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コンビニの好きなところ

 どんなに重要だと思っていたり、自分に影響を与えた出来事も、生活の中で思い出すことはほとんどない場合が多い。僕がコンビニまでの道のりで考えていたことは、今日の夕飯のことと、明後日の授業の課題のことと、もうすぐ始まる就活のことだ。
 自動ドアが開くと、店員の気の抜けた挨拶が聞こえる。時計の短針は十時を過ぎようとしている。
 コンビニの陳列棚に並べられたカップ麺をなんとなく眺めている。ふと我に帰り、横着してはいけないと思う。確か冷蔵庫にはキャベツと、ダンボールに父が送ってくれたジャガイモと玉ねぎがあった筈だ。
 僕がポテチの棚を吟味している隣で、いつもいる中年くらいの店員が、品出しをしている。まるで僕のことなんて見えていないようだと思う。
 不意に携帯が鳴り、何気無くそれをポケットから取り出す。携帯の画面に表示されたその名前の人物を思い出すのに、僕は5秒ほど要した。

『久しぶり、今度会えない?』

 あまりにありきたりでシンプルなその一文を見て、あいつらしいな、と笑いそうになったが、ふと「あいつらしさ」が何なのか、詳しく思い出せないことに気づいた。最後に会ったのは確か卒業式の日だった。会ったと言っても廊下ですれ違った程度だったが。あれほど中学時代を一緒に過ごしたのにそれ以降一度も会っていないのは、確か理由があった。

 くだらないことで、ずっと笑っていたことを思い出す。あいつが笑う時、ただでさえ細い目がさらに細く糸のようになって、僕はその時いつも自分の両目尻に指を置いてバカにしてやったのだけど、あいつはほとんどそれに気づかないくらい夢中になって笑っていた。一番よく覚えているのは部活帰りにこっそり買い食いをしたときのことだ。学校でのことはあまり覚えていない。僕もあいつもクラスではあまり居場所はなかったし、部活でも二人揃ってレギュラーにはなれずにいつも体育館裏の植え込みのところでサボって遊んでいた。あの時の帰り道が、あの頃の僕たちにとっていちばんの居場所だったのではないか、と今振り返ってみる。
 ただ、それがどれくらいの弱さの上で成り立っているか、僕たちは考えもしなかった。そのわずかな解れを見逃してしまったのも、確か夜のコンビニの前で、中学最後の夏、少し肌寒い風が吹き始めていた頃だった。
 いつもの帰り道、好物のオレンジアイスをかじりながらあいつは言った。
「どこでもいいから、早く決めろよ」
 僕は学校から借りてきた『高校受験ガイドブック』をコンビニから漏れてくるわずかな光を頼りにめくりながら、志望校を考えていた。田舎にあった僕たちの中学では、だいたい県内の公立高校で通える場所は限られていて、工業高校を除けばだいたい偏差値によって七校くらいに振り分けられた。僕たちは同じ高校に行こうと約束していたわけだったから、不本意ながらあいつより学力の劣る僕が高校を選んでいた。
 将来のことだとか、環境のことだとか、様々なことが頭を巡りつつも、それを一つひとつ潰していくには僕は幼かった。ガイドブックに書いてあった、【駅から徒歩2分】という文句を見つけ、僕はその高校のページを指差してあいつに見せた。そこは偏差値でいうと七校のうち下から二番目だった。
「マジかよ? バカ高じゃん」
「まあでも、ここは確実にいくべきでしょ」
「ま、いいけどね」
 あいつは食べきったアイスの棒をギシギシかみながら笑った。あいつの目はやっぱり細くて、その表情が僕の中の小さな不安の種を見えなくした。
「じゃあ決定で」
「あいよ」

 僕はそのことを両親にしばらくは伝えずにいた。両親が僕の進路にそれほど関心があると思えなかったし、両親は僕が、あいつと一緒にいるのを気に入らないらしかった。コンビニでの買い食いがバレた時、家に連絡が入ってからそうなったように思えたが、それにしても露骨に避けているように感じた。とりわけ、僕が悪いことをすることではなく、あいつの家や、あいつ自身を。

