自由と意思、アートと実用
日経電子版の記事【これもアートだ 実用的な食器に焦点あてるコンペ
茨城県陶芸美術館、6月に大賞を決定】では、従来からの公募部門では鑑賞用陶器の出品が多くを占め、「生活の器・食器」は少ない傾向がある為、「生活の器・食器」をテーマに指名コンペ部門も設けた、とリポートされています。
この記事、最初一読して、「へぇ~、そんなものなんだ……」とあれこれ思い巡らしているうちに、心の内に、この記事には2つの大きなテーマが秘められているのではないか、と思えてきました。
――一つは、アートとは直接関係のない「自由と意思」について。
――そして、もう一つは、「アートと実用」、芸術品と実用品という問題です。
【1】自由と意思
ジャンルを絞らない自由な公募では実用的な食器はあまり出品されない、という事実は、その背景に、記事でも指摘されるように、①実用的なものはアートではない、という風潮、そして、②実用的な器を作る側にも、UX(ユーザーエクスペリエンス)を重視しこそすれ、コンペへの応募は目的となっていない、という現実があるのは間違いありません。
ここに、一般論として、このアートの世界に現れた一現象をより普遍的な形で読み解くなら――
人間は、自由を与えられると、ともすれば風潮に流される。
――という事が見えてきます。
本来なら、自由なジャンルの公募に何を応募してもいいはず、しかし、そこには「実用的なものはアートではない」というバイアスが厳然として掛かっている……
そもそも、人間は、自由を与えられるとどのように行動するのか?
▶自由と意思
(1)自分の意思を確立し貫徹する。
(2)自分の意思と周囲の状況を勘案する。
(3)明確な自分の意思を形成できずにいる(思案中)。
(4)自分の意思が分からない。
(5)明確な自分の意思を持たず刹那的に生きる。
(6)何らかの利があれば意思などいらない。
(7)自分の意思を貫いているつもりが、実は外部の影響を被っている
(バイアスがかかっている・騙されている)。
(8)確固たる意思だと思っているが、実は間違っている(考え違い)。
(9)風潮に流されて意思がころころと変わる。
(10)どうでもいい。
(11)無関心。
当たり前の事のようですが、大切な自由ではあっても、自由である事が、人間にとって直ちに正しい方向性へと繋がる訳ではない事、何物にも左右されない、自分自身で考え抜いた自分の意思を持つことの難しさ、と言ったことを考えさせられます。
【2】アートと実用
実用的なものはアートではないのでしょうか?
――定義の問題だから、定義次第でどうにでもなる、と言ってしまってはそれまでですが、実は、考察の取っ掛かりになりそうなものが記事にあります。
(記事より)
「『生活の器・食器』の制作者の多くは、普段、気持ちよく使ってもらうことを重視するあまり、コンペに応募したり、美術館で作品が所蔵されたりすることへの関心が乏しい」
この言説は、裏を返すと、「美術品の制作者は、コンペに応募したり、美術館で作品が所蔵されたりすることへの関心が高い」、となります。
――もちろん、芸術は純粋に芸術であり、コンペとは関係なく、無名の作家の無名の作品に心惹かれたり、例え有名であっても知らなかった作家の作品に接して感動したりするのが自然な訳ですが、そのアートが人々に知られていくためには、コンペのようなものが一つのゲートとして機能していることは間違いありません。
▶アートと実用品
●アート⇨コンペでの上位入賞、など⇨社会的な認知度のアップ
●実用品⇨卓越したUX、など⇨社会的な認知度のアップ
しかし、現代では、アートにしろ、実用品にしろ、それが広く人々に認知されていくプロセスには、他にもSNSなどの影響も大きなものがありそうです(写真撮影OKな美術館や、SNSでバズる、など)。その訴求するものが『美』であるか『機能性』であるかといった事に関わらず、社会的な認知度を左右するプロセスは均質化してきているのかも知れません。
翻ってアートと実用品というものを考えた時、そこには、厳然とした境界線は存在せず、『美』と『機能性』が漠然と溶け合った領域がある、『実用的なアート』という存在があっても全然構わないのではなかろうか……。
アートには、機能性を削ぎ落とした所謂アート以外に、実用品であり、また、一点物でないにもかかわらず、なおかつ何らかの『美』を備えたモノ、という存在があり、そもそも太古の人々、アーティストに実用もアートもなかったのでは、と思えてくるのです。
……例えば、ポール・ヘニングセンのペンダントライトが何世紀も後に1点だけ発見されたら、多くの人が光の彫刻、アートだと思うことでしょう。
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