国境、資本主義のアカデミア、寿司は作らない

国境

コロナの外出規制がヨーロッパ中で始まってからすぐに国境が閉まった。日本に住んでいると島国だから国境を意識することはないに等しいと思うが、陸続きのヨーロッパだとある地点からいきなり道路標識の言語が変わるので、境目を超えたんだなと日常的に感じることができる。

三月頃から長らく国境は閉まったままだったが、五月か六月頃にはヨーロッパ内だけだが国境が開いて自由に行き来できるようになった。私もEU市民でないとはいえ居住者なので、パスポートと滞在許可証があればどこに行ってもかまわない。とは言えヨーロッパ外から入ってくることはできないので、自由に日本に帰ったりヨーロッパに戻ってきたりすることができるわけではない。

明後日の日曜日に隣国オーストリアのウィーンに引っ越す予定だが、今は国境が開いているので電車で移動する。ちなみに電車の場合は国境を越えると電光掲示板の表示言語だけでなくアナウンスの言語が変わるのでとてもわかりやすい。

個人的な事情でオーストリアの滞在先を決めるのに困難があり、今も解決はしていないがとりあえず先一ヶ月の目処はついたところだった。そんな中、ハンガリー政府が九月一日からハンガリーの国境を閉めるという制限をかけると発表した。国境を閉めるとどうなるかと言うとまた三月に逆戻りで、ハンガリー国民(及び家族など)しか入国不可である(正確には最初の制限よりはもう少し緩くて合理的な理由があれば入国できるらしいが、今のようには自由に移動できないのは明確である)。

国境って面倒くさいなと思う。特にヨーロッパにいると、100mしか違わなくてもある地点から別の国に変わってしまう。国境を閉じる理由はコロナの感染者数が増えている&感染源は諸外国からくるという理由づけで真っ当なのだが、陸続きの利点を生かして近隣諸国で仕事をしている人もいるので、国境が閉じられると本当に困ってしまう(旅行者が我慢すべきなのは個人的に賛成だが)。私もウィーンとブダペストを行き来する可能性があったので、もしかしたらとても困る状況になるかも知れない。

九月一日から有効の政令だから私の移動中には何も起こらないことを信じたいが、万が一国境で何かを問われてオーストリアに入国できないかも知れない。入国できたらできたで次はハンガリーの国境が閉まるからハンガリーに帰れなくなるかもしれない(オーストリアで滞在許可がもらえればいいが、うまくいくかわからない)。それでも大丈夫、最悪は国籍のある日本に帰ればいいだけなのだからと考えても、自然と頭の中に起こるかもわからない最悪のシナリオが湧いて落ち着いていられない。

特にここ最近の日常レベルで自分の行動や思考を見返してみると、果て私は何をしているんだろうか、もしかして博士課程が終わらないまま日本に帰ることになるのではないかと思い始める。外国人として生活しているから、土地の人よりも滞在許可をはじめとした諸々の外国人であるための手続きに追われて、それだけで一日が終わったりすることもザラである。明らかに内在的に抱えている不安の量が年々大きくなる。日本で研究してたらこんなこと考えなくていい。研究の時間が減るだけでなくて気力も体力も削られるので質すら下がっている気がする。

世界の国境がなくなればいいのになと思う。まるで日本で日本人として暮らすようにヨーロッパで日本人として暮らしたい。もちろんそれは夢物語で叶うことのない願いだとはわかっているけど。

資本主義のアカデミア

Facebookで同僚(ハンガリー人)の一人がアカデミアへの失望を投稿した。科学者に憧れてこの世界に入った。研究は「物事を知りたい」純粋な人たちが集まって、みんなで協力しあってあれこれ工夫を凝らし、その先に新たな発見がある。そんな世界を夢見ていたけど、実際入ってみたら「論文何本持ってる」とか「どこの(インパクトファクターの高い)雑誌に載った」というような競争、孤独な研究生活、環境の違いによる不公平。恵まれた人だけが勝ち進んでいく世界。

