が収めた納品物は本来納品できる代物ではなかった。webの基本を全く理解できていないし、モバイルのwebブラウザの性質も全く理解できていない、画面遷移のボタンやリンクのアクションについてのスクリプトも全然おかしい。

私が40代で100万円を後輩に支払い、同じ内容が収められたら、入金をしていないだろう。それ位何もできていなかった。

生まれて初めて、振込み詐欺のような事をしてしまった。

9.新田の後始末

100万円と1ヶ月の工数を損失した新田先輩は、30年近い付き合いの中で、本案件に関する事で一切私に対して責めたり、駄目出しをした事が無い。尻拭いをした事も一切態度に示さず、愚痴を零さずに後のお付き合いも自然に対応してくれた。

彼の後輩想いで、大人の対応は超一流なエンジニアだった。

この案件の納品物が杜撰で納品できるレベルではないというのを気が付くのは、私が以後の現場で数年間修行して、スキルアップしたりリーダーを経験できるようになって初めて、彼のその時の私に対する態度全てが愛情と思いやりだと気が付いた。

誰が好んで100万円と1ヶ月という損失を埋め合わすだろう。
その損失を埋め合わせたら、嫌味や愚痴を本人にいいたいだろう。

その納品後も、私とお酒の付き合いは継続してくれて、先輩後輩の仲は維持してくれた。

10.新田の入院対応

その案件をこなしてから、10年を経過した頃だろうか。
新田先輩から電話で助けて欲しいと連絡があった。

電話の声で虫の息だったので、急いで彼の自宅に乗り込んだ。
部屋は、排泄物の匂いがしており、トイレや風呂もできない状態で横になっていた。

私「新田さん。救急車呼びましょうよ」
新田「タクシー呼んでくれ」

急いで、入院ができる準備をして、彼を担ぎながら都内の病院に向かった。

その上で、入院の手続きな書類や印鑑、現金など全ての対応を新田の指示の元、自宅から届けたりした。その上で、別の日に部屋の掃除をしたり汚れた洋服の洗濯などをした。

大きな手術もされて、医師からはもう少し遅ければ大変な事態になっていたと新田経由で報告を受けた。退院して落ち着くまでは不定期に対応していたが、新田本人が病院先でもう1人で大丈夫という声掛けがあったので、その対応を終えた。

11.そして

不思議なタイミングの妙というのがあり、営業から紹介された次の案件が、自分の人生を大きく変える非常に大切なターニングポイントだった。

もし、営業の話を意固地に拒否をして、1ヶ月延長した上で他の社員にその現場が回っていたら、私がエンジニアとして大成することは無かった。

未来というのはAという道を選んでも、Bという道を選んでもそれぞれの道の面白さがある。そして、人1人の時間と身体は限られているので、両方は選択できない。必ず何かの選択が、後日何かの因果に結びつく。

  • 私が自分で営業して最低1ヶ月の仕事を得たこと

  • 営業が2ヶ月目の継続を拒否した事。

  • 新田の無償の愛情

全てが絡み合い、次の現場での出会いが奇跡的に起きていた。
そのような不思議な因果関係は当時は理解できていなかったのですが、今振り返ると全てが絶秒に絡み合い、RedWolfにとって絶妙なタイミングと絶妙な出会いになっていた。

人生は、本当に不思議です。

そして、若い頃の人生を今こうして振り返ると、自分1人の力で生きてきたと思っていても、本人には気が付かれないように周囲の方々が無償の愛情で支えて下さってくださっている事に気づいた。多くの人に支えてこられてから今があるように思います。

次回noteは、奇跡的な出会い以降について記載できたらと思います。
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