“Mucho gusto”(サパティスタ学校の思い出2)

 「サパティスタ学校」(Escuelita Zapatista)の情報は以前から手に入れていた。留学先のグアダラハラ市にあるサパティスタシンパのカフェ(Ríncon Zapatista)で定期的に開かれていた勉強会に参加していたためだ。「学校」の開校第1期は2014年の夏に既に開かれていた。参加希望者は事前にサパティスタ側にメールを送り、招待状をもらう必要があるが、私の場合おそらく時期を逸していたか何かで、返信がくることはなかった。というわけで半ばあきらめてはいたが、とにかく現地に行って参加希望の旨を直接伝えてみようということに決めた。

  1月1日の夜、一人でサン・クリストバルの街を歩いていると、偶然、上記のカフェの仲間たち4人に遭遇した。仲間のうち二人はこの学校に参加することになっていた。彼らに事情を説明すると、2日早朝にCIDECIと呼ばれている、先住民研究が行われている自治大学へ参加登録をしに行ってみたら、ということになった。

 CIDECIに着くとスタッフに事情を伝え、プロフィールや参加動機等を提出したのはよいが、他の同じようなアポなしメキシコ人たちはすぐに参加許可が降りたにもかかわらず、私の場合はなんと半日以上も待ちぼうけをくらう羽目になった(アジア人の参加者が皆無だったため、不審がられたのだと思われる)。とはいえ待った甲斐があり、なんとか夕暮れまでには参加許可が降りた。4冊の教科書と2枚のDVDが付き、これら教材代が300ペソほど。私の派遣先エリアは、たまたま大晦日に遊びに行っていたオベンティックとなった。近いのはよいがもっとも寒いエリアであり、複雑な気持ちだった。カフェの仲間たちはラ・ガルーチャ(La Garrucha)ラ・レアリダ(La Realidad)というもっと遠いカラコルに派遣されることになったので、ここでお別れだ。

 さらにまた長い時間、送迎バスを待った後、揺られながらオベンティックに着いた頃には夜も更けていた。眠気眼で門まで歩くと驚嘆のあまり眠気がすべて吹き飛んだ。目出し帽をかぶり首にバンダナを巻いた「正装」のサパティスタたちが、オベンティックの入り口の門の両側に列を作って延々と並んでいるのだ。私たち一行(数百人あまり)が彼らの列に挟まれて歩き始めると、いっせいに拍手をしながら歓迎してくれる。こんなに規模の大きい「歓迎」は、私の滅多に他人に歓迎されない人生のなかで初めてのことである。それはまるで勝利の軍隊、凱旋して祖国に帰還といった趣があった

 サパティスタの列は奥の方にある巨大な集会場まで続いていた。ここでまた例の国歌とサパティスタ国歌が歌われた後、「アウトリダーデス」(Autoridades、オーソリティーズ)と呼ばれる、彼らの伝統の大きなソンブレロをかぶった政府の幹部たちが演説し、これからの簡単な説明を行った。この説明はまったく理解できず、私のスペイン語理解の弱さゆえかと思ったが、近くのメキシコ人にたずねても同じように理解してなかったようで、どうしていいかわからない時間が続いた。どうやらここでもさらに何かしらの「登録」が必要とのことだ。前の演壇に行って「登録」を済ませると、私の運命は半ば決まったようだった。ここで、これから私が派遣される「村」(オベンティック管内に属する)とそこのホストファミリー、および私の「グアルディアーノ」(Guardiano、ガーディアン)すなわち「護衛」が決まったのだ。

 私の護衛はハビエルという名の若者。目出し帽のまま”mucho gusto”(はじめまして)と言って手を差し出してきた。その大きく、そして黒くざらつき、ゴツゴツした農業労働者そのままの手が、とても印象的だった。

 彼は19歳で、ツォツィル語を話すツォツィル族の出身だ。とはいえ完璧でわかりやすいスペイン語を話すので、コミュニケーションに問題はない。彼は私のために椅子を用意し、他の人たちの「登録」が続く中、とにかくずーっと私の隣にいた。常に共にいること、それが彼らの第一の仕事らしい。そのときの私の唯一の話相手なわけで、私は様々な質問を彼に浴びせた。サパティスタや学校についての話は事務的にてきぱき答えてくれて、彼個人についての質問(彼女はいるかとか、どんな女の子が好きだとかそういう他愛のない話)は、興味がないとばかりに言葉少なに答えただけだった。無口な子なのかな、と私は思った。最も一緒にいるであろう相手が無口だと少しさみしくなるなあ、とそのとき感じたのをおぼえている。が、これはあやまりであったと後で気づくことになる。

 夕食の時間となり、彼はカバンから私たち2人の分の食器とコップを取り出した。これは他のすべての護衛たちも同様だった。どうやらそういう手筈のようだ。炊事場で係の前にならび、食器にフリホーレス(豆)とチレ(辛子)を入れる。「茶かコーヒーのどっちがいい?」との質問に「茶」と答えて茶をもらい、「トルティージャは何枚欲しい?」との質問に「とりあえず三枚」と言いトルティージャを受け取る。食堂にはイスがなく長い机が2つあり、そこで立って食べることになる。食事中はなんとなく無言のまま、このシンプルな料理に舌鼓を打った。「もっと食べる?」と聞かれ、「そうだなあ」と言うと、彼は私の食器をもってフリホーレスをとってきてくれ、食事が終わると近くの水道で食器を洗ってくれた。まったく恐縮するほど懇切丁寧で優しく、まるで私に仕えているかのような態度だ。これが彼らの第二の仕事であるらしい。そうそう、食べるときになって彼は初めて目出し帽を取ったので、顔を見ることができた。どこかあどけない少年らしさを残した、日焼けして快活そうな顔つきだった。その顔つきは、確かに彼が19歳の若者であることを私に思い起こさせた。

 明日は早いし、食べたらとっとと寝る。というわけで、近くのオンボロ小屋に行き、そこで他の多くの生徒たちと雑魚寝だ。床は土なのでビニールを敷き、ハビエルが貸してくれた毛布をかけて、泥まみれの足のまま寝る。寝るときも彼は隣だ。なんと例の帽子を被ったまま就寝しようとするので、「寝るときぐらい目出し帽はとらないの?義務みたいなもの?」と尋ねてみると、「まあそんなものさ」とのこと。なんとも不思議な光景で、私は忍者付きの戦国武将にでもなったかのような気持ちになった。明日は必ず長靴を買おうと考えながら、凍えるような寒さの中、たった1枚の薄い毛布にくるまって、無理やりにも目をつむって寝た。

<つづく>

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