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スケープゴートと震災 映画『すずめの戸締まり』映画評

自然災害は、私達がいくら対策を講じようが起きるものは起きてしまう。そもそもこうした災害は人が起こした事故や犯罪などと違い、そこに責任を負わせるべき指導者や犯人がいない。だから対策も講じようもないという訳である。まさか地球に向かって「こら、いますぐそのばかでかい貧乏ゆすりをおやめなさい」という訳にもいかないし。ましてあの3.11クラスの大地震や津波といったものに対し、人類の叡智は何ができようか。地震大国のこの国で生きる以上は、結局はいつ起こるかもしれない大破壊に怯えながら、「人はいつか死ぬから仕方ないさ」というどこか淡い諦観に身を任せるしかない。

勿論我々だってただ口を開けて手をこまねているだけでは無い。備えることはできる。個人のレベルなら日頃の防災対策だとか、大きな対策なら二次被害を押さえる為に余計なものをできる限り取り除いておくとか(津波一発でおしゃかになって未だに風評被害を地元に齎している原発とかね)。大災害から私達をできる限り生かす可能性のある選択とは、結局のところ過去の悲劇から学ぶ反省であり、その反省から行われる地道で現実的な活動に他ならない。

映画『すずめの戸締まり』の最大の問題点は、そうした現実の災害の原因を、ひとえに「みみず」というフィクションに求めた点にある。そうした発想が、ひどく浅はかと感じてしまう。そればかりでなく、いないはずの犯人を作り出してしまう冤罪行為にこの映画は加担してはいないだろうか。いわばあのみみずは、災害を起こす架空の戦犯、スケープゴートなのだ。「みみずには意思も目的もない」という予防線は張ってあるものの、しかしみみずを常世の国から出ないように押さえておけば災害は起きない、という安直なルールが作中徹底されているではないか。正直なところ映画を見ていて「祈っていれば戦争は起きない」、みたいな話を延々聞かされているような心地がした。今どきそんなことを本気で言うひとは少ないだろうが、少なくともこの映画はそれを実直に行っているのだから。

何しろみみずを鎮める「閉じ師」の存在も然りである。祝詞を唱えながら、暴れるみみず君の脱走を止めるべく奮闘する人々ではあるが、彼らが頑張らないとあっけなく多くの人が死ぬ。その点では、本来存在しないはずの、相当な責任を負わされたスケープゴート的造形物だろう。この映画ではあの3.11が閉じ師の仕事が失敗したか、あるいは見過ごされた故に起きたことが示唆されている。果たしてそういう単純なフィクションに置き替えれるものなのだろうか、あの10年前の災害は?

おいおい、そんなことを言ったら他のSFやらファンタジー映画だとか、おめーの好きなマーベルの作品とかはどうなるんだ、という話になるだろう。勿論、大なり小なりそういう意味合いを帯びるきらいはある。現実や社会に根差さない物語なんてものはまずないし、場合によってはフィクションは実際の出来事に介入したり、歴史を改変したりする。そういえば近年のタランティーノ映画なんかも大きく事実を改変してたよね。

が、それも結局はていどとやり方の問題、なによりその設定や演出がお話的に必然なのかどうか、なのである。史実では無残に死んだ人をタランティーノが映画で生かしたからといって「史実を捻じ曲げるんじゃねーよ」と私は声を出して批判する気はない。それは私があの演出からタランティーノなりの「こうしなければいけないんだ」という必然性や美学といったものを見出しているからだ。そういうものに対して無理やり異議を申し立てるのは、見当違いの野暮天、音痴というものだ。で、『すずめの戸締まり』だが、残念ながら必然性が感じられなかったのが正直なところだ。宗教学、とりわけ神道的な知識を導入して世界観に説得力を与え、現実の3.11と紐づけようとしているが、功を奏していないように思える。

タランティーノ映画はかなり突飛な例となってしまった。それ以外の一般的な空想のヒーローなんかとも比較してみたい。確かにヒーローは現実離れした能力やら怪力やらをもってはいるけれども、彼らが解決できるのは、基本同じ位相の敵とか問題だけであって、割と実際に起きた厄災に対してはつくづく無力な気がする。そういう意味では私が好きな作品たちは、現実と虚構との調和がそれなりにとれていると思うのである。一方『すずめの戸締まり』は作り手のフィクション面が過剰なまでにアピールしていて、震災というテーマそのものが霞んでしまっている印象を受けた。3.11を扱うのならば、もっと取材に基づく事実に比重を置き、描写すべきではないだろうか。

原作の『Amazing Spider-man』より。あのスパイダーマンも9.11の惨禍の前では…
 拾い画な上に画像粗くてすいません。

別の面から、この映画について語ってみる。新海映画特有の美しいルックやラッドウィンプスのエモな楽曲をとりあげて褒める以外にも、内容に関してももろ手を挙げて絶賛する人たちが見受けられる。そういうのを見るとどうも、作り手のみならず世界全体がどうも陰謀論的なカルトな方面に傾いているのだなと、上記のような「スケープゴート云々」めんどくさいことを考えてしまう私は思わずにはいられないのである。例えば再び多くの支持者の応援で息を吹き返しつつあるドナルド・トランプと、彼を支持する人々なんかもそうだ。支持者の脳裏で描かれた、Qアノンの世界観もまた「いないはずの黒幕」と創り出し、ピザゲート事件や議会襲撃のような事件を起こした。我が国でもカルトのようなマニュフェストをかかげる政党が地方議会でその議席を徐々に増やしつつあることは周知の事実だろう。というか多くの人が支持した与党に、まさかカルトがガッツリ浸透していたという、サウスパークの1エピソードみたいな大馬鹿ギャグ展開を迎えているのが我が国の現状なのだ。

兎に角カルトは現実的で地道な解決を嫌う。その代わり彼らは安直な解決法を作り出す。その一例が、それがありもしない悪役なのだ。悪魔や魔女や黒幕やユダヤ人がたくらむ陰謀。おせっかいかもしれないが、この映画を無条件に支持する人の心理もまた、同じような陰謀論的な慣性に陥ってはいないだろうか、と私はその点がどうも心配になるのだ。我が国の情けない状況をみると、もしかして既にいろいろ手遅れかもしれんが。

…Qアノンのアホ陰謀と『すずめの戸締まり』みたいなボーイミーツガール的エンタメ映画を結びつけるのはいささか乱暴かなと思うものの、何度も言うが、いずれにしたって不安な現実を前に安直な結論に求めてしまうのはかなり危険な兆候には違いなかろう。たかだか映画じゃないかというひともいるだろうが、それはメディアの力を甘く見すぎている。支離滅裂としか思えないデマやプロパガンダは、その「たかが」メディアの力によって広まるのだから。

この映画の私なりの美点をあげるとすれば、都会の描き方だ。たとえば同じくアニメで都会を描いてきた押井守とは違った切り口で面白い。押井がひたすら都会の暗部、「さびしくて昏くて薄汚い所」を描いてきたとすると、新海が本作でフォーカスするのはお茶の水だとか比較的治安もよさげで穏やかな場所である。あぁ、この監督はこういう場所が好きなんだなと思うし、私も結構歩いていて楽しい場所なので、ここは意見が一致した気がする。それに今まで意外にありそうに無かったシチュエーションなのでちょっと面白かった。


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