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【読書】『科学の人種主義とたたかう』

キャリブレーション(calibration)という言葉があります。工学系の言葉で,「計器の目盛りを正しく調整すること」とか「 規格や基準に整合するように調整すること」といった意味です。

今回紹介するような本を読むと,時分の認識が「キャリブレートされた」と感じるのですよね。そういう本です。

というわけで今回は,『科学の人種主義とたたかう: 人種概念の起源から最新のゲノム科学まで』(アンジェラ・サイニー著)を取り上げたいと思います。

ネアンデルタール人

ネアンデルタール人は教科書にも載っていますので,誰もが名前は知っているのではないでしょうか。約40万年前に地球上に広まって,約2万年前に絶滅した,私たちに近い人類です。

その昔,オーストラリアの先住民族やアフリカの人びとは,「ネアンデルタール人に近いんじゃないか」と言われたりしていました。それは裏を返せば,「そういった人びとは旧人に近い,我々(ヨーロッパ人)とは違う劣った人びとだ」という意識の表れです。

ところが2010年に,ヨーロッパの人びとのDNAには,ネアンデルタール人から由来するものが数パーセント含まれるという発表がされたのです。そして,どうなったか。

ところが,ものの10年間に,現代のヨーロッパ人との遺伝的関連が疑われ,それが裏付けられた途端にすべてが変わったのだ。大衆紙は,これまで過小評価されていた近縁種をめぐって大騒ぎをした。見出しには高々と,「ネアンデルタール人を充分に評価していなかった」(『ポピュラー・サイエンス』),「賢過ぎたことが彼らの仇になった」(『テレグラフ』),「ヒトはネアンデルタール人ほど知恵がなかった」(『ワシントン・ポスト』)と表明された。一方,『ニューヨーカー』誌のある記事は,ネアンデルタール人も乾癬に悩まされたかもしれないという研究結果から,日常生活でもヒトとの類似点があったらしいなどと気まぐれに細々したことを述べた。気の毒に,ネアンデルタール人も私たちと同様に痒がったのだ。「新たな発見があるたびに,彼らとわれわれの距離は狭まるようだ」と,その筆者は書いた。大衆の想像のなかで,家系樹に新たな一員が加わったのだ。(p.46)

ネアンデルタール人に対する価値観は,一気にひっくり返ります。なぜなら,「私たちの中にネアンデルタール人に由来するものが入っているから」です。

でも,ですよ。もしも,オーストラリアの先住民族の中だけに,ネアンデルタール人と共通するDNAが含まれていたら,大衆紙はどういう見出しになると思いますか?こんなにネアンデルタール人を身近に感じて,温かい気持ちで接することになったでしょうか。

実際,ネアンデルタール人は現生人類と交配できたわけですから「われわれ人類の一種」なのですが,今回はヨーロッパの人びととの共通点が見つかったことで,一気にその評価が変わったのです。

分ける

人種というのはなかなか難しい言葉で,多くの場合,明確に定義することなく使ってしまっている言葉でもあります。実際には,異なる人種間の違いというのは明確にカテゴリで分けられるものではなく連続していて,まるで身長の平均値を比べるようなものです。

ある集団の人びとの平均身長が170cmで,別の集団の人びとの平均身長が175cmだとしても,この2つの集団の中にいる全員が,身長差が5cmになるわけではありません。集団間の差よりも,集団内の差のほうが断然大きくて,分布は重なっていて,こちらの方が平均身長が高くても,中には向こうの方が身長が高い人はいっぱいいる,という状況になるのです。

日本人成人の男女の平均身長の差は12cmくらいですが,男性が全員女性よりも身長が高いなんてことはない,ということを想像すればよくわかるのではないでしょうか。

人種もこれと同じように,DNAを調べても身体を測っても,知能でもパーソナリティでも,ある集団とある集団の差よりも,集団内のバリエーションのほうがたいてい大きいのです。いくら肌の色が違っていてもです。人間はまだそこまで住む場所で完全に分断されるほど長いこと地球上に存在していない,とても新しい生物だと言えます。

ラテン系

アメリカにいると,「ラティーノ」ということばをよく使います。南米出身の人びとを指す言葉です。でも,この言葉は何かのカテゴリを表しているようでいて,実は中身がバラバラです。

