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ワスレナヅカ

 ぎこちない動きで、ボールを蹴る足。その人から送られてくるボール、それを小さな僕は必死に追いかける。僕が必死になって追いかけるほど、その人はケラケラと声を出して笑った。僕はそれが嬉しくて、わざと大げさに走ってみたり、転んでみたりする。
 次第に泥だらけになってゆき、気づけば日は山々の彼方に沈もうとしていた。ボールがなかなか送られてこないのでふと顔をあげると、その人はもうそこには居なかった。残されたのは、力なく転がるサッカーボールの、長く伸びた影だけだった。

「かーさん?」

 小さな僕はそんな言葉を呟いた気がした。

…...

 家の裏山は鬱蒼としていて、様々な噂があった。何十年も前に子供が失踪して帰って来ないだとか、収穫の時期に山に入ると神の怒りに触れて良からぬことが起きるだとか、どれもよくある地域に伝わる噂程度のものであったが、それが当時小学校低学年だった僕たちを惹きつけたのは言うまでもない。大人たちは特にそんな噂を真に受けていたはずもなく、棒切れを装備して隊列を組んだ僕たちが裏山に分け入ろうとするのを強く制することはしなかった。
 加えて僕は、一人でその裏山に分け入ることもあった。それは多くは何か悲しいことがあって一人になりたいときで、あるいは時々、普通に過ごしているだけなのになぜか足が自然と裏山に向かうこともあった。そしてそんな時に、その場所は目の前に現れた。

 その名前を教えてくれたのは確か祖母だった。「ワスレナヅカ」とはその名前の通り、あるいはその名前に反して、「誰かから忘れられたもの」が集まる不思議な場所であった。

 僕の父方の祖父母は集落で生まれ育って出会い、父が生まれた。父は上京して母と出会ったが、結婚して僕が生まれると同時に夢を捨てて地元の集落に戻ってきて、農家を継いだ。
 広すぎる父の実家の余白を埋めるように、僕は家中を駆け回った。階段の手すりに、広い縁側に、納屋に繋がる猫の道に、僕は僕の痕跡を残しながら、少しづつ大きくなった。

…...

「ただいまー」

 引き戸のガラガラした音が、冷たい廊下に響いた。奥の方の部屋から、小さな「おーう」という祖父の声が聞こえた。今年の正月以来だから、だいたい10ヶ月ぶりに僕は帰って来たわけだが、家は時間が止まったみたいに何も変わらない。さらに言えば、僕が家を出た6年前から、ほとんどこの家は何も変わっていない。

 新幹線で下手に寝てしまったせいか、頭が少し痛い。重い荷物を玄関に置いて、廊下を歩く。いつもの匂い。
 襖を開けると、思った通りの場所に祖父が座って、テレビを見ていた。
「ただいま」
 襖から覗き込んだまま僕が言うと、祖父はまた、おう、と軽く言って僕に座るよう手で促した。僕はそれには従わず、部屋の一番奥にある仏壇まで行って、線香をあげた。仏壇には父の、穏やかな表情の写真が飾られる。
 父は、僕が三歳の時に死んだ。死因は詳しくは知らないが、大雨の次の日の朝、用水路に枯葉などと一緒に詰まっているのが発見されたそうだ。
 母は間も無く、僕を置いてどこかへ行ってしまった。実家に帰ったとか、東京の店で働いているとか、様々な噂を聞いたが、どれも信ぴょう性に欠けていた。
 だから僕は父と母の記憶がほとんどなく、祖父母に育てられたようなものだったのだ。

