教えないという職人の伝統・学際的な研究について

今さっき大きなグラント(科研費)の会議があり、そこの発表の一部を担当することになった。セッションのテーマが「教えること(teaching)」だったので、まさに博士の研究課題が教える(および学ぶ)ことである私に話が回ってきたわけである。

と言っても私はまだ三年生(日本の博士課程の感覚だと一年生〜二年生の途中という感じだろうか)、自分のデータで何か提案できるわけもないのだが、今回の会議はビッグアイデアミーティングといって、これまでにある科学的な証拠を元に発表して議論しようという場ではなく、むしろ自らの経験とか特定の場面を例にとり観察することによって、まだあまり研究されていない分野についての研究課題や問題点などに話そうという目的である。

こういうタイプの会議が日本で、というか科学コミュニティーでどこまで一般なのかはわからないが、私は初めて参加して非常に面白いと思った。もちろん研究問題を生み出す会議なので、どこにも答えがなく、教授陣から博士の学生まで自由に議論してあれこれ考えるという場所である。

このグラントは大きく四人のPI(Principle Investigator / 研究代表者)がいてあ、そこのラボの人が集まって学際的に同じ研究課題にアプローチしてみようという試みである。集まっている構成員のバックグラウンドとしては、主に認知科学(認知心理学・発達心理学)、動物学(霊長類学)、人類学、哲学と言った具合である。

みんなの興味は共通して、どうやって社会的なこころが構成されるのか、どのように協働し、コミュニケーションをして、大きなスケールでは文化を伝達していっているのかということである。その中で今回の話の中心は「教える」という行為に注目することになった。

これまでの実証的な研究は、西洋的な「先生と生徒」や「学校」のような教える人、教えられる人がいて、教える人は教えるために行動を変えたりする(例えば動作をゆっくりしたり、特定の動作を誇張したりなど)ことが知られている。確かにこれは教えることになるだろうが、さてこの教えることは技術や文化の伝達において本当に必要なのか?という問いである。

今日話したことの内容があまりにも多岐に及びすぎて、もはやここに書ききれないので自分の担当分に言及するが、私が担当したのは「教えないという技術伝達」、つまり日本でよくある職人の伝統の教育(?)方法である。

この大工さんもいっているが、技術は教えてもらうというよりは盗むものであって、先人の作ったものを見て真似して技術を高めたという。日本人としてはよく聞く話だと思うので、特に新しいことでもないと思う。ちなみに教えない伝統は世界中で職人一般ではよく見られることだそうで、日本の職人特有ではない。

単なる観察や模倣だけで技術獲得ができるのではないか?というのが私の担当分の質問で、私の担当分というのは私が別に一人で思いついたのではないのでそう書いた。発表後に何人かが面白いといって私に近寄ってきてくれたが、私だけで考えた問題提起でないので何とも微妙な気持ちだが、もちろん興味がある話なので、ありがたく一部自分の手柄としておこう。

この発表の後にももちろん議論があって、「師匠の観察ができる(観察させてあげている)状況が教えてることになるのでは」とか「職人になりたいという物凄く強いモチベーションがあれば教える行為が技術の獲得に不要なのでは」とか「とはいえ道具の使い方ぐらい教えるんじゃないのか」とか色々話は出たがもちろんこれに答えが出るわけでもない。

私が面白いと思ったのは、こういった一連の議論を多角的な側面から考えて見ることができたというのもあるが、特に興味を惹きつけられたのは会の最後の方で話になった、学際研究の話である。

最初に述べたように、このグラントは四人のPIによって運営されているプロジェクトなので、それぞれの興味は近いとはいえ、方法論も全く違うし、具体的な研究課題の設定の仕方も違う。つまり何を面白いと思うか(価値観)が違うのである。

一人の哲学(および人類学)の先生が「科学的な証拠を提示されて、ほらこの現象はあなたの研究課題に関係ありますよと言われたって、そんな押し付け知ったこっちゃない」というコメントが割と辛辣で自分に刺さった。文化人類学などでは、ある技術のある地域のある特定のコミュニティで伝達されてきた技術などを研究しているが、そこに科学的な知見(多くはどの技術に当てはまるような普遍的な傾向)を持ってこられて、その一般性の高い解釈を持ってこられたって知らないということである。

つまり文化人類学者などのフィールドワークをしている人々が普遍性を求めず、彼らがある特定の分野にのみ限定して研究しているのは、それには理由がある(そこに価値を見出している)わけである。それを自分の専門分野の論文しか読まずに、勝手に自分の興味にひきつけて学際研究しようって言ったってうまくできないでしょうという。つまり、このプロジェクトだって全然うまく言ってないという話だ。

この先生は別に科学的な知見が無意味で興味がないと言ってるわけではない。人類学の方から科学へ、科学の方から人類学への貢献を考えないと生産的でない、それを考えているのか?ということである。分野間でお互いが心の底から興味がもてる内容でなければ学際研究の意味がないという。

私が日本にいた時にも、大学卒業後、「こころ」をテーマにした学際研究センターで働いていたが、確かに形式上は心理学者、宗教学者、神経科学者、哲学者など色々集まっていたけど、本当にどこまでぶつかり合って学際研究をしていたのかというと、かなり微妙な気がしてきた。

もちろん分野間での共同研究はあったから、完全に各自が独立に研究しているわけではなかったが、何となくどちらかがどちらに合わせて行われている、ある種無理のある形が多かったのではないかなと思う。それだけに、研究者の間で学際研究というのは響きはいいけれども自分がやるとなるとうーんとなる人が多いのだろう。

私が特に今回心に刺さった哲学の教授のコメントと、それに対して本気でやり合ってる他の教授たちの議論を見てると、なんか私は本気で(こういうとクサイが命をかけて)サイエンスをしている人たちの中にいるんだと思った。私は日本の大学院を出ていないから、大学院での教授の様子を知らないが、少なくとも同じプロジェクトを運営する教授同士が思いっきり言い合ってる場合に出くわしたことはない。

だからなんだっていうわけなんだが、私は何だかその議論を聞いていて心の底からワクワクしたのである。私は本気の人たちに囲まれているんだなと思った。長らく身が入らない博士生活だったのだが、だんだん自分の人生として歩めるようになってきて世界がまわり始めたように思う。