いつもより少しだけ贅沢な休日のランチ

 急に窓を叩く雨音が大きくなった事に気付いた。ぱちんぱちんと不規則だったリズムが今ではざあざあと絶え間なく鳴り響き、休日で普段より人のいないオフィスに僅かながらの変化をもたらしてくる。
 ほぼ無心で叩いていたキーボードから指を下ろし、いつの間にか前傾姿勢になっていた身体を椅子の背に預けると、ぎしりと聞き慣れた軋みの音がする。ガタがきてるなぁ。
 ちょっと休憩しようとマウスの向こうのマグカップに手を伸ばすが、そこで既にコーヒーを飲み干していた事を思い出した。新しいのを淹れようとデスクの引き出しからスティックタイプのインスタントコーヒーを取り出したところで、少し離れたところから声が掛かる。
「おおい、ちょっといいか」
 声の主は直属の上司。うちの会社の管理職の中では比較的若い方なので、多少話しやすい部類の人だ。精力的という言葉がよく似合う。
 うちの部署の今日の出勤組は私と上司の二人だけなので、必然、私を呼んでいることになる。
 空のマグカップとスティックコーヒーを片手に上司の席に向かうと、いつもより少しだけ砕けた表情の上司が待ち構えていた。休日にだけエンカウントできるノーネクタイの姿ももう見慣れてしまった。
 すまんね、と前置きしてから上司はおもむろに話し始める。
「折り入って頼みがあるんだけど」
「厄介な案件でも入ってきましたか」
 休日出勤している部下をわざわざ捕まえるなんて、きっと碌でもない要件に違いない。上司のデスクの上に置いてある使い古された電卓をぼんやりと眺めながら、乗り気でないことが上司に伝わるように、さして興味のない声音を装いながら私は応えた。これ以上仕事が増えたら完全に手が回らなくなってしまう。
「厄介な話というよりは、どちらかというと、お得な話だ」
「お得な話」
 デスク上の電卓に目線をロックオンしたまま、私は機械的に上司の言葉を繰り返す。見るからに年季の入っているその電卓は全体的に退色しており、いくつかのボタンが若干沈み込んでいる。
 私の視線に気付いた上司が電卓の置き場所を微妙に直しながら続ける。
「あと二週間もすれば年度も変わるし、うちの会社にも新入社員が入ってくるんだけど」
「あー、もうそんな時期でしたね」
「そうそう。うちの部屋にも来てくれると良かったんだけどね」
 人事に頼み込んだけど駄目だった、と上司が残念そうに零した。どうやら私はまだまだ、少なくともあと一年は下っ端として頑張っていかなければいけないらしい。
「で、それに関連して、さっき総務からメールがあって」
 パチパチと電卓のボタンを適当に叩きながら上司が続ける。
「社内報に載せる、新入社員への応援メッセージの執筆依頼が私のところに来た」
「よく見るあれですね。それっぽい訓示みたいなのが書いてあるやつ」
「そうそうそれ」
 社会人としての心構えとか報連相の重要性とか、そういう特定の部署に拠らない一般化されたアドバイスの様なものが何倍にも希釈された上で仰々しい語り口で書かれているものだ。多分、全国の会社で同じような内容の記事が量産されている事なのだろう。
「話のネタが思い浮かばなくてな。これでアイデア出しに協力してもらえないか?」
 そう言いながら手にしていた電卓をこちら側に見えるように渡してくる上司。横長の表示スペースの右端に「500」と表示されていた。なるほど。お得な話というのはこういうことか。
「500円、ですか?」
 差し出された電卓を受け取りながら聞いてみる。今日のお昼代にでもしろという事なのだろうか。
「社内報への掲載料は一律500円。うちのロゴが入った特製クオカードがもらえるんだよ」
 ちょっと得意そうな顔の上司。
「少しでも小遣い稼ぎしたい人はそれ目当てで記事書いたりするけど、俺の場合はほら、どっちにしろ書かないといけないから」
 相互利益になるということか。上司としては、避けられない面倒な仕事がさっさと終わる。私としてはアイデア出しの手伝いをすればお駄賃がもらえる。互いに損はない話だ。
 片手で持ったままだったマグカップとスティックコーヒーを傍のデスクにとりあえず置くと、私は渡された電卓を叩いて上司に返す。
「それじゃあ、これでお願いします」