「ラティーノは,異なる系統が混ざり合ったグループをひっくるめたとんでもないカテゴリーです。そこにはプエルト・リコ人のようにアメリカ先住民の系統はほとんどなく,大半がアフリカで,若干はヨーロッパの系統からなる人びとから,メキシコ人のように,アフリカの系統はほとんどなく,大半がアメリカ先住民とヨーロッパの系統からなるヒトまでが含まれる[……]。これはとんでもないカテゴリーです」(p.215)

アフリカの人びとと,アメリカ大陸に渡った人びとというのは,遺伝的には一番遠いはずです。なぜなら,人類はアフリカ→ユーラシア大陸→アメリカ大陸と渡っていったからです。なのに,同じ「ラテン系」でくくられてしまうというのは,ものすごいまとめ方だというわけです。これは「人種」でしょうか。

科学

私たちは,つい科学は先入観や政治とは関係がないものだと考えてしまいます。しかし,その考え方は間違っています。特に,人間を対象とするような研究の場合には,先入観や偏見や政治とは切っても切れない関係にあります(それ以外の学問でも多かれ少なかれそうだと思うのですが)。

歴史的に人種を研究して擁護してきた人びとも,意図するしないにかかわらず,政治的な立場からそうしてきました。

「科学は決して政治的主張から分離されはしないのです」(p.115)

自分自身,そういうことを考えることはあるので,十分にわかっているつもりです。でも,普段研究をしていると,だんだん気にしなくなっていく傾向があるのですよね。論文を書くのも大変ですし,研究をしている中でそういうことばかり考えているわけにもいきません。

そこで,たまにこういう本を読んで,自分の認識をキャリブレートするというわけです。

心理学者たち

この本には,心理学者たちも登場します。それは本書を読んでいただくとして,人種のことばかりを取り上げる研究誌とか,そこで活躍する研究者たち,そして政治に関与する研究者もいます。特に,保守的な政治からは,この手の研究者たちは重宝される傾向があります。なぜなら,「移民は劣っている」という根拠を与えてくれる存在だからです。

いまでも,「○○人は知能が……」という話が出てくることがありますし,素朴にそういう話題をする人もいますよね。でも,それが何を意味するのかという話になると,素朴に「遺伝でしょう」と考えてしまいがちです。

本の中では,植木鉢の例えが使われていました。国別の知能指数の平均値は,この話と同じようなものだということです。

種の袋を手に取り,その半分を栄養たっぷりの土が入った容器に蒔き,必要なだけの水と陽光が得られるようにする。残りの半分は痩せた土の入った容器に蒔き,水も日差しもほとんど与えない。どちらの鉢でも個々の植物はさまざまな高さまで伸び,一部は丈が高くなり,一部は低くなる。それぞれの鉢の中に見られる違いは,置かれた条件が同じであるためおおむね遺伝による。しかし,最初の鉢ではどの種もその潜在能力を発揮できる機会を存分に与えられている。二つ目では,そうはならず,そのため植物は必然的に丈が伸びず,勢いがなくなる。二番目の鉢では,本質的には一番強靱な種でも,恵まれた方の鉢にある植物の多くと同じだけの高さまで達しないかもしれない。そのため,双方の鉢同士の違いは,遺伝によるものとは言えない。(p.267)

何を意味するかを知るべき

さて,人種というラベルを使わないというのも,難しいことなのかもしれません。あまりに私たちはその考えに慣れ親しみすぎています。ただし本書では,その内容については認識しておきましょうという結論になっています。

やはり,ことばを使うときにはちゃんと意識しながら,意味をしっかり把握しながら使わないといけません。ただ,なかなか難しいことなのですけどね。

「人種には社会的な意味があるのだということを受け入れる必要があるのです」。だからと言って,人種的カテゴリーを医学や科学全般で使うべきではないという意味ではない。しかし,それを使う人は,それがもつ重要性を充分に認識し,それを定義できて,その歴史を知らなければならない。少なくとも,人種が何を意味するかは知るべきだ。(p.337)

ちょっと翻訳が読みにくいところがあるかもしれませんが,内容は面白く,自分の認識をキャリブレートする機会になると思いますので,ぜひ手に取ってみてください。

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