見出し画像

仕事観は“引退観”に表れる。役者のように声がかかるうちは働くという思考。

その人の仕事観を測るときに一番わかりやすい質問が「引退」についてどうかんがえているか、だと思っています。先日自分にすごくしっくりくる引退観だと思ってtwitterでつぶやいたのが以下。遠山正道さんの引退観です。

該当部分を引用すると以下になります。

内田:最後の質問ですが、いつまで、自分が発案者になるやり方でやり続けるのか。別の言い方をすると、自分が死んだら、この企業体は終わりでいいと思うのか。逆に、自分の名は「昔、遠山さんという人がこの企業グループを作ったんですよ」と残る程度で、勝手に存続する組織になってほしいのか。どちらに近いのでしょうか。
遠山:今はブランドごとに責任者がいて、「自分がやらないと、そのブランドがつぶれる」と思いながらやってくれているので、私がいてもいなくても、1個1個自立していけるのがいいと思います。
たとえとして適切かどうかわかりませんが、役者の寿命は人が決めるものですよね。役者本人が死ぬまで舞台に立ちたいと思っていても、お客さんからお声がかからないのに、舞台に立ち続けるのは醜悪なだけ。
ずっと継続することに価値があるとは思わないのです。結果として続いたらいいし、誰かが引き継げばいいけれども、価値がないなら潰れればいい。そのときは解散して、またそれぞれが自分のやり方を見つければいいと思います。

役者という例えは、ものすごく示唆を与えてくれます。いつまで続けるのか?ではなく、いつまでお声がかかるのか。いつまで自分が役に立つことがあるのか?できなくなったらその時は自然に引退すればいいし、できるうちは最善を尽くせばいい。そう考えるとしっくりきます。

最近は、なんでも自分の意思で計画的に決めるということが尊ばれる傾向があります。人生100年時代とか、老後資金とかそういう話の流れから引退どうする?という話の流れになっているからなのかもしれません。

しかしこのように「市場」や「需要」に任せてしまって、あとは夢中で突っ走るという考え方も見直されてもいい考え方です。頭でっかちに先のことを考えすぎるのではなく、目の前のことに集中して突っ走る。それはそれで真理です。

そもそも人生設計、ましてや寿命なんてコントロールできると思い込んで計画しすぎること自体、生命に反した行為なのかもしれないですね。

そういえば以前に以下のようなことも書いていました。

さて、今週は以上です。仕事は充実感を得る楽しみの一つですからね(^^)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?