これを読んで他の同僚から共感とかマイルドな批判のコメントなどが寄せられていたが、私も改めて自分の行動を含めて振る舞い方を見直したいと思った。私が大学にいる限り感じるのは、研究者一人一人を見るとこう言うことを行おうと思ってやってる人は少ないと思う(そう言う人がいるのも事実だが)。しかし、意図をしていない彼らの振る舞いが結果的にそのように認識されているということはしばしば起こっているように思う。

この投稿を書いた人は家族の中で初めて高校をまともな年数で終え、初めて大学(そして博士課程まで)進んだ女性である。加えて内向的な性質を持っている(と自分では思っているようだ)。私自身は自分が裕福な家庭で育ったとは思わないが、親が大学院に行っているしアカデミアへの理解があるため、たまたまアカデミアに所属しやすい環境にいたのは間違いがない。私は人と話すのが好きだが、この性質もたまたま昨今のアカデミアに好まれやすい(ただしどの世界もそうだが、話すのが好き=コミュニケーションがうまいと言うわけではない)。

どちらも私たちが選んだわけではない。家庭に関して選べないのは明らかだが、自分の持っている性質だってなりたいと思ったようになれるわけではないのはある程度理解してもらえることだと思う。環境が違うときっと同僚には有利で私には不利なところもあるだろう。

その投稿の後にイラン人の同僚が「自分もアカデミアのビジネスにはうんざりしている」と前置きした上で、自分のバックグランドを書いた。国でまともに教育を受けれなかったこと、三年も国から出ることができなかったこと、今は国に帰ることができないから外国にい続けなければならないことなど。でも自分はグローバルスケールだと"priviledged(優遇されている)"だと。国に帰れば、自分より優秀かもしれない友達が国から出ることすらできない状況にあると。

私は昔アカデミアは競争だからいいんだと思っていた。競争するからお互い切磋琢磨していいものが出来上がるのではとすら思っていた。しかし競争というのは同じスタートラインに立って初めて意味がある気がしてきたのだ。己の力のおかげでもなんでもなく、たまたま前にいるだけの人間が後ろにいる人間をみて「競争こそが正義」というような態度をとるのは如何なものだろうか。それが結果、何気ない日々の行動に現れて自分が思いも寄らない形で解釈されている気がする。

なんだか知らないがアカデミアに残れているのは自分の力だと錯覚しがちなする。例えば研究費や奨学金を勝ち取るとか、論文が雑誌に載るとか、その成功が一個人に目に見えた形で還元されるからかも知れない。大企業だとよっぽどのことをしない限りは個人の貢献が目に見えることすらないように思う。

経済活動が資本主義中心で回っているので結果的にアカデミアも資本主義的にならざるを得ないのだろう(だってこれで食ってるんだし)。だからどれだけ喚いたって資本主義的なアカデミアに向いている人が残ってどんどん成果は出るのだろうが、そういう人だけが考える多様性のない研究環境ってつまらないなと思うし、私はそこにいない気がする。

寿司は作らない

外人はよく勘違いをしているが、私たち日本人は寿司を作らない。と言うか作る人がいるのは承知しているが、日本で生まれ育った私が思い返すに、母が巻き寿司を作ってくれた記憶はない。あるかもしれないが覚えていない。握り寿司に至っては間違いなくないと言い切れる。

もちろん寿司は食べる。回転寿司にも行くし、スーパーの寿司セットも食べるし、たまにはちょっと高いお寿司屋さんにもいく。だから寿司は私たちの身近にあるけど自分で作るものではない。一人のために作るのがめんどくさいのは当たり前だが、友達と一緒にいるときでさえ「お寿司作ろっか〜」と考えたことすらない。

しかし私はヨーロッパにいる日本人。外人が喜ぶからたまに寿司を作る。何が嬉しいのかわからないが寿司は特別な料理に見えるようだ。カラフルな見た目のせいか、日本というブランディングのせいか、全くわからないが。ベジタリアンが多いのでなんだかよくわからない野菜が挟まっていたりするが、それもご愛敬。

でも国境を越えて母国を代表するような料理が知れ渡っているのはすごいなと思う。もちろん完全に日本と同じ寿司があるわけではなし、その味が好まれるわけではないのだが、それでも翻訳されずに"Sushi"という名前のままそれなりに原型をとどめたものが異国にも存在するだけで、改めて考えると感動する。食は国境も越えるのだ。