 祖父の隣まで来ると、祖父は口を開いた。
「久しぶりだな」
「そう? 正月にも来たよ」
「ああ、そうだったな」
「俺の就職決まったからって、わざわざシンさんまで呼んでさ」
 祖父はテレビから目を離そうとはしないが、本当に見ているのかどうかも怪しいくらい目つきはぼーっとしていた。幸いまだボケてはいないようだが、もともとマイペースで穏やかな人なので、ボケたとしても大して変わらないだろうな、と思う。
 「シンさん」は父親の地元の友達で、父が死んで母が去った後、僕の世話を手伝ってくれた人だ。父親がいなかった僕にとって、父親らしいことをしてくれた唯一の人であり、祖父母の次に僕に影響を与えた人だ。今は名古屋で暮らしている。
 僕がこの十月という半端な時期に帰って来たのも、シンさんからの電話がきっかけだった。
「ばあちゃんは?」
「納屋か畑だろ」
 僕は部屋から縁側に繋がる廊下を歩いて行き、ガラス戸を開けて畑を眺めた。遠くから農業用の一輪車を引いてこちらに歩いてくる祖母の姿が見えた。大きく手を振ると、祖母もこちらに気づいて、立ち止まって手を振った。相変わらず元気な姿が、僕にかすかな不安を抱かせる。最近は薬の量も増えてきたという。

 二階の自室に入ると、相変わらず足の踏み場もないほどに散らかっている。本棚から溢れた漫画本や雑誌や、高校の時買ったギターや小さい頃使っていたおもちゃまで、ありとあらゆるモノが転がっている。ベッドの上に荷物をおろし、自らもベッドに腰掛ける。
 僕を作ってきたモノに囲まれたこの部屋が、僕がこの世で一番安心できる空間だ。

「もしもし?」
『おう、どうした』
「帰って来たんだ」
 ベッドに寝転んで、天井の世界地図を見つめながらシンさんの声を電話越しに聞く。
『そうか......』
 シンさんは少し考えるようにそう言ったが、すぐに話を変えた。
『仕事はどうだ?』
「まあ、うまくやってるよ。同僚が一人辞めたけど」
『じゃあよかった。おじさんは?』
「相変わらず」
『そうか......。たまには、どっか連れてってやれ』
「うん、でも車がないんだ」
『売ったのか』
「そうだよ、知ってるだろ? 俺は反対したのに」
『知らなかった。おじさんは大丈夫か?』
「まあ、ああ見えて顔は広いし」
 実際のところ、シンさんが名古屋に移り住んでから祖父の世話をしていたのは祖父の妹だった。
 しばらく沈黙が続いて、シンさんが切り出した。
『電話するのか?』
 同じくらいの時間をかけて、僕は答える。
「うん、そうしようと思う」
『そうか』
 シンさんはそう言って、小さく息をはいて、よし、と言った。
『わかった、お前の好きにしたらいい』
「うん、ありがとう」
 シンさんがなぜこんなにも僕のことを気にかけてくれるのか、不思議でならなかった。血の繋がりなんて何もない、死んだ父親の友達というだけなのに。
 何か、やり場のない感情が込み上げてくるのを感じた。天井が少しずつ降りて来て、部屋が狭くなっていくようだった。
「あのさ......」
『ん?』
「母さんのこと、どう思ってる?」
 さっきよりも長い沈黙があって、僕は少し、しまったと思った。
『なんで?』
「いや、なんとなく......」
『別に......なんとも』
 シンさんはそう言って電話を切った。
 蛍光灯の白い光は僕の視界を曖昧にボヤけさせ、疲れていた僕はそのまま眠りについた。

