海外で学位を取る見えない苦労(仮)

海外(イギリスとハンガリー・オーストリア)で学位をとった&とろうとしている経験をもとに、海外で学位を取る見えない苦労があることに気づいた。自分の経験はもちろんだが、それ以上に他人(同じ外国人)の話を聞いたりして気づいたことも含む。といってももちろん苦労は人によってそれぞれ違うので、海外にきたら必ずこれを体験する(あるいは体験しても苦労と思う)かどうかはわからないのだが、私が思ったことを記録としてまとめておく(書き終えて、まだしっくりこないのでいつか書き直すかもしれない。ということで(仮)をつけた)。

私の学歴のバックグラウンドで言うと:

  • 学士は日本の大学で取得した。日本人として一浪して入学、その後留年せずに卒業(合計四年)。

  • 修士はイギリスの大学で取得した。外国人として入学、その後留年せずに卒業(合計一年)。

  • 博士号はハンガリー・オーストリアの大学で取得予定。外国人として入学、博士課程の年数が具体的に決まっているわけではないのだが、長めの研究生活をしてそろそろ卒業しそうである(合計五年半ぐらいか)。

ここでは自分が学士をとった時代とその他(ヨーロッパ滞在中)の比較を中心に述べる。

1. 常に滞在する許可がいる

何を言ってるんだと思われるかもしれないが、海外に合法的に滞在するためには滞在する許可が必要ある。日本のパスポートは優秀なので、旅行者であれば多くの国で既に短期滞在の許可をもらっている場合が多く、ビザがなくても旅行が自由にできるが、しかし基本的にはどこの国に行くのにも許可がいる。

当然短期旅行でなく一年単位で留学するとなれば、旅行者ビザは使えないので、パスポート以外にあれやこれや書類を集めなければならない。海外の大学に正規入学している学生は比較的安易で、おそらく大学からの入学許可証とか在学許可証、収入の証明(貯金残高、給料、奨学金など)ぐらいを提出すればよい。もちろん申請先によっては無犯罪証明書を出せと言われたり(例えばオーストリア)、出身国によっては結核などの病気にかかっていないという診断書を提出しろと言われる(例えばイギリス)。他にも移民局から特別な書類を出せと言われたりすることもある。

最初イギリスに留学したときは、ビザ申請のプロセス自体も新鮮だったが、国を変えて何回も何回も繰り返しているとただただ辛い作業である。そもそもこういった書類作成は日本語で書かれていたとしても神経が苛立つような作業だが、それが英語だと尚更そうである。そして今滞在しているオーストリアでは、移民の書類であってもドイツ語でしか受け付けてくれないので、ドイツ語が全くできない私のような外国人も翻訳機を使いながらドイツ語で書類を埋めるしかない。この更新作業が年に一回〜数年に一回来ることで、毎回憂鬱になり、日本で大学生していた頃はこのようなストレスなど全くなかったことに気づく(日本人なので当たり前だが)。

滞在許可がいるのは承知で留学しているので、知らなかったことではないが、これを何回も何回も繰り返す辛さは体験してみないとわからない。特に辛さが増すのが、ヨーロッパ人の同僚に囲まれている今のような状況で、EU国民はEU圏内だと(おそらく)どこにでも自由に住む権利があるので、私のような心配をしなくてもいいし複雑な手続きもいらない。同じ博士課程に在籍していても、私はこういう書類作りに時間をとられ精神的にも疲弊して、さらに毎年お金を払っている(オーストリアだと毎年二万円ほど払わなければならない。おそらくビザの種類によって更新頻度と値段は異なる)。もちろんそんなことは同僚にも話さず、同じように振る舞っている。

同じように振る舞っているからと言って、同じではないのである。最初数回のビザ申請や更新を経験した当時は、この作業自体が自分の私生活や研究に影響を及ぼしていると考えていなかったが、最近ではこのせいで不安になって、なぜか研究のやる気が出ないとか仕事を先延ばししてしまうという現象が起こっているような気がする。ここでは滞在許可のことだけを書いたが、他のことでも外国人である故に特別な書類を作らなければならなかったりすることは多々ある。

ちなみにヨーロッパ人に囲まれているとはいえ、私のように第三国から来ている同僚は他にもいて、むしろ自分は日本人だから外国人としては相当優遇されていると思う。しかしここではあえてこの苦労を書いておく。海外で学位をとるということは、学位をとる以前の生活のための基盤作りに時間もお金も精神的労力も取られる。

