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2019年に読んだ本のまとめ4

今回も,2019年に読んだ本について紹介したいと思います。今回のテーマは「科学」と「大学」です。

日本の科学の危機

最近流行のテーマのひとつが,「日本の科学をとりまく現状が危ないのではないか」というものです。この本『科学立国の危機—失速する日本の研究力』は,著者がこれまでBlogなどで発表してきた日本の科学関連データに基づいて書かれているものです。

最近の日本の科学技術政策は,基本的に「選択と集中」です。しかし,この「選択と集中」が,今の危機を招いた最大の原因だろうと考えられるのです。

日本では東大にものすごい資金を集中していて,そこから下の大学に回る予算は一気に少なくなっていくという,もともと急激な予算配分になっています。そして,その他の予算についても傾斜配分をすると,富める大学はますます富み,貧する大学はますます貧するということになりがちです。

 論文数について言えば,世界の大学の500位以内に入ろうとすると,一定の質が担保された論文を最低でも年間1000件産生することが不可欠です。そのような大学は,日本ではたった15大学しかありませんが,韓国は25大学(人口1億で調整すると50大学),ドイツは39大学(人口1億で調整すると49大学),米国は127大学(人口1億で調整すると39大学)あります。世界大学ランキングでボロボロの日本の大学を韓国やドイツや米国並みに立て直すためには,日本の急峻な大学格差のカーブを韓国やドイツや米国並みに近づける必要があります。
 日本の政府の今までの大学政策は,全体の高等教育予算の抑制下のもとでの「選択と集中(≒メリハリ)」政策でした。大学ランキング100位以内に10大学を入れるという政府の目標も,財政抑制下では10大学以外の大学の予算を削減して,10大学に集中させるということになります。このような「選択と集中(≒メリハリ)」政策は図表2-19の日本の急峻なカーブをさらに急峻にするということになります。十二分に「選択と集中」がなされている日本の大学に,さらに輪をかけて「選択と集中」政策をしても,韓国やドイツや米国のカーブからはますます遠ざかることになり,世界の大学と戦えないことは自明ですね。また,「選択と集中(≒メリハリ)」政策に伴って,大学の評価に相当な労力と予算を投じて,評価結果に基づいた予算の傾斜配分も行われるようになりましたが,限られた予算を大学間で移動させているだけですから,日本のカーブが韓国やドイツや米国のカーブに近づくはずがないことも自明です。(p.138-139)

そもそもそれが,現在の危機を招いている元凶なのではないでしょうか。

科学を殺すのは誰か

こちらの本も,基本的には選択と集中への批判が中心になります。『誰が科学を殺すのか—科学技術立国「崩壊」の衝撃』です。

「絶対に儲かる投資」というフレーズは,詐欺の常套句ですよね。こういうフレーズには絶対に引っかかってはいけません。でも,日本の科学政策というのは,基本的にこれなのです。

 「必ず当たる馬券」を買う方法が存在しないのと同様に,「必ず成果を出せる研究」も存在しない。選択と集中に対するこうした批判は,非常に的を射ていると言えよう。
 ある政府関係者も「失敗もあり得るハイリスクな課題に挑戦しながら実用化も目指すというのは,そもそも矛盾している」と吐露する。
 ところが,政府は「選択と集中」をさらに強直に推し進めている。(p.89-90)

これがダメなのは明白なのですが,どうしてもやめられない。やっている人も,薄々気づいているのにどうしてもやめられない。これが一番大きな問題なのではないでしょうか。

大学の迷走

さらに暗い話が続きます。次は『大学改革の迷走』です。

この本を読むと,科学政策どころか大学をとりまく政策そのものが「素人たちが何となく考えること」に支配されていることがわかります。

たとえば大学の授業で「シラバス」を書くことがあたりまえになっていて,年々そこに書かなければいけない項目が増えているのですが,実はその根拠がとても曖昧なところからスタートしているのです。アメリカの大学での授業の「シラバス」と日本の「シラバス」とは,似ても似つかないものになってしまっています。

また日本の大学でよく聞く「PDCA」です。いったいどこからこの言葉が出てきて,あたりまえのように広まったのかという部分を読むだけでも,背筋が寒くなってきます。実際に日本で起こっていることなのですが,ほとんどホラー小説のように思えてしまいました……。

寒い季節に背筋が寒くなるのもどうかと思うのですが,これは日本全体で起きている問題の縮図だと思いました。ぜひ読んでみてください。

科学を発見するプロセス

暗い話が続きましたので,科学を発見するという素晴らしい偉業を達成した人類の歴史をふりかえってみましょう。『科学の発見』という本です。

人類が長い間取り組んできたのは,天体をどのように捉えるか,物理現象をどのように捉えるのかという問題です。

たとえば,現在も身近にあるのはカレンダーです。これがまた厄介な問題です。なぜなら,1年の日数がきっちり「日」で区切られていないために,少しずつズレていってしまうことにあります。

 もう一つのよく知られた難問は,一年の日数自体が整数ではないことである。そのため,ユリウス・カエサルの時代に,閏年が四年に一度設けられるようになった。しかし,これがさらなる問題を生み出した。一年は厳密には365と4分の1日ではなく,それより11分短いのである。
 こうした問題を解決する暦を作ろうという試みが,歴史上数え切れないほどおこなわれてきた(多すぎて,とてもここでは述べ切れない)。中でも重要なものは,紀元前432年アテネのメトン(エウクテモンの研究仲間だったかもしれない)によって加えられた改良だった。おそらくはバビロニアの記録を使うことによって,メトンは,「19年はほぼ正確に235太陰月」(誤差はわずあ2時間)であることに気づいた。1年ではなく19年をひとまとまりとする暦を作れば,季節と月の満ち欠けの両方を正確に表すことができる。この暦は19年周期で繰り返される。しかし,19年はほぼ235太陰暦に等しいとはいえ,それは6940日よりもおよそ3分の1日短い。そこで,メトンは,19年周期の何回かに1回,暦から1日を除くという操作をおこなわざるを得なかった。(p.91-92)

今あたりまえになっている知識も,人類が信じられないほど長い期間をかけて積み上げてきたものに基づいています。そして,今は「科学」とされている,医学も生物学も,心理学もその他の社会科学も,それが成立したのは「つい最近」だということもよく理解できます。ずっと人類は,「すぐそこにある目に見える現象」の本質を見極めようと格闘してきたのです。その背景にある大きな要因のひとつは,私たちの「視点」です。

そういったことも踏まえながら読んでもらうと,理解が深まると思います。

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