 翌日、僕は久しぶりに地元の友人に会った。小学校、中学校が一緒だった親友は、現在では地元で就職し、結婚して子供も生まれるそうだ。
「お前から誘うなんて、珍しいな」
 枝豆を口に運びながらそう言った友人の薬指に光る指輪を気にしながら、彼とよくあるような昔の思い出話をした。
 彼は、結婚して少し穏やかになった。
「正直言って、楽しみで仕方ないんだ。最初は不安しかなかったんだけど、今は絶対、いい父親になれるって思ってる」
「そっか......」
 父親も居なければ子供も居ない僕にとっては彼の期待感や不安に対して言えることは何もなかった。しかし彼がそれを皮肉や僕に対する当てつけとしてそれを言っている訳ではないことは分かった。彼は素直なのだ。
 この集落で長い時間を過ごした僕にとって、彼はあらゆる風景に結びついた存在であった。裏山や、小川に掛かる橋や、家から中学までの長いあぜ道、いたるところに彼の面影は残っている。そんな記憶に溢れたこの土地で、彼は新しい未来を作ろうとしている。
 窓からは秋の涼しい風が流れ込んで来て、季節外れの風鈴が音を立てる。それは、かすかに死の香りを含んでいるように思えた。
 彼が死んだとして、僕は彼の子供を少しでも気にかけてやれるだろうか。
 ふとよぎった疑問をかき消すように、僕は言った。
「きっとなれるよ」
「はは、なんだそれ」
 彼ははにかんで、目をそらした。そして、もう一度僕の方を見て尋ねた。
「なんで、こんな時期に帰って来たんだ?」
彼の目尻のかすかな動きが僕に疑いを向ける。
「......」
 古びた居酒屋の蛍光灯に何度もハエがぶつかる音がした。僕はビールを飲み干して、友人の目を見て言った。
「ちょっと、頼みがあるんだ」

…...

 シンさんの苦労を考えると、今でも胸が痛くなる。結婚もしていたのに、僕の家にしょっちゅう来ては僕と遊んでくれたし、進学のことや、祖父母だけでは手に負えないような相談にはいつも乗ってくれていた。今、シンさんは独りで名古屋で暮らしている。僕は、そんなシンさんにどうしても母親の話をするのが辛かった。
 顔も名前も、知らない。僕を捨てた母親。

 家に帰って、カバンの中を漁る。底の方にくしゃくしゃになった紙切れのシワを丁寧に伸ばしていると、ふいにドアが開いた。
 そこには、祖父が日本酒の瓶を持って立って居た。
「飲むか?」
 祖父が言った。祖父がそうするときは、僕はいつも覚悟を決める。

「シンから、聞いたか」
「うん」
 祖父は日本酒を僕のお猪口に並々と注ぎながら言った。
「どうするんだ」
「どうするって......」
 僕は、父と母の不在によってぶつけることのなかったなけなしの「反抗心」が、胸の中に僅かに輪郭を表すの感じた。
「じいちゃんはどうしたいんだよ」
 僕は祖父の目をじっと見て言った。祖父が何も言わないので、さらに畳み掛けた。
「じいちゃんは、いつも何も教えてくれない。父さんのことも、母さんのことも。今回のことだって、なんで中途半端に人任せにするんだよ」
「それはな、違う」
「何が違うんだよ」
 乱暴にテーブルの上のタバコを掴んで、裏口に歩いて行った。後ろから祖父がついてくる足音がするが、構わず裏口を開けてタバコを吸った。外は思いの外寒く、僕は身震いをした。
 僕は下を向いて、何もない石畳をなんども踏みつけた。ガラガラと後ろの戸が開く音がする。僕は振り返らずにタバコを吸った。
「お前が心配だったんだ」
「......」
「母親のこと、恨んでると思って」
「恨んでなんかない!」
 僕は思いの外大きな声が出たのに戸惑って、すぐ下を向いて、タバコの火を消した。

 沈黙を埋める秋の虫の声がする。何年経っても変わらないその鳴き声は、僕の心の何もない部分をも埋めて、あらゆる疑問や不安を有耶無耶にした。
「そうか......悪かった」
 祖父はそう言った。
 やがて、扉を閉める音だけが僕と祖父の間に響いた。