 すっかり寒くなって、「進路三者面談」なるものが始まって、僕と両親は話し合わざるを得なくなった。ふと冷静になって、こんな風に、時間が来たら自動的に進路を決めてくださいというのも、不思議だと思った。
 はじめて志望校を伝えた時の彼らの表情は重かった。そして、その理由を尋ねた。僕は適当な嘘をつくことを考えたが、それができなかった。そこで嘘をつくことが、あいつに対する裏切りのように感じたからだ。僕があいつと同じ高校に行くために、その高校を選ぶこと。その正しさを主張しなければいけないと思った。
「友達と、同じ高校に行きたいから」
 そんな理由はダメだ、と父が言った。僕は、それでも行きたいんです、と下を向きながらも言った。それは誰、とゆっくりとした口調で母が言う。僕は目の焦点が合わないような感覚がしたが、それでもはっきりと、あいつの名前を言った。
「それならなおさら、ダメだ」
 その時の彼らの表情を今でもはっきり覚えている。その時はじめて、彼らが本当に僕のことを心配していて、正しい方に導きたいのだ、ということを悟った。

 それからのことは、あまり覚えていない。ただ、高校のことに関してはあいつに言えず、僕が実は違う高校を受験することを何かの拍子にあいつが知った時に、ただ一言だけ、受けないんだね、と笑いながら言われたことは覚えている。それから卒業まで、僕たちは微妙な距離感のまま、結局別れの挨拶もできずにそれぞれの高校に行ったのだった。
 僕が受けたのはあいつが受けたところより偏差値順で三つ上の高校だった。

 あいつの家のことを何かの噂で聞いたのも、確か卒業して半年以上経ってからだった。新興宗教がどうとか、闇金がどうとか、そんな話は、高校生になった僕でもよく分からなかったし、分かりたくもなかった。

「お待ちの方、どうぞー」
 店員の少し苛立った声が聞こえる。何も持たずにレジに並んでしまった僕は、ハッとして適当に揚げ物を頼んだ。
レジをカタカタ打ち込む音だけが僕と店員の間に流れて、僕は目の前にいる彼のことを考える。これほど近くに居るのに何も個人的な話を交わすことはないであろう、一人の人間のことを。
思わず目が合いそうになり、すぐに目線を落とす。お釣りを渡されたので、それをいつものように受け取り、僕は何も言わずにレジを離れる。コンビニを出ようとすると、ガラス扉にはもうすぐ二十一になってしまう自分の姿が映っていた。
 気づけば今週が終わっているみたいに、それくらいの時間はすぐに経ってしまう。

 あれから色々なことがあったけれど、その時のことはまだ僕の中に根を張って、僕に言いようのない感覚を与え続ける。それは後悔とも少し違って、感傷に浸るようなことでもなくて、ただ、遠くから僕をじっと見つめ続ける赤の他人みたいに、僕につきまとう。結局、こんなもんなんだという諦めや、何か違う選択ができたかもしれないという考えや、両親への思いや、あいつに言いたいことを考えても思い浮かばないこと、そしてそのことに対する微かな失望と焦りが、僕の視界を狭めていた気がする。

 ゆっくりと自動ドアが開く。
 外はやはり肌寒くて、僕たちが志望校を決めたあの時みたいに店の前がぼんやりと光っている。あの時と違って、そこには誰もいない。車が店の前の道を次々に通り過ぎて行って、急に時間の流れの中に放り出されたように感じる。
 もう一度携帯を開いて、あいつに返信を送る。もっと勇気のいることかと思ったが、案外あっけなく僕は送信ボタンを押した。
『来週の日曜とか、どう?』
 コンビニの光は、いつも変わらず僕たちを照らしていた。そして、それは今も同じだ。

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