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わたしの過去と未来の話 | 自己紹介note

初めまして、高木 淳史です。わたしのnoteに興味を持っていただきありがとうございます。この自己紹介noteを通して、わたしの過去と未来をお伝えできればと思っています。

プロフィール

NPO法人soar 事務局インターン / Webエンジニア
6歳から14年間卓球漬けの生活を送る。12歳の時に、スポーツ精神障害である「イップス」を発症。その経験からメンタルヘルスに強い興味を持つ。趣味は音楽、登山、読書など。1998年生まれ 兵庫県出身。

実績
2009年 全国ホープス兵庫県大会 優勝
2010年 全国ホープス西日本ブロック優勝
2012年 兵庫県卓球1年生大会 シングルス優勝
2013年 全国中学校卓球大会ベスト8(団体の部)
2013年 全日本クラブ卓球選手権大会ベスト8
2018年 全国国公立大学卓球大会 ベスト8(団体の部)
その他、10回以上全国大会の出場経験あり

noteをはじめたきっかけ

SNSのように多くの人が目に止まる場所ではなく、自分のnoteに興味を持ってくれた人に読んでもらえればと思い、書き始めたのがきっかけです。

noteでよく書いている内容

メンタルヘルス領域に関心があるので、心の悩みや考え方、感情の動きなどをよく書いています。私が活動している内容も発信しています。

・イップス、メンタルに悩むスポーツ選手に、届けたい言葉
・自分が大事にしている価値観
・さまざまな悩みに対する考え方
・日々の気づきや発見の言語化


14年間の卓球生活について

現在21歳。私の人生経験の多くを占めるのが、6歳から20歳までの卓球生活です。小中高を振り返っても卓球の記憶しか思い出せないぐらい、卓球を中心に日々が進み、卓球で悩み、卓球で喜びを積み上げてきました。

人との関わり、目標に向かって努力する大切さ、難しさ、そして人生観という大きな部分も、卓球を通して考え続けて、今の自分があります。

以下のnoteで詳しく記していますが、改めて書こうと思います。長くて少し重たい文章ですが、僕の芯の部分を描いたのでぜひ。

兄の影響から、小学1年生のときに卓球に出会う。

自転車で20分の地元クラブチームに通っていた。毎週の土曜の3時から5時まで。こうやって打つんだよとフォームを丁寧に教えてもらいながら。

初めは身体を動かして思い通りに球を打つのが楽しい、ぐらいの感覚。何も考えず毎週体育館に通って、ただラケットを振っていた。それでよかった。

少しだけ才能があったのか、2年生の時全国大会にはじめて出場した。予選リーグですぐ負けてしまったが、山形県や長野県、遠くに住んでいる人と対戦するという、7歳での稀有な体験は、今でも心に残っている。

そこから先生の勧めもあり、練習を週1回ではなく、週4,5回と増やして本格的に強くなるための卓球が始まった。「遊び」から「真剣」に変わった瞬間。

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平日の練習は6時半から。学校が終わって、すぐに準備をして自転車を漕いで17時前に体育館に到着。一人でサーブの練習をするためだ。強い選手のサーブを真似して、自分もできるようになるのが楽しかった。思い通りのコースに、思い通りの回転で。成長するのが楽しかったから誰よりも早く体育館に来て球を打ち続けられた。

5年生の時に、団体戦で兵庫県優勝。6年生では、西日本大会優勝。全国大会は毎年出場した。

しかし、この時から先生に怒られることが増えた。遊びではなかったから当たり前だったかもしれない。試合で負けた時、練習でうまくいかなかった時、「なんでできないの?」と怒られた。実際はそんな言い方はしてなかったのかもしれないけれど、12年しか生きていない自分には、一つ一つの言葉が重かった。

怒られたくない、強くならなければ、勝たなければ、という気持ちが強くなってきた。

初めは楽しかったものが、やっていくうちにだんだんしんどい割合が増えていって、なんでやっているのか分からなくなる、というのはどんな物事でもあると思うが、まさにそんな状況。

心のどこかでキツいと常に思っていた気がする。練習でも試合でも、緊張感は高く、先生の目を気にしながらやっていた。それでも、週4,5回の練習は変わらないし、チームメイトやライバルに負けるわけにはいかない、と思っていたんだろう。そう思い込んでいた、という方が近いかもしれない。

そして12歳、小学6年生の終わりの頃。

いつものように練習を始めようとした時、ラケットが思い通りに動かなかった。意識でこう動かそうと思っても、身体は違う動きをする。

「イップス」の発症だった。

イップス (yips) は、精神的な原因などによりスポーツの動作に支障をきたし、突然自分の思い通りのプレー(動き)や意識が出来なくなる症状のことである。明確な治療法はなく、最終的に克服できたとしても発症から数年・数十年経過しているケースも珍しくない。

その当時はイップスという言葉を知っているわけもなく、自分が感じたのは、「昨日まで出来たことが出来なくなる、という絶望感と焦り。」

6年間積み上げてきたものが、1日で崩れ落ちる瞬間だった。

中学生になっても治ることはなかった。全ての技術ができなくなったわけではなく、ある特定の技術の動きだけ、全く言うことを聞かなかった。若かったこともあり、毎日毎日自分を責めていた気がする。なんで出来ないんだと。

それでも試合には勝たなければいけない。その頃から、練習中も試合中も徹底的に頭を使うようになった。イップスの弱点を攻められないように、戦術を考え抜きながら卓球に臨んでいた。

この経験は、今の「考える力」にとてもつながっていると思う。うまくいかなくても考えながら取り組む癖がついた。偶然の産物のようなものだけれど。

中学校でも兵庫県優勝、全国大会ベスト8を取った。チームの先生方、親御さんも大きく喜んでいた。苦しい時間がほとんどだけど、そういう喜びやチームメイトとの時間は楽しかった。「楽しい」と「苦しい」の狭間。

高校、大学でも卓球との生活は続く。他の技術が突然出来なくなったりして、ガンの転移のようだなぁとそのとき思っていた。イップスと8年付き合って、苦しいのは当たり前になっていた。

それでも辞めることなく続けられたのはなんでなんだろうと今考えると、一番の理由は「仲間」だった。

卓球にはシングルス、ダブルス、団体戦があるけど、僕が力を発揮するのは、ダブルスか団体戦だった。チームメイトと勝利を目指して、得点を積み上げていくのが最高に楽しい瞬間だった。チームメイトに応援されながらプレーするのが一番好きだったし、その時の自分が一番強かった。

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それでも人間は楽しいよりも苦しい方が上回ってしまう生き物のよう。20歳、大学2年の時、練習に行くのが少しずつ難しくなってきた。練習してもできるようにならないし、卓球台に立つと無気力になってしまう自分がいた。「思い通り身体が動かない」ことが耐えられなかった。

卓球を辞めるという決断は、これまで作り上げた自分を否定するような感覚で、なかなか踏み出せるものではなかった。最後の1年はずっと辞めるのか続けるのか考えながらプレーしていた。だんだん気力がなくなっていき「もう全力を尽くしてやってきたし辞めてもいいのかな」と思えたところで、卓球を離れた。

20歳で新たなスタートを切った

卓球生活を終えて、人生で大切なことをたくさん学びました。苦しい思い出ばかり蘇ってしまいますが、今に活きていることも本当に多くて、卓球を頑張り続けたおかげだと思えています。

卓球と距離を取ったあと、さまざまなことに取り組んできました。クラウドファンディングを使って1ヶ月海外に渡航してみたり。Webサービスを作ってみたり。登山や音楽も趣味になりました。

UVERworldの「在るべき形」という曲が好きで、自分を支えている1曲です。

「大切なものを失って2日が経ち それでも人生は続くと思い知らされる 」
「願うだけで叶うなら 努力だけで届くなら きっと僕らもう誰も悩まない」

「他の誰かの正解は僕の答えじゃない それぞれの複雑な数式の答えは きっともう僕は見つけたから」

卓球しかしてこなかった自分は何がしたいんだろう、何を求めているんだろうと考える時間が増えましたが、辞めてから1年半をかけて、少しずつ見えてきました。


終わりに(よく読まれているnote紹介)

最後まで読んでいただきありがとうございます!自分の核になっている部分はお伝えできたかと思います。このnoteを通して、様々な人と出会うきっかけになればと思っていますので、ぜひ他の記事も読んでみてください。

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