“Somos compañeros”(サパティスタ学校の思い出・終)

 屋上から、少し下ったところに建つ家が見える。その隣の隣が、例の巨体の仲間が起居している家だった。上から彼の姿をみかけると、”Compañero!”(仲間、同志)とスペイン語で呼びかける。ここでは互いのことをそう呼ぶ。”Amigo”(友人)ではない。

 「同志、ツォツィル語はおぼえたか?」私は叫ぶ。「まあまあだな!」。「ちょっと会話してみろよ」と隣でハビエルがささやく。私がツォツィルで聞く。「きみ、何歳?」。彼は自分の護衛と話し、手帳を繰って答える。「22だよ。きみは?」「23だよ」「ガールフレンドはどこにいるのさ?」「メキシコシティーだよ。きみは?」「”Spejel”だよ」「え?なんだそれ?」。巨体の彼がその単語を理解できなかったので、ハビエルが訳した。「彼は”Todo el mundo”(世界中)だと言ってるんだよ」。爆笑が起きる。気づけば私たちの周りを近所の者たちが総出で囲んでいた。おもしろい見世物になっていたのだろう。「数字はおぼえた?」「いや、まだ。」「へん、俺は1から10まで覚えたぞ。みてろよ、・・・」私が10までツォツィルで言い終えると、大きな拍手が起きたのだった。

 最後の夜、みんなで集合写真をとってから(ちなみにサパティスタたちは顔を隠すことなしに写真を撮ることは禁じられている)、私は呆けたようにチアパスの山と星を眺めつつ、ひたすら夜更かしした。知らないうちに、この貧しい村に愛着を感じている自分がいた。

 翌朝早く起きて、最後の朝食を楽しんだ。女たちに挨拶する。「”koraval”(ありがとう)」「”lek oi”(いいよ)」「また会おう」「”lek oi”」………短い会話だった。

 私たちは初日に行った集会所へ行き、そこで別れの集会があった。村の者たち総出だ。ふたたび若者たちが歌い終えると、私たちはそれぞれスピーチをしなければならくなった。他の仲間たちがそれぞれの思い出や、学んだことを語り、感謝の意をささげたあと、司会のものに「きみは?」とたずねられた。私のスペイン語力は、即興でスピーチをできるほどではない。それでも意を決して、私は語ってみた。「お聞きのように、スペイン語でさえ私の母語ではありません。ですので、いま私が考えていることを直接、うまく表現することができません。ただ今、とにかく言えることは、”koraval”です」。そんな短いスピーチだったが、想いは伝わったようである(半年後、メキシコシティに行った折にこの時の仲間たちと再会したが、皆、私のスピーチを印象的だったと言って覚えてくれており、感激した)。みんなに手を振りながら、車の方へと向かう。見送りのために集会所からわざわざセベデオが降りて来てくれた。彼の顔は涙でくしゃくしゃになっていた。他の仲間の女性たちも泣いている者はいたが、私はまさか彼がこんなに泣くとは思わず、驚いた。「ねえ、また会えるよ。また戻ってくる。”Jootik chilvatik”(”somos compañeros”=私たちは同志)じゃないか」。私がツォッィル語でそう言うと、彼は答えずに、ひたすら泣きながらうなずくだけだった。ハビエルが励まし、私を車の方へ促した。

 オベンティックに着くと、集会所へ腰を落ち着けた。最初会った時のように、彼の器で食事をし、土産屋を物色し、オベンティック名物の安煙草とコーヒーを買った。段々と最初のときのように彼は無口に戻っていったような気がする。私の方もまた、疲れからか、感慨深さからか、口数が減っていった。

 集会所ではいろんな人が話をした。幹部のエライ人たちが私たちの「卒業」を証し、生徒たちが自分の思い出を語る。私は疲れてほとんど聞く体力がなく、ちょっと息抜きでもするかとハビエルと外に出た。そこで思い出したように彼にたずねた。「そうそう、みんなでとった写真を送りたいんだけど、住所おしえてよ」「いや、僕たち住所ないんだよね」「え!ないってどういうことさ」「外部と郵便のやりとりができないってことだよ」「まじかよ!まさかそこまでとは思わなかった………どうしよう、まだまだみんなに言いたいことはいろいろあるし、後でゆっくり手紙や写真が送れると思ってた」「どうしようもないね、こればかりは」「ちょっと待ってて、わかった?」。私はメモ帳からページを引きはがし、急いでスペイン語で文章を綴った。つづりや文法の誤りも犯していたかもしれないが、時間のない私はそんなことなど構っていられなかった。思いのたけを、そこに殴り書きした。それを彼に、帰ったらセベデオたちに渡すよう頼んだ。

 サン・クリストバル・デ・ラス・カサスに帰る時間が近づいていた。「そろそろだね」「うん、もうすぐだ。あ、ちょっと待って」と言って彼は古くさい携帯で、私の写真を撮った。「ブルース・リーみたいだな」「なんだそりゃ」「とにかくもう時間がない、バスのところへ行こう」。

 私たちは沈黙しながら、霧の中をバスの方まで歩いて行った。私の心には様々な思いが去来していた。インターネットが無いのはわかっていたが、まさか手紙のやりとりさえできないとは!ネット世代の私は、誰かと本当の意味で完全な「別れ」というものをほとんど経験したことがないような気がする。たとえ別れても、電話やネットで簡単に繋がれるのが普通だった。でも今回は、そうではない。この最後の日ですら、私のことを気づかい、護衛としての仕事を果たしてくれるハビエル。私にはもう、護衛というより素晴らしい相棒という感じがしていた。たった5日間の付き合いだけど、心の底から信頼して、尊敬できる。彼の方もまた、私といる日常に慣れきっていたようだった。決して弱音を吐かない彼だが、前の晩こう言っていたのだ。「明日が来るのは嫌だな」「どうして?」「だって、また独りの生活に戻るから………」。静かに歩きながら、私はなんだか泣きそうになっていた。

 バスのところに着くと、急がせる彼に無理やり煙草を渡して、これを吸ったらいよいよ別れよう、と説得した。私は言う。「まあまた来るよ」「それがいいさ」「俺は世界中を旅したことがあるのさ。ここが遠いなんて、これっぽっちも思わない」「さすがだなー」「次来る時はさ、将来の嫁さんと来るわ」「そりゃあいいな、そのときは俺も結婚してるかなー」。そんな他愛もない会話をしながらも、彼の目には涙が浮かんでいた。「さあ、もう行かなきゃ」と彼は煙草を消して私を促した。突然、私の眼からとめどなく涙が溢れてきた。ああもう本当に最後なんだな、と思った。気づけば彼も泣きはらしているようだった。私たちは固く、固く抱き合った。最後に言いたいことをたくさん考えていたにもかかわらず、私がやっとの思いで絞り出せた言葉は、”Muchas gracias”(どうもありがとう)という、ただそれだけの言葉だった。彼もまた、”Sí, sí(うん、うん)と答えただけだった。

 そうして私はバスに乗り、窓際の席で顔を伏せながらしばらくずっと泣いていた。この5日間の様々な出来事が胸に去来した。そして人々の優しさを思い出すたびに、また泣けてくるのだった。

 今やサパティスタたちは、遠い国の格好良い活動家たちでも何でもなく、私にとっては、誰よりも優しい心を持った、最高の友人たちであり、家族である。この学校では、彼らの思い、彼らの日々、彼らの笑顔、そういうことに一番触れ、学んだのだとしか、今は言えない。いつの日か必ず帰ってくると固く誓って、私もまた独りに戻っていった。

<終>

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