……

「懐かしいな、こういうの」
 先ほどまで無言だった友人は、僕のすぐ後ろを歩きながら、しみじみと言った。
「どこまで行くんだ?」
「『ワスレナヅカ』」
「なんだそれ?」
 僕は何も言わずに、草をかき分けて歩いた。本当は、付いてきてくれた彼へのお礼を言いたかった。しかし、それ以上に抑えきれない何かが、僕の足を突き動かした。裏山は鬱蒼としていたが、木々の間から柔らかな光が漏れて、どことなく神秘的な感じがした。
 どんどん山奥深くへ分入ってゆく。水分の抜け切らない落ち葉がガサガサと音を立てる。
 唯一、覚えている母親の姿は、そこでサッカーボールを蹴っていた。そこに行けば、何かがあるはずだ。そういう、淡い確信に似た何かに僕はしがみついた。
 それが確実な記憶なのかどうかさえ、わからない。思い違いかもしれない。あるいは、それはシンさんだったのかもしれない。ただ、僕は何かに取り憑かれたように歩いている。この茂みを越えたところに、それがあるはずだと。

 急に視界がひらけた。
 その場所は、山の中に急にぽっかりと開いた穴のように、木が生えておらず、そこに閑かな空間を生み出していた。その空き地の真ん中に、石でできた碑のようなものがポツリと立っている。振り返ると木々の隙間から、周囲の山々の影やひどく明るい集落の全体を見渡すことができた。
 石碑のようなものの根元には、様々なモノが供えられるように置かれている。ガラクタの山だ。
 友人は不思議そうにあたりを見渡している。
 僕はその碑に近づいてみる。足元に並べられたモノたちがガラガラと音を立てる。ガラスの瓶、ぬいぐるみ、野球のバット、どれも古びて割れたり、錆びたりして、時間の流れから取り残されているようだ。いつ、誰がそこに置いたのか、いつからそこにあるのか、捨てられているのか捧げられているのか、わからない。ただ、祖母の言うことには、これらは全て忘れられたモノである。
 石碑の後ろには、草もあまり生えていない平坦な空間がある。あの人は、そこに居たはずだ。小さな僕と一緒に。

「母親と、来てたはずなんだよ」
「お前の?」
「うん。曖昧だけど」
 僕はその空間の真ん中で、その周辺の地面を見渡した。サッカーボールらしきものは落ちていなかった。
「......今まで、来なかったのか?」
「うん」
「なんで?」
 木々に囲われた空の穴に、鳶が飛んでゆくのが見えて、僕は空を仰いだ。
「なんでだろう」

 僕はポケットから紙切れを取り出した。そこに書かれているのは、母親の電話番号だ。車を売るために書類を整理していた時に祖父が見つけた母親宛の手紙を元に、シンさんがその居場所を突き止めてくれたらしい。

「誰かが来て、置いてったのかな」
 友人はあたりに転がるモノたちを眺めて言う。
「多分ね」
 僕も、彼らと同じかもしれない。忘れ去られて、取り残された、遠い記憶。やがて風化してしまうであろう、様々なモノ。
 この紙切れを、そこに捨ててやるつもりだった。
 でも、それができないのは何故なのだろう。
 ここは、お墓なのだろうか。
 父親も、ここに来たのだろうか。

「ありがとう」
 友人の方を見ないで言った。
「え? ああ、大丈夫だよ。嫁さんも里帰りだし、1日くらい......」
「大事にしろよ」
 僕は、その言葉がひどく自分の身の丈に合っていないような気がしてならなかった。
「あ、ああ」
 友人は、戸惑いながらも頷く。やはり僕は、彼の方をまっすぐ見ることができなかった。

 石碑の周りに転がる岩の一つに座り込んで、しばらくその場所に居た。
「母さんに、会いに行くのか」
 友人は、ガラクタの山から泥だらけの野球ボールを拾い上げて言った。僕は、何も答えられなかった。
「会いに行ってやれ」
 そう言われて、僕は喉のあたりから抑えきれない何かが込み上げてくるのを感じた。
「嫌だ」
 それは友人に向けた言葉ではなかった。空が虚しいくらいに白く光っている。
「そうか」
 友人は静かにそう言って、野球ボールを元の場所に戻した。

 生きてるんだからさ、会いに来てくれよ。生きてるんだから。

 僕は泣いているのを隠すために上を向いたまま、紙切れを握りしめた。まだ日は高く、ガラクタの山がかろうじて鈍い光を放っていた。

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