「これで、って……いいのか?」
 提示された電卓を見て上司は少し驚いた顔をした。
「いいアイデアが出るとも限りませんし」
 クリアボタンを押して「0」の表示になった電卓を上司に押し付けてから、先にコーヒーを淹れてきます、と告げて給湯室に向かう。
 さくっとインスタントコーヒーを用意すると上司の元へと戻る。銘柄に特にこだわりはないので、コーヒーの香りがするだけでとりあえず満足だ。
 上司のデスクにマグカップを置かせてもらって、作戦会議のスタート。上司のおやつ用のラングドシャを一つ分けてもらって頬張りながら、まずは要件の確認から。
 新年度一発目の社内報恒例、新入社員への応援メッセージ。総務からの情報によると、他にも何人か同じテーマで書くらしく、うちの上司には少し変わり種の話を期待しているらしい。
「おもしろ枠ってことですか」
「はっきり言わないでくれるか」
 管理職の中では比較的若手である事と上司自身の人柄から、ちょっとした無茶振りが来やすい立場であるのは普段から何となく感じていた。
 そういう意味では、あまり真面目に考えなくても恐らく大丈夫だろう。それこそ上司が言っていたようにネタさえ良いのが出れば、後は上司本人が上手いこと料理して原稿にしてくれる筈だ。
 二人していくつか案を出してみるが、真面目になりすぎるか、あるいは新書のタイトルにもならないような微妙なラインしか出てこない。
 議論は煮詰まり、デスクの引き出しから三つ目のラングドシャが取り出され、猫舌の私でもぐびぐびとコーヒーが飲めるようになった頃、一つのワードを思い出した。
「そういえば、昔、ネットで見た言葉なんですけど」
 マグカップの縁についたコーヒーの飲み跡を指で軽く拭いながら話してみる事にする。
「くぐれるハードル、ってどうですかね」
「なるほど?」
「難しくなることをハードルが上がるって言うじゃないですか。ハードルがどんどん上がっていった結果、その下をくぐれるようになった、っていう言い回しですね」
「ハードルなのに乗り越えないのか」
「そうですね。いやいやこれはさすがに無理っしょ、って感じです。誉め言葉みたいなものです」
「ははあ、面白いこと考えるなぁ」
 十二個入りのチョコレートのうちの一つを口に放り込みながら、上司は楽しそうに目を細めている。明らかに先程までより反応が良い。気に入ったのだろうか。
 ふと気づくと、いつの間にか外から聞こえていた雨の音は止んでいた。フロアにいくつか設置されている加湿器の稼働音がよく聞こえる。
「まあ、ハードルなんてなぎ倒したっていいんだから、くぐったところで全然問題ないよな」
 自分で言って何故かしたり顔の上司。
「目の前に立ち塞がる問題に対して立ち向かわなきゃいけないなんて決まりは無い訳だし、回避するのも立派な選択肢の一つだな」
「なんだか実感がこもってますね」
「そりゃあな。馬鹿正直に全部ぶつかって行ってたら、身体と心がいくつあっても足りない」
 上司のその言葉は少し意外に感じられた。行動力に溢れている普段の姿からはちょっと想像できなかった。
 苦労してるんですね、と声をかけると苦笑いだけが返ってきた。
「ありがとう。だいぶ参考になったよ」
「いえいえ、お役に立てたのなら幸いで御座います」
 敢えて慇懃に返すと、うむ、と上司は満足そうに頷いた。
 ここいらで臨時の作戦本部は解散だろう。既に冷たくなっていたコーヒーの残りを一気にあおると再度給湯室に向かう。ちらりと見えた時計の短針はもう真上を向いていた。マグカップを洗ったらお昼でも食べに出よう。
 水道代を気にせずじゃばじゃばと水を流しながら手早くすすぐ。蛇口から出てくる水は以前に比べてあまり冷たく感じなくなっていた。
 席に戻ると、デスクの上に見慣れた硬貨が一枚置かれていた。いらないと言ったのに。上司の姿は既にどこかへ消えている。
 くれるならもらっておこう。ありがたく財布の中に臨時収入をしまうと、そのままスマホと財布だけ持って表に出る。
 雨上がりの空に虹は掛かっていなくても、気分はどこか晴れやかだった。
 さて、今日は何を食べようか。

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