妻が「◯◯ちゃんのママ」と呼ばれるのが嫌だった話
「ママ友から”◯◯ちゃんのママ”って呼ばれるじゃない?本当は名前で呼んで欲しいのよ。職場だと名前で呼ばれるんだけど、あれって嬉しいの」
こないだの金曜日の夜、ふたりでポッドキャストを収録したときに、妻がポロッとそんなことを言ったんです。
「子育てをしていると、自分が自分でなくなっていくような感覚があるのよ。本当に自分はこれを望んでいたのかなって」
妻はそれを”アイデンティティの欠落”と呼んでいました。
「◯◯ちゃんのママ」と呼ばれるとき、そこには妻という人間が主体ではなくて、あくまでも子どもが主体であって、妻は”ママ”という役割を担っている存在に過ぎない。
そんなことを感じてしまうそうなんですね。
そして、それが自分の”アイデンティティ”を見失いそうになる象徴であると。
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妻は子どもが3歳になるまでは保育園に預けないつもりでしたが、2歳になる頃に「これ以上、家にいるのはムリ」と、まず仕事を決めて、そのあとに保活をして子どもたちを保育園に預けたんです。
妻にとって仕事をすることは、”ひとりの人間として尊重される”経験でもあったそうです。
「◯◯さん」と自分の名前で呼ばれ、「ありがとうね」と同僚から感謝の言葉をかけられる。
ぼくにとっては当たり前のこのやりとりが、妻にとってはとてつもなく嬉しかったそうで、そのやりとりのなかで”自分が生きている実感”を感じることができたそうなんです。
ただ名前で呼ばれたり、人から感謝されることって、ぼくにとってはあまりに普通のことだったので、ちょっとびっくりしたんです。
そんな当たり前のことで嬉しいと感じるんだって。
子育てって、子どもの成長を一番近くで見られる喜びに満ちたものではあるけれど、一方で自分という人間の”アイデンティティ”が音を立てて崩れていくものなのかもしれないですね。
誰かのママという認識しかされず、誰かの役に立てているという実感のない日々。
”アイデンティティ”の定義は人それぞれだと思うけど、妻にとっては仕事が自分のアイデンティティをたもつひとつの手段だったようです。
ぼくも「◯◯ちゃんパパ」と呼ばれることがあるんですが、あんまり嬉しくないし違和感があるんですよね。
自分が”パパ”という役割の中に閉じ込められて、ぼくという人間を見てもらえていないような、そんな気持ちになるです。
言っている方としてはそんなつもりはないと思うんですよ。ただ、名前を知らないし、あえて聞くこともないかなってことだと思うんです。
なんの悪意がないことはわかるんだけど、やっぱり寂しいんですよね。これって、妻からパパと呼ばれる違和感に似ているのかもしれないです。
ぼくという存在を認識してもらえてないような寂しさがそこにはあるんです。
妻が「◯◯ちゃんのママ」と呼ばれるとき、同じような寂しさを感じているのかもしれないです。
◇
「◯◯ちゃんのママ」と呼ばれることで、”アイデンティティが欠落する”というのは言い過ぎだという人もいるとは思うんです。
たかが呼び方の問題だろと。
でも、やっぱりこの呼び方は”主体が子ども”なんだと思うんです。
あくまでも子どもが中心にいて、その横で子どもをサポートしている人が”ママ”という記号で呼ばれている。
だからこそ、「◯◯ちゃんのママ」という言い方になるんだと思うんです。
こないだ、ご近所さんのお家でお酒を飲む機会があったんですが、ぼくらを入れて3家族集まったんですね。
とても気が合って仲良くなったんですが、途中で妻が他の家族のママさんに「ねぇ、なにちゃん?なにちゃんなの?」って聞いていたんですね。
言われたママさんは「え?だれのこと?わたしのこと?わたしの名前のこと?」ってすごいびっくりしていたんですが、そこからはお互いに下の名前でちゃんづけで呼び出して、一気に距離が縮まったんですね。
ぼくのこともあっちゃんとかあっくんと呼んでくれるようになって、なんだか小学生時代の友だちみたいな距離感が生まれたんです。
本当はみんな、ちゃんと自分の名前で呼んで欲しいんじゃないのかなって思うんです。
保育園や小学校に行っても、保育士さんや先生からママとかパパと呼ばれるし、そこのママ友からもそう呼ばれるけど、だけど、本当はそんな呼ばれ方、誰も望んでないんじゃないかなって思うんです。
そして、ママやパパという記号にくくられることで、自分という人間を見失いやすくなっているんじゃないのかなって。
記号にくくられることで、無意識のうちに”アイデンティティが崩壊するストレス”を感じているんじゃないのかなって、そんなことを感じた出来事でした。
この話はポッドキャストでも話しているので、聴いていただけると嬉しいです。
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