2. 日本人としてのアイデンティティが揺らぐ

これも何をいっているんだと思われるかもしれないが、海外に長く滞在していると自分と日本との関係性が揺らぎ始める。ここでいう日本というのは、国の「日本」もそうなのだが、日本にいた「これまでの自分」も意味する。特に学位をとるということで、自分の思考に深く外国の文化や外国のものの考えというものが侵略してくるような環境にいると尚更である。

むしろそれがしたくて海外に来たんではないのかといえばそれはそうなのだが、イメージしていたのと違うという感じである。当初イギリスに留学し、博士課程の二年ぐらいまでは、英語が徐々に上達し、自分の考えや言いたいことを外国語で表現できるようになってきたという、なんとなく想像していたような留学生活だったのだが、三年目あたりから英語上達の壁を感じるようになり(これ以上は上手くならなさそうという感覚)、予想外だったのは日本語の表現能力がガクッと落ちたことである。一応、このブログも五年ほど定期的に書き続けているので、外から見た感じはあまり変化がないかもしれない(もともと私の日本語は変だと言われることが多かった)。

問題は内的な直感であって、日本語を話したり書いている時に、母国語話者としてしっくりくる感じがだんだん減ってきていることである。そうなってくると自分の感覚に対する自信がだんだんとなくなり、いろんなことに大して「確信」というものが持ちづらくなる。例えば、日本で勉強していたときは明らかに「これが面白い」とか「いい質問だなぁ」とか、すごくはっきりとした確信的な何かがあったのだが、これがだんだんわからなくなってきた。留学初期は言語的な理由で周りが何を言ってるのかわからないことはあったが、これとはまた別の話である。

思えば本当に日本語を使わなくなってしまった。留学初期はまだ日本から離れて数年だし、日本語が恋しくて日本のメディアばかりみていたのだが、こちらに生活の基盤が移ってくると日本語ばかり聞いたり読んだりするわけでもない。毎日話す言語は英語、そして挨拶程度のドイツ語ぐらいである。一年のうちに日本語を喋っている時間は凝縮したらしたら一週間分もないんではないかと思ってしまったりする(流石にそれは言い過ぎか?)。

自分は、日本に国籍があって四半世紀以上日本で暮らした歴とした日本人である。けれども、感覚としてどんどんそれが薄れ始めている。かと言ってもちろん今住んでいるオーストリアのことは何もわからない。なんだか年々どこにも属さない真の外国人(日本にいても何か違う存在)になりつつあると思う。

海外で学位をとることによって、言語習得や文化への適応を通して、自己の既成概念を壊して日本で得られない経験をすることは間違い無い。しかし既成概念を壊すとはそれまでゆっくり培って来た信頼の基盤みたいなのを壊すことでもあって、これに頭を悩ましていることにより研究により一層時間がかかってしまう気がする。例えば同じ英語を使う研究者になるとしても、日本で学位をとって英語で発表するスキルを培うのでは、同じようなアウトプットでも全く異なる作業であると思う。


滞在許可とアイデンティティの話を云々書いてみたが、あまり伝わっているのかわからないし、自分もいつか書き直すか更新した方がいいような気はしている。詰まるところ言いたかったのが、日本にいたら考えもしなくてよかったことに頭を悩ませて、それが一見直接は研究と関係のないことだから外から見えづらい苦労だと思った。言語がわからない、文化に適応できないというのはよく聞く話だし、生活に関わる根幹なので非常に重要な部分なのだが、それ以外に私が思った留学の難点は上記の2点にあると思う。

ちなみに留学したことを後悔したことは一度もない。しかし留学初期の頃なんとも思わなかったことに関して、だんだん苦労を感じることになって来た。それは自分の経験もそうだが、同じ外国人の知り合いと話すことで認識してきたことである。自分に対していうのも変な感じだが、そもそも生活するだけで大変な海外生活において、学位を取ろうと思っているだけですごいなぁと思う。最近将来が不安になったりすることで、論文の執筆や査読などやるべき仕事を後回しにしていたのだが、そういう最低限なところを自分で認めてあげるのは大切だと思う(ということでもし同じような感じで留学して辛い人はすでに素晴らしいし、これから挑戦する人もまたすごい勇気